嫉妬のトレイ
午後の教室は相変わらず客足が途切れない。俺はトレイを片手に厨房と客席を往復しつつ、そろそろ腕が痺れてきているのを自覚していた。
「藤宮くん、そっちお願い!」
つぐみの声に応えて振り返ると教室の入り口で誰かが手を振っているのが見えた。見覚えのある明るい髪の子がこっちに向かって全力で駆け寄ってくる。
「そうくん!」
ひなただった。制服の上にクラスTシャツを羽織り頬を上気させている。
「暇なのか」
「暇じゃないよ、これでも。てか」
ひなたが俺の執事服姿をじろじろ眺め回す。頭のてっぺんから足先まで遠慮というものがない。
「そうくんカッコいい!!」
「声、でかい」
「だって本当にカッコいいんだもん! 蝶ネクタイとか、そうくんそんなの似合うタイプだと思ってなかった」
周りの客が何人かこっちを見て笑っている。俺は誤魔化すように蝶ネクタイの位置を直す。
「わざわざ見に来たのか」
「幼馴染のクラスの出し物、見に来ない方がおかしいでしょ。それに」
「それに?」
「クラスの出し物より、そっちが本命。凛ちゃんのメイド服、見たかったし」
「なんでだよ」
「なんでって、気になるものは気になるもん」
ひなたが悪びれもせずに言い切る。俺はその勢いに気圧されてそれ以上は突っ込めない。
ひなたが教室の奥に視線をやった。凛はちょうど別のテーブルに注文を運んでいるところだった。トレイの上でカップがかすかに揺れている。
「凛ちゃん!」
ひなたが手を振ると凛が一瞬だけこちらを見た。表情はいつも通り動かない。
「......いらっしゃいませ」
「わー、本当にメイドさんだ! 凛ちゃんメイド服かわいい!」
ひなたが両手を合わせてはしゃぐと凛はエプロンの裾をわずかに握った。
「......ありがと」
短く返して逃げるように別のテーブルへ向かう。その所作にひなたはさらに目を輝かせた。
「クールだけど優しいよね、凛ちゃんって。前からそう思ってた」
「まあ、そうかもな」
「そうくんも、そう思う?」
妙に食い下がる聞き方に俺は一瞬言葉を探す。
「......普通に、そう思う」
「ふうん」
ひなたは何か言いたげに俺の顔を見上げたがすぐにまたいつもの笑顔に戻った。
「柚木さん、うちの執事どうです」
通りがかった桐生が蝶ネクタイを直しながら割り込んでくる。
「桐生くんも似合ってるよ。歪んでるけど」
「これはわざとだ。味なんだよ」
「その味、誰も頼んでないって蒼太に言われてなかった?」
「言われたけど採用してない」
「頑固」
「褒め言葉として受け取っておく」
桐生がにやりと笑って次のテーブルへ足を向ける。ひなたはそれを見送ってからまた俺の方を向いた。
「相変わらずだね、桐生くん」
「あいつは一生変わらないだろ」
ひなたが小さく笑う。教室の奥では凛が別の客に一礼している。
* ◇ *
ひなたは席にも着かず、教室の隅からずっとこっちを見ていた。注文を取りに行くたびに視線が追ってくるのが分かる。
「そうくん、こっちこっち」
ひなたが俺を手招きする。近づくといきなり腕を掴まれた。
「見て、この写真。去年の文化祭の時のそうくん、まだこんなに背低かったんだよ」
スマホの画面を見せられ俺は身を屈める。ひなたの肩が俺の肩にぶつかるくらい近い。
「懐かしいな、これ」
「でしょ! ひなた、この写真すごい気に入ってて」
「フォルダに何枚くらい入ってるんだよ、俺の写真」
「秘密。数えたら怒られそうだから言わない」
「もう怒ってるレベルだろ、それ」
「怒ってないよ。これは記録だから」
ひなたが真顔で言い切る。冗談なのか本気なのか判断がつかず俺は苦笑いで流すしかなかった。
ひなたが俺の腕を引いてもう1枚を見せようとする。その拍子に少し離れた場所から届いた小さな音に気づいた。
かたん、と。
振り返ると凛がトレイを持ったまま立ち止まっていた。指先がトレイの縁を白くなるほど握り込んでいる。
「秋月、大丈夫か」
「......平気」
凛はすぐにトレイの向きを直し何事もなかったように次のテーブルへ歩いていく。だがその足取りは、少し引きずるように硬かった。
「そうくん、続き見て」
「あ、ああ」
ひなたに引き戻され俺はまたスマホの画面に目を戻す。凛の後ろ姿が視界の端で小さくなっていった。
「柚木さん、暇なら注文もしてってくださいよ」
桐生がトレイを片手に通りかかる。
「暇じゃないもん。見学してるの」
「見学料は取らないんで、せめて紅茶くらい飲んでいってください」
「桐生くんって商売人みたいなこと言うね」
「文化祭は商売だ」
「そういうとこだよ、桐生くんの残念なとこ」
「残念で悪かったな」
桐生が肩をすくめて去っていく。その背中を見送りながら、ひなたが小さく笑った。それからまた俺の腕を軽く小突いた。
「ねえ、次の写真も見てよ」
「今、接客中なんだけど」
「少しくらいいいでしょ」
* ◇ *
「凛、トレイ壊れるよ」
厨房から出てきたつぐみが凛の手元を見て眉を上げる。凛はトレイを両手できつく握ったまま視線を落としていた。
「......壊れない」
「持ち方、なんか力入りすぎじゃない?」
「......そんなことない」
「そんなことあるって。皿、傾いてるし」
凛はトレイの角度を直したが握る手の力は緩まなかった。つぐみがそれ以上は追及せず肩をすくめて厨房へ戻っていく。俺はその様子を少し離れた場所から見ていた。声をかけようとして、やめた。
「秋月」
声をかけると凛がゆっくり顔を上げる。
「......何」
「顔色、あまりよくないけど」
「......気のせい」
「疲れてるなら、少し休んでいいぞ」
「......疲れてない」
「さっき、トレイぶつけてただろ」
「......たまたま」
凛の目がわずかに泳いだ。それ以上は聞けず俺はテーブルへ視線を戻す。ひなたはまだ教室の隅で誰かと話していた。楽しそうに笑う声が店内のざわめきに紛れて聞こえてくる。
「秋月さんも、こっち来て休憩したら?」
ひなたが凛に向かって声をかける。屈託のない笑顔だった。
「......今は無理」
「そう? 無理しないでね」
ひなたはそう言うとまた俺の方を振り返る。
「そうくん、今度一緒に写真撮ろうよ。凛ちゃんも一緒に」
「そのうちな」
「そのうちって、いつもそう言って結局撮らないんだから」
「今日は忙しいだろ、見ての通り」
「わかってるって。冗談だよ」
ひなたが笑う。俺はその笑顔にほっとしながらも凛が次のテーブルで何をしているのか、目で追ってしまっていた。その背中は、糸を張ったみたいにまっすぐだった。
「そういえば、そうくんと凛ちゃんって、いつもあんな感じなの?」
「あんな感じって」
「息合ってるっていうか。目で合図してるみたいな」
「別に、そんなことないだろ」
「そうかなあ」
ひなたはそれ以上は言わずテーブルの上のメニュー表を指でなぞった。俺は返す言葉に困って視線を厨房の方に逃がした。
* ◇ *
閉店の時刻、教室の灯りが半分落とされる。客の波が引いてようやく静かな時間が戻ってきた。メニュー表を集める腕がもう上がりきらない。
「疲れたー」
つぐみが椅子にもたれかかり、桐生は蝶ネクタイを緩めながら机に片肘をついた。
「秋月、今日どんくらい迷った」
「......数えてない」
「数えてないだけで結構な回数だったろ」
「......うるさい」
「うるさいって言い返す元気はあるんだな」
「......元気とは、違う」
いつものやり取りだったが凛の声にはいつもの張りがなかった。俺は片付けの手を止めて凛を見る。
「秋月、今日、疲れてないか」
「......顔に出てる?」
「出てる」
「......出したくないのに」
凛が視線を落とす。それきり口をつぐんでしまったので、俺はそれ以上踏み込まなかった。何を聞いてもたぶん今の凛は同じ答えしか返さない。
「秋月、無理してないか」
凛が一瞬鞄の持ち手を握り直す手を止める。
「......してない」
「してないなら、いいけど」
「......本当に、してない」
念を押すような言い方がかえって引っかかった。俺はそれ以上聞かずただ頷く。
「じゃあ、また明日な」
「......うん」
凛が鞄を持って先に教室を出ていく。いつもなら一言くらい軽口を返してくるはずなのに今日はそれもない。俺はその後ろ姿を見送った。呼び止める言葉は、出てこなかった。
「藤宮くん、凛のこと何かした?」
つぐみが片付けの手を止めて聞いてくる。
「何もしてない、はずだけど」
「はずって」
「本当に心当たりがないんだよ」
「今日、柚木さんが来てからちょっとおかしかったよね」
「ひなたが?」
「凛がだよ。トレイぶつけてたし、返事も短くなってたし」
「それは、いつものことじゃないか」
「今日は明らかにおかしかったって言ってるの」
つぐみの言葉に俺は黙り込む。心当たりがないわけじゃない。ただ、それを口にするのはなんとなく気が引けた。
「柚木さんと、何か関係あるのか」
「さあ。私に聞かれても」
つぐみは何か言いたそうにしたが結局「そう」とだけ言って片付けに戻った。
「柚木さんは何時までいたんだ」
「閉店ちょっと前まで。桐生くんとずっと喋ってたよ」
「あいつ、接客中じゃなかったのか」
「合間、合間だって。器用だよね、桐生くん」
つぐみが最後の椅子を机の上に上げながら答える。器用だよね、と笑うつぐみに、俺は相槌を打ちそびれた。桐生とずっと、か。
俺は最後に教室を出る前にもう一度廊下の先を見た。凛の姿はもうどこにもなかった。窓の外は夕暮れに染まりかけていて文化祭初日の喧騒が遠く校舎のあちこちからまだ聞こえてくる。




