屋上の約束
踊り場の壁に背中を預けていた凛が、しばらくして手を離す。俺はその横で、何も言わずに次の言葉を待っていた。「少しだけ、ここにいて」と言われてから、もうどれくらい経ったか分からない。
振り返らないまま階段の先を指した。
「......ここ、人来ないから」
屋上への扉はいつも施錠されているはずだった。だが凛は迷いのない足取りでそちらへ向かう。押すと、扉はあっさり開く。
「......鍵、開いてる。文化祭の時だけ」
短い説明だけを残して凛は先に出ていく。俺は後を追う。
階段を上りながら教室に残してきたつぐみと桐生の顔が頭をよぎる。店番、任せた。うん、行ってきて。あの二人なら大丈夫だ。今は凛のことだけ考えればいい。
外の風が教室の熱気を一気に洗い流していく。文化祭の喧騒は下の階から聞こえてくるだけで、屋上には誰もいない。フェンス際まで歩いた凛が、そこで足を止める。俺は少し距離を置いて隣に立った。
屋上から見下ろす校庭は、いつもと違う景色に見えた。出店の色とりどりのテントや、生徒たちが行き交う様子が、まるで別の世界のことのように遠く感じられる。空はもう夕方の色に近づいていて、雲が薄く赤みを帯びていた。
メイド服のスカートの裾が風で揺れている。教室を飛び出してきたままの格好だと、今さら気づく。上着も鞄も全部教室に置いてきたんだろう。
「さっきの、悪かったな」
「......謝ることじゃない」
凛はフェンスに手をかけたまま、こっちを見ない。
「藤宮が謝る意味、分からない」
「分からなくても悪いと思ったから言った」
凛の肩がほんの少しだけ動く。それが答えだった。下の校庭では片付けを始めたクラスの生徒たちが出店の旗を畳んでいる。音楽部の演奏はもう止んでいる。
沈黙が続く。何か言わなきゃと思うのに言葉が出てこない。俺は仕方なくフェンスの向こうを眺めた。他クラスの生徒が、風船を持った子供の手を引いて歩いている。俺には関係のない、平和な景色だ。
「......昔からああなの。何回も」
凛がぽつりと言う。俺は何も聞き返さず続きを待った。
「久しぶりって言われるたび」
凛が指先でフェンスの塗装をなぞる。
「......ああ、またか、って思う」
「またか」
「知り合いに会う。懐かしがられる」
凛が一拍置く。
「それで、思い出される」
「思い出されるの、嫌なのか」
「......嫌じゃない。ただ」
凛が言葉を探すように、一度黙る。
「思い出されるたび、その頃の自分に戻る」
「今の自分じゃなくて」
凛の指が、フェンスの網目を握る。
「いつもすぐいなくなる子、って」
風が凛の髪を頬から浮かせる。凛はそれを払いもしなかった。
「今日の2人も、悪気なかった。......分かってる。分かってるのに」
凛の声がそこで一度止まった。俺は続きを急かさなかった。下の校庭で、誰かがテントの骨組みを地面に置く硬い音がした。
「分かってても、体が先に逃げる」
凛が小さく息を吐く。それだけで、話は次に進んだ。
* * *
凛が一度、フェンスから手を離す。両手を体の前で組んで視線を落とす。話す覚悟を決めるみたいな間だった。俺は黙って待つ。急かせば、この話は途切れる。
「......聞いてくれる?」
「聞く」
俺が言うと凛はゆっくり息を吸った。
「......小学校で3回。中学校で2回。全部で5回」
凛が指折り数えるように言う。俺は相槌のひとつも打てない。
「引っ越すたび、友達に別れを言う」
凛が、フェンスの向こうへ視線を投げる。
「最初の頃は泣いた。だけど......途中から、泣かなくなった」
「泣かなくなった、って」
「泣いても、意味ない。どうせまた同じことが来る」
凛の声は震えていなかった。震えていない声のほうが、聞いていて苦しかった。
「中学2年の時」
凛の声が、そこで少し落ちる。
「仲良くなりかけたグループに言われた。......どうせまたいなくなるんでしょ、って」
「そんなの」
「悪気はなかった。ただの、事実の話」
凛が初めて俺の方を見る。目の奥に、俺の知らない何かが沈んでいた。夕方の光が凛の頬に当たって、涙の跡がうっすら光って見える。俺は何も言わずに、その視線を受け止めた。
「それから決めた」
凛の視線が俺から動かない。
「最初から近づかなければ、離れる時に痛くない。誰とも、深く関わらない」
「......それで、あの壁か」
「壁じゃない。正しいやり方」
凛の声にわずかな強さが戻る。だが目は俺から逸れない。
「うまくいってた。......今日まで」
凛の指先がフェンスの金網をなぞる。塗装の剥げた場所を、何度も同じところを。
「なのに」
凛が、フェンスの向こうの校庭を見る。
「......全部、崩れてった」
「でも、あなたたちは。壁の中に入ってくる」
凛の指がフェンスをより強く握る。
「藤宮も。つぐみも。桐生くんも」
凛の声が、そこで一度切れる。
「勝手に。何も聞かずに」
凛の唇が、小さく震えた。
「怖い。また、いなくなるかもしれないのに」
凛の目から、涙が一筋こぼれ落ちた。フェンスを握る指の力が、さらに強くなる。
「またこの人たちを好きになって。また離れて」
凛は洟をすすりながら、それでも言葉を続けた。
「同じことを、繰り返すだけかもしれないのに」
俺は何も言えなかった。何を言っても軽くなる気がして、口の中で言葉が全部溶けた。こんな時に何言えばいいんだよ、俺は。
だから思ったことをそのまま言った。
「俺はどこにも行かねえよ」
喧噪を運ぶ風がふっと凪いだ。フェンスを握りしめていた凛の指からすっと力が抜ける。
「......え」
「逃げない。お前が怖がってるあいだ、ずっとここにいる」
凛の目に、涙の膜が張っていく。
「......ずっとなんて、約束できないじゃない」
「できるよ」
俺は凛の目をまっすぐ見た。
「だって俺、転校する予定ねえし」
凛の息がひくっと止まる。張り詰めていた肩がストンと落ちた。次の瞬間、凛はぽろぽろと涙をこぼしながら堪えきれないように噴き出して笑った。
* * *
凛は何も言わずに泣いていた。声を殺して肩だけを震わせている。俺はただ、隣に立ち続けた。
「......藤宮、馬鹿正直すぎ」
しゃくりあげながら凛が言う。
「よく言われる」
「......予定ねえし、とか」
凛が洟をすする。
「もっと、他になかったの?」
「他に思いつかなかった」
凛が制服の袖で目元をこすった。それでも間に合っていない。俺はハンカチの一枚も持ってきていないことに、今さら気づいた。母さんにいつも持てって言われてるのに。こういう時に限って肝心なものが手元にない。
「......ばか」
小さな声だった。凛の「ばか」を聞いたのは、これが初めてだ。
「知ってる」
俺が言うと凛はまた小さく笑った。
下の校庭では片付けを終えたクラスの誰かが大きな声で何かを叫んでいる。旗はもう全部畳まれている。俺たちはしばらく、そのままフェンスの前に並んで立っていた。
凛の呼吸が少しずつ落ち着いていく。しゃくりあげる間隔が長くなってやがて止まった。
「......戻らないと。店番、任せっぱなし」
凛が言った。だが動こうとはしなかった。俺も動かなかった。
「もう少しだけ」
凛の声から、力が抜けていた。俺はフェンスにもたれて、遠くの空を見る。文化祭の音楽がまた下の階から響き始めている。誰かが打ち上げた紙テープが、風に乗って校庭を横切っていった。
隣に立つ凛の横顔から、泣いていた気配がほとんど消えている。ただ目の縁だけが、まだ少し赤い。俺たちはしばらく口を利かなかった。それでいて、どちらも扉の方へ動こうとはしなかった。
凛が制服の袖口で、目の下を一度だけ拭った。拭ってから、その袖を握り込んで隠す。
「......行こう」
凛が先に扉の方へ歩き出す。その足取りに、屋上へ来た時のためらいはもうなかった。俺はその後を追って、扉を後ろ手に閉めた。
階段を降りながら、凛は一度も振り返らなかった。それでも、屋上に来る前とは明らかに違う足取りだった。俺は少し後ろから、その背中を見ながらついていく。
階段の踊り場まで来たところで、凛がふと足を止めた。
「藤宮」
「何だよ」
「......ありがとう」
振り返らないまま、小さく言う。俺はそれに何と返せばいいか分からず、結局「おう」とだけ答えた。
教室のあるフロアに近づくにつれ、文化祭の喧騒が徐々に大きくなっていく。誰かの笑い声、放送部が流す音楽、廊下を走る足音。屋上の静けさが嘘のように、日常の音が戻ってきた。
教室の扉を開けると、桐生とつぐみがレジ前で接客をしている最中だった。桐生が真っ先にこっちに気づいて、片手を上げる。
「おかえり、二人とも。ちょうど客足落ち着いたとこだぞ」
「悪い、遅くなった」
「別にいいけどよ」
桐生はそれ以上詮索せず、レジの引き出しを開けて釣り銭を数え始めた。つぐみが横目でこっちを見て、何かを察したように小さく頷く。何も聞かず、それ以上は追及しない。二人ともそういうところがありがたかった。
凛は自分のエプロンを取り出して、身につけ直す。さっきまで泣いていたとは思えないくらい、いつもの動きに戻っていた。手鏡を取り出して前髪を整える仕草も、いつも通り丁寧だった。
「凛、休憩終わり?」
つぐみが尋ねると、凛は小さく頷いた。
「うん。もう大丈夫」
「そう。じゃあレジ、代わってもらっていい? あたし、ちょっと裏で在庫確認してくる」
つぐみはそう言って、エプロンの紐を解きながら教室の奥へ消えていく。凛はレジの前に立って、次の客を迎える準備を始めた。教室の喧騒がまた元通りに戻っていくのを、俺はしばらく眺めていた。




