唐揚げの約束
文化祭の後片付けが終わって、教室はようやくいつもの並びに戻っていた。黒板の隅にまだ「メイド&執事喫茶」の飾り文字が薄く残っている。誰も消し忘れに気づいていないのか、それとも消したくないのか。俺は自分の席に鞄を下ろしながら、そんなことを考えていた。
教室の壁には、文化祭のクラス写真がまだ貼られたままだった。メイド服姿の凛と執事服姿の俺たちが並んで写っている一枚だ。誰かがそれを剥がすタイミングを逃したまま、日常が戻ってきている。
「藤宮くん、これ」
声に顔を上げると、凛がプリントの束を差し出していた。学級日誌の回収係が集めた分を、たまたま隣の凛が受け取ったらしい。
俺はプリントを受け取りかけて、一拍遅れて手を止める。
指先に力が入って、プリントの端が少し折れた。
「......何」
凛が俺の手元を見たまま聞く。
「いや、何でもない」
俺は誤魔化してプリントを受け取る。凛はもう興味を失ったように自分の教科書を開いている。窓際の席、朝の光が凛の横顔にまっすぐ落ちていた。
くん、と凛は言った。屋上でも後夜祭でも、その一文字は落ちていた。
屋上のことも後夜祭のことも、あれから数日、二人の間で話題に出したことは一度もない。俺は片手でプリントの端を折り曲げて、また伸ばした。
「おーっす、遅刻ギリギリ」
教室の後ろの扉から桐生が駆け込んでくる。前髪が乱れたままだ。
「桐生、寝坊か」
「違えよ、母ちゃんに弁当箱返すの頼まれてただけ。近所のばあちゃん家まで行ってから来たんだぞ」
「それ、間に合わなくなるレベルの用事かよ」
「ばあちゃん家、話長いんだって。今日も茶ぁ飲んでけって聞かなくてさ」
「断れよ」
「断れる空気じゃねえの! 茶菓子まで出てきたんだぞ」
「食ったのか」
「食ったよ。最中2個」
食ってるじゃねえか。桐生は鞄を席へ放り投げる。担任の靴音がもう廊下から近づいていた。
「まあ、いいか」
俺は小さく呟いて、プリントの束を教卓へ運ぶために席を立つ。振り返ると、凛はもう窓の外を見ている。
プリントを教卓に置いて席に戻る途中、桐生に肩を小突かれた。
「なあ、秋月さんの様子、最近ちょっと変わってねえか」
「何でもねえよ」
言い終わる前に遮る。桐生が両手を上げて降参のポーズを取っている。
「別に責めてねえって。ただ表情変わったから気になっただけだって」
「気のせいだ」
「気のせいで済ますなよ。文化祭の前と後で全然ちげえぞ」
「見すぎなんだよ、お前が」
「見なくても分かるっつーの」
桐生は自分の目を指差してみせる。その指を俺は払った。
「授業始まるぞ」
突き放すように言うと、桐生はそれ以上追及せず引き下がった。引き下がりながら、まだ何か言いたそうに口を動かしている。
俺は自分の席に着いて、窓の外へ目を逃がす。桐生はしばらくこっちを見ていたが、答えが出ないと分かると肩をすくめてノートに戻った。凛は教科書の同じページを、さっきからめくっていない。俺はもう一度だけ横目で凛をうかがって、プリントの角をそろえた。
* * *
昼休み、いつも通り机をくっつけて弁当を広げる。今日のおかずは卵焼きと唐揚げ、ほうれん草のおひたしを並べた。凛が卵焼きを2切れ、いつもの分だけ箸で取っていく。
「今日も同じ卵焼き?」
「甘口。飽きたか」
「......別に」
凛が短く答えて卵焼きを口に運ぶ。いつもの流れだ。俺は自分の唐揚げを一つ頬張った。教室のあちこちで他のクラスメイトたちも思い思いの弁当を広げている。窓際の席に差し込む光が机の上に細長い影を落としていた。
凛が箸を止める。何か言いたそうに視線が泳ぐ。だが言葉は出てこない。俺は気にせず食べ続けた。
「......明日」
凛が唐突に切り出す。
「ん?」
俺は視線を上げて凛を見る。凛の視線は弁当箱の中で止まっている。指先が箸をきつく握っている。
「......唐揚げ」
声は教室のざわめきに紛れて消えかけていた。俺は箸を止めて、もう一度耳を澄ませる。
「リクエスト?」
確認すると、凛の耳の先がわずかに赤くなった。
「......別に。言ってみただけ」
早口で付け加える。俺は口元が緩みそうになって、唐揚げをもう一つ口に押し込んだ。凛はそれに気づかず、視線を弁当箱に落としたままだった。
「了解。唐揚げな」
俺はできるだけ普通のトーンで答える。凛は小さく頷いて、また卵焼きに視線を戻した。それだけのやり取りで、箸を持つ手から余計な力が抜けていく。
唐揚げくらいで浮かれてどうする、俺は。頬の内側がむず痒い。
「二人して、何にやにやしてんの」
真横から声が飛んできて、俺は箸を落としかける。つぐみだ。いつの間にか机の横に立っている。
「にやにやしてねえよ」
「してるじゃん、二人とも」
「......していない」
凛が即座に否定する。だがその語尾は消え入るように小さくなっていた。つぐみはそれ以上追及せず、口の端だけで笑って自分の弁当を持って離れた席へ戻っていった。
つぐみの背中が完全に離れ席に戻ったのを確認してから、凛が小さく息を吐いた。
「あの人、勘鋭すぎ」
凛がぽつりと呟く。俺は同意するように頷いた。
「昔からああだよ」
「知ってる」
凛はそう言って、少し離れた席で友人たちと話しているつぐみの方をちらりと見た。つぐみはもうこっちのことなど忘れたように、別の話題で盛り上がっている。
凛が箸で卵焼きの最後の一切れを口に運ぶ。俺は残りの唐揚げを口に運びながら、帰りに何を買い足すべきか頭の中で考えていた。たかが唐揚げで、何を張り切ってるんだか。
「唐揚げ、大きめでいいか」
「......大きめで」
凛が箸を弁当箱に戻しながら答える。それだけのやり取りで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。教室のあちこちで生徒たちが弁当箱を片付け始める音が響いた。
午後の授業も、なんとなく上の空で過ぎていった。数学の公式を写しながら、頭の片隅では今夜作る唐揚げの手順を組み立てている自分に気づいて、密かに苦笑した。
* * *
放課後、スーパーに寄ってから帰った。鶏もも肉の中でも一番身の厚いパックを選んで、生姜とニンニクを追加で買う。レジに並んでいる間、頭の中では明日の献立を組み立てていた。
家に帰って、母さんが夕飯の支度をしているところに顔を出す。
「唐揚げ作るのか。珍しいわね、平日に」
「まあ、ちょっとな」
「凛ちゃんの分?」
母さんの何気ない一言に、返事が一瞬遅れる。
「......まあ、そんなとこ」
「そう。じゃあ多めに作りなさいよ」
母さんはそう言って、キッチンを俺に譲ってくれた。鶏肉を切り分けながら、昼休みの凛の耳が赤くなった様子を思い出す。たかが唐揚げのリクエストで、あんなに恥ずかしがることもないだろうに。
衣をつけて油に投入すると、じゅわっという音とともに香ばしい匂いが広がった。二度揚げでしっかり火を通して、油を切る。キッチンには揚げ物の匂いが充満して、リビングにいた母さんが顔を覗かせた。
「すごい匂い。味見していい?」
「一個だけな」
母さんは揚げたての唐揚げを一つ摘まんで、満足そうに頷いた。
「美味しい。凛ちゃん、喜ぶわね」
「......まあ、そうだといいけど」
俺はそれだけ答えて、残りを弁当箱の隅にきっちり詰めていく。
翌日、弁当箱の中身は宣言通り唐揚げが5個に増えていた。卵焼きとほうれん草のおひたしの隙間を縫うように、大ぶりに揚げた一つ一つが敷き詰められている。
凛が箸で唐揚げを1つ取り、口に運ぶ。咀嚼する間、表情はほとんど動かない。だが箸を持つ手が、次の1個へ迷いなく伸びた。窓から差し込む昼の光が、弁当箱の中身をくっきり照らしている。
「......美味しい」
小さな声だった。それだけ言って、凛は次の唐揚げを口に運んだ。
「お前ら新婚かよ」
斜め前の席から桐生が茶々を入れてくる。ノートを広げたまま、こちらを見もせずに言った台詞だった。
「うるせえ」
俺は即座に言い返す。だが反論する語気のわりに、箸を持つ手の力はとっくに抜けていた。周りの席からも、桐生の茶々に気づいたのか小さな笑い声が上がった。
「......うるさいのは桐生くんだけ」
凛が唐揚げを頬張ったまま、ぼそりと言う。俺への援護なのか単に桐生への評価なのか、判別がつかない言い方だった。
「なんで俺だけディスられんだよ」
桐生が心外そうに声を上げる。凛は答えず、また唐揚げの仕切りに視線を落とした。
「秋月さんが藤宮の味方するの、珍しくね」
「......別に、味方とかじゃない」
凛が即座に否定する。桐生はそれを聞いて、意味ありげにニヤリと笑った。
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
「......何それ」
凛が不服そうに眉を寄せる。桐生はそれ以上追及せず、自分のノートに視線を戻した。
最後の1個を凛が口に運ぶ。空になった仕切りの中を、凛は少しの間だけ見ている。教室の喧騒がその沈黙を埋めるように流れていた。
「......また作る?」
顔を上げずに聞いてくる。
俺は少し考えてから答える。
「作るよ。飽きるまで」
「飽きない」
食い気味の即答に、俺は箸を持ったまま固まった。凛はもう視線を教科書に戻している。教室の時計の秒針の音が、やけにはっきり聞こえた。
「なんだよそれ、のろけかよ」
斜め前で桐生が肩をすくめる。凛は聞こえていないふりで教科書のページをめくった。空になった弁当箱の仕切りを、指先でそっとなぞっている。
俺は自分の弁当箱の蓋を閉めた。鶏もも肉、大きめのやつ。明日は少し早く起きるか。
午後の授業が始まるチャイムが鳴る。教科書を出そうとして、隣から声がした。
「......明日の分」
「ん」
「......ちゃんと、大きめの買ってきて」
注文まで来た。返事をしようとしたら、担任が教室に入ってきて号令がかかる。凛はもう前を向いていた。




