後夜祭の手
教室での接客が終わって片付けを済ませた後、クラス全員でグラウンドに移動した。屋上での一件から数時間、俺はまだあの時の凛の涙を頭のどこかで反芻していた。
日が落ちると、グラウンドの中央で組まれた薪が一斉に火を噴く。歓声が上がる。文化祭最終日の後夜祭、キャンプファイヤーだ。
橙色の光が、生徒たちの顔を下から照らしている。誰もが昼間よりも一段くだけた顔をしていて、俺はその輪の外れで、桐生とつぐみと一緒に立っていた。制服のまま火を囲む生徒たちの間を、教師たちも巡回しながら談笑している。
「今日は結局、天丼3回だったな、うちのクラス」
桐生が笑いながら言う。俺は苦笑いで返すしかない。花園先生のメイド服志願が二度も蒸し返されたことを思い出す。
「先生、諦め悪いよな」
「あの人、生徒より生徒っぽいところあるじゃん」
つぐみが呆れたように言って、団扇で自分を扇いだ。火の熱が少し離れたここまで届いている。近くで一年生らしき数人が割り箸に刺したマシュマロを炙りながら分け合っていた。焦げた匂いが混じって流れてくる。
「あれ、美味そうだな」
桐生がそちらを見ながら呟く。
「食いたいなら買ってくればいいだろ、あとで」
「今、実演販売終わってるらしいぞ」
「じゃあ諦めろ」
「そこは『分けてもらってこいよ』だろ、普通」
「一年に集るな」
「集るとか言うな! 交流だって!」
つぐみが団扇の縁で桐生の腕を軽く払った。
「うるさい。声、火の向こうまで届いてる」
「マジで?」
桐生が慌てて口を押さえる。つぐみがそれを見て小さく笑った。
「そういえば秋月さん、今日大変だったんだろ」
桐生がふと声を落として聞いてくる。周りの生徒たちの喧騒に紛れて、その声は俺たちにしか届いていないはずだった。俺は言葉を選んだ。詳しいことまで話すつもりはない。
「まあ、いろいろあった」
「いろいろって何だよ、ちゃんと言えって」
「言わねえよ、お前には」
桐生が不満げに口を尖らせる。つぐみが横から団扇で、桐生の肩を軽く叩く。
「野暮なこと聞くんじゃないよ、桐生。男同士の秘密ってやつでしょ」
「なんだそれ、俺だって蒼太のことなら」
「うるさいから黙ろっか」
つぐみに切り捨てられて、桐生が肩を落とす。
「つぐみ、お前だって秋月さんのこと詮索してただろ、さっき」
「あたしは女子同士の情報網ってやつ。あんたとは違う」
「意味わかんねえ理屈だな、それ」
桐生がぼやくと、つぐみは団扇で顔を扇ぎながら涼しい顔をしていた。俺はその横で、グラウンドを見渡す。
凛は少し離れた場所に立っている。まだメイド服のままだ。着替える暇もなかったんだろう。屋上でのことから数時間が経ち、あの涙の跡はもうどこにもない。いつもの無表情だ。ただ、さっきから何度か、凛の視線が俺の方をかすめていく。目が合うと、すぐにそらされる。
クラス委員の号令で、火の周りに人が集まってくる。どこかの誰かが持ち込んだスピーカーが、正規の放送とぶつかって変な二重奏になっていた。実行委員が血相を変えて駆けていくのが、ちょっと面白い。
火の粉が一つ、また一つと夜空へ上がっていく。薪が崩れて、パチッと乾いた音を立てる。周りの生徒たちは、それぞれ小さなグループで写真を撮ったり、マシュマロを焼いたりしながら夜を楽しんでいた。誰かが持ってきたスピーカーからは、さっきから知らない曲が流れ続けている。
そのとき、放送席の音楽が切り替わった。聞き覚えのあるイントロだ。フォークダンスの定番曲——嫌な予感がする。
「おっ、始まるぞ」
桐生が声を弾ませる。生徒たちが二重の輪を作り始めていた。男子が外側、女子が内側。
「お前、やる気満々だな」
「文化祭最後の夜だぞ、こういうの経験しとかないと損だろ」
桐生はそう言いながら、既に輪の方へ足を向けていた。つぐみはその横で、参加する気配もなく団扇で顔を扇いでいる。
「蒼太、行けって。今しかねえって!」
いきなり背中を強く押されて、体勢が崩れる。
「おい、待て」
抗議する暇もない。押された勢いのまま数歩よろけて、気づけば輪の中に投げ込まれている。目の前に、ちょうど凛が立っていた。
なんでこいつはいつも人の背中を押すことしか能がないんだ。振り返って文句の一つも言ってやりたかったが、桐生はもう素知らぬ顔でつぐみと肩を並べて笑っている。二人とも、明らかに面白がっている顔だった。
「......何、これ」
凛が俺を見て、一拍だけ動きを止める。周りではすでに何組かのペアが手を取り合い始めている。輪が動き出すまで、もうあまり間がない。
* * *
「踊るか?」
我ながら間の抜けた誘い方だと思う。もっと言いようがあっただろう。でも今から言い直す時間もない。
凛はしばらく黙って俺を見ていた。周りの視線が集まっているのを意識しているのか、耳の先が少し赤い。
「......仕方ないから」
そう言って、凛が手を差し出した。細い指先。俺はその手を取る。
思ったより冷たかった。指の関節のあたりに、力を込めて握る。周りではもう何組かのペアが動き始めていて、俺たちも慌ててそれに合わせる形になった。
「力、強い」
「悪い」
慌てて緩めた。緩めすぎて、今度は逃げられそうな気がして、もう一段だけ力を戻す。凛は何も言わずに視線をそらした。
音楽が動き出す。輪全体がゆっくりと回りだした。
「これ、次どうすんだ」
「......手を離して、隣に行く」
「聞いてねえぞ、そんなルール」
「......前の時間に説明されてた」
「寝てたな、俺」
「......知ってる」
言い終わる前に、凛の手が離れていった。
最初の相手は同じクラスの女子で、手を取って数歩進んでは離す。次はよく知らない隣のクラスの男子。手のひらの感触も体の傾け方も、その都度まったく違う。
「藤宮くん、ダンス下手だね」
途中で組んだ女子生徒に笑われて、俺は苦笑いで誤魔化す。
「悪い、こういうの慣れてなくて」
「まあまあ、みんなそんなもんだよ」
彼女はそう言って、次の相手へと交代していった。
桐生ともすれ違った。
「どうだ、来てよかっただろ」
「押した奴が言うことか」
「感謝しろって!」
言い返す前に、桐生は輪の向こうへ流れていった。つぐみは加わっていないようで、外から団扇片手にこちらを眺めている。
何人もの生徒と手を取っては離した。誰の手も、離した瞬間に感触が消える。冷たかったのは1人だけだった。
輪が回って、凛の番が戻ってくる。
「寒いのか? 手、冷たいぞ」
「......寒くない」
否定しながらも、凛は手を引かなかった。むしろ少しだけ、指の力が強くなった。勘違いかもしれない。でも今日のこいつを見た後で、勘違いだと言い切る気にはなれなかった。
輪がまた回る。次の相手との入れ替わりのタイミングが近づいていた。凛の手が、離れる直前にほんの一瞬だけ強く握られる。
「藤宮」
名前を呼ばれて顔を上げる。凛の目が、俺をまっすぐ見ている。周りの喧騒が、一瞬だけ遠くなった気がした。
「なに」
「......別に」
それだけ言って、凛は次の相手の方へ視線を移した。手はまだ繋いだままだ。輪の回転が二人を引き離す寸前、指先が名残惜しそうに離れていく。
* * *
曲が終わったのは、また凛と組み合わせが戻ってきたタイミングだった。放送席のスピーカーから拍手を促す音声が流れる。周りのペアがぱらぱらと手を離していく。
凛は手を離さなかった。
俺も、あえて離そうとはしなかった。
周りの生徒たちが、俺たちを避けるように散っていく。誰かが「もう終わりー?」と大きな声を出して、それに何人かが笑った。次の曲を流すかどうか、放送席で実行委員が揉めているらしい。マイクの入った音が2回、断続的に鳴る。
その全部が、遠いところで起きている。
俺の手の中に、凛の手がある。指の付け根のあたりで、凛の指がわずかに動いた。握り直したのか、離そうとして止めたのか、判断がつかない。
火の明かりが、凛の頬の輪郭を照らしている。表情は、変わらない。それでも、繋いだままの手のひらは、汗ばむくらいに熱を持っていた。さっき握った時は冷たかった手だ。
薪が崩れて、火の粉が一度に大きく舞い上がる。誰かが歓声を上げた。
その音で、凛が先に手を離した。
「......ありがとう」
小さな声だった。それだけ言って、凛は火の方へ視線を戻す。
空気に晒された手のひらを、俺はゆっくり握って、開く。指の間に、まだ熱が残っていた。
少し離れた場所で、つぐみと桐生が同時に長いため息をついた。顔を見合わせて、どちらも口を開かない。
その少し後ろ、人混みの端で、ひなたがこちらを見ていた。いつもの人懐っこい笑顔のまま、じっと。両手で小さなリュックの肩紐を握って、俺たちの方から目を離さない。周りの生徒たちが行き交う中、その場所だけ動かずに立ち続けていた。
誰かに呼ばれて、ひなたはそちらへ顔を向ける。いつもの明るい声で返事をして、駆けていった。振り返らなかった。
俺は隣に立つ凛の横顔をちらりと見た。火の明かりで、頬の色が分からない。
グラウンドの端では、後片付けを始めるクラスも出てきていた。実行委員が拡声器で「そろそろ解散です」とアナウンスしている。
「秋月」
「......何」
「そろそろ、戻るか」
凛は小さく頷いた。頷いたまま、足を動かさない。
「......もう少しだけ」
凛がそう言って、火の方に視線を戻す。俺はそれ以上急かさなかった。
薪がまた1本崩れる。火は小さくなり始めていて、凛の顔にかかる明かりも弱くなっていく。
「藤宮」
「ん」
「......今日のこと」
そこで止まった。俺は待った。実行委員のアナウンスがもう一度流れて、周りの生徒たちが正門の方へ動き出す。
「......ううん。何でもない」
凛はそう言って、先に歩き出した。俺は少し遅れて、その後を追う。




