お帰りなさいませ
教室の入り口に「メイド&執事喫茶」の看板が立てかけられている。昨日仕上げた色塗りは朝の光の下で見るとちゃんと文化祭らしい賑やかさに見えた。廊下には他クラスの装飾もひしめいていて、校舎全体がいつもと違う空気を纏っている。
開店8時50分。校内放送がまだ流れているなか教室では最終確認が進んでいる。
「テーブル番号、1から8まで全部貼った?」
つぐみがクリップボード片手に教室を見回す。
「貼った。あと椅子の配置も終わってる」
「メニュー表は各テーブルに1枚ずつ?」
「置いた」
「値段の表記、桐生が勝手に書き換えてないよね」
「一応チェックした。大丈夫だった」
「一応って言うと不安になるんだけど」
「今回は本当に大丈夫だ」
「なら、いいけど。桐生の性格上、疑うのが癖になってて」
「その気持ちは分かる」
「厨房の飲み物、氷は足りてる?」
「桐生が朝イチで買い出しに行った」
「珍しくちゃんとしてる」
「珍しくは余計だろ」
「事実じゃん」
「事実でも言い方があるだろ」
俺は答えながら執事服の袖を直した。今日は一日この格好で過ごすことになる。慣れない硬い襟が少し首に当たる。
「秋月、緊張してるのか」
凛の方を見ると、メイド服姿の凛がトレイを両手で持ったまま微動だにせず立っていた。
「......してない」
「トレイ、持つ手震えてるけど」
「......震えてない」
言いながらもトレイがかたかたと小さく音を立てている。俺は何も言わずにその音が止まるのを待った。
「何百人も接客するわけじゃないだろ。せいぜい常連が数回来るくらいだ」
「......何百人も来たら、どうするの」
「その時はその時考えろ」
「......無責任」
「責任持てる立場じゃないだけだ」
「開店5分前。位置につけー」
つぐみが号令をかける。桐生が執事服の蝶ネクタイを最後にもう一度直しながら入り口の方へ移動した。相変わらず結び目は歪んでいる。
「桐生、まだ直らないのか」
「これは味だ」
「その味付け、誰も頼んでない」
「客が判断することだろ」
「客に判断させる前に自分で判断しろ」
「これが俺なりの完成形なんだ」
俺は答えず、自分の位置につく。
「秋月さんは受付付近で待機。俺と桐生は接客担当。つぐみはレジと厨房の連携な」
「了解」
「......分かった」
凛が短く頷く。手のトレイの震えはまだ止まっていなかった。
「秋月さん、笑顔とかは無理に作らなくていいから。素のままでいいよ」
「......素のままって、何」
「今のままでいいってこと」
「......分かった、多分」
凛の返事に、つぐみが小さく笑う。
「大丈夫か」
「......平気」
平気、と言った声が教室のざわめきに飲まれて、半分も届かなかった。俺は凛の顔を覗き込みそうになってやめた。今それをやったら余計に緊張させるだけだ。
「秋月、接客のセリフ、ちゃんと覚えてるか」
「......覚えてる。お帰りなさいませ、ご主人様」
「棒読みだな」
「......練習通り」
「練習からずっと棒読みだったからな」
「......それで、いい」
窓の外から開場を待つ生徒たちのざわめきが聞こえてくる。文化祭初日の空気が廊下の向こうまで満ちていた。
* ◇ *
開店の合図と同時に教室の扉が開いた。
最初の客は隣のクラスの女子3人組だった。教室に入るなり「うわ、可愛い」と声が上がる。凛が入り口に進み出て深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
声は、いつもの凛のままだった。抑揚も愛想もない。練習でさんざん聞いた棒読みがそのまま客の前で鳴っている。
客席が一瞬静かになった。
「......これでいいの?」
凛が小声で俺に聞いてくる。俺は答えられなかった。
あれでいいのか。頭の隅でそう思うのに、凛から目が離せない。冷えたラムネを飲み込んだときみたいに、胸の奥がちりっとした。
「......何」
「いや、別に」
俺は誤魔化して視線を逸らした。顔に出ていないだろうかと一瞬焦る。
「秋月さん、そのままでいいよ! むしろそれがいい!」
つぐみが厨房から顔を出して親指を立てる。最初の客だった女子3人組はすでに凛の周りで何やら盛り上がっていた。
「クールで良くない?」「なんか本物っぽい」「写真撮っていい?」
「......写真は、規則で禁止です」
凛が淡々と答える。それすらも「らしい」と受け取られたのか女子たちはさらに盛り上がった。
「注文、何にしますか」
「えっと、紅茶と、クッキーセットで」
「......かしこまりました」
凛が一礼して厨房へ向かう。その所作の一つ一つに、客の視線が吸い寄せられていく。
「ねえ、あの子いつもあんな感じなの?」
別のテーブルの客が俺に聞いてくる。
「まあ、大体こんな感じです」
「クールだね。でも優しそう」
「否定はしません」
俺がそう答えると、客が笑った。厨房の方から凛がトレイを持って戻ってくるのが見えた。
「凛、5番テーブルお願い」
つぐみが厨房から声を飛ばす。
「......分かった」
凛がトレイを持ち直して5番テーブルへ向かう。震えはいつの間にか止まっている。
* ◇ *
開店から1時間。教室は満席に近い状態が続いていた。廊下にも入店待ちの列ができ始めている。
「執事さん、こっちも注文いいですか」
「はい、ただいま」
「執事さん、こっちも!」
「少々お待ちください」
「あっちも注文取ってほしいって!」
あちこちから声がかかる。俺は小走りでテーブルを回った。息が上がってきたが、止まっている暇はない。今日1日、こんな調子が続くのかと思うと、少し気が遠くなった。
俺は3番テーブルへ向かいながら教室全体を見渡す。桐生は別のテーブルで女子グループに囲まれて蝶ネクタイのことをいじられていた。
「その蝶ネクタイ、わざと曲げてるんですか?」
「これは俺のスタイルです」
「執事なのにスタイル語るんだ」
「スタイルのない執事なんて執事じゃないので」
「屁理屈が板についてる」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてない」
桐生は気づいていないようだが他クラスの女子たちが明らかに彼の執事姿に反応してざわついている。本人はいつも通りの調子で接客を続けていた。
「藤宮くん、7番テーブルお願い」
つぐみの声に振り返ると5番テーブルの方で凛が立ち止まっているのが見えた。トレイを持ったままきょろきょろと周囲を見回している。
「秋月さん、大丈夫ですか」
通りがかった客が心配そうに声をかける。
「......平気です。少し、確認してるだけです」
凛が澄まし顔で答える。客は納得したのか「頑張ってくださいね」と笑って去っていった。凛はその場でもう一度周囲を見回した。
「ねえ、秋月さんって、たまに立ち止まって考えてるよね。あれも演出?」
別の客が友人に囁いているのが聞こえてくる。
「多分違うと思う。でも様になってるからいいんじゃない」
「たしかに」
凛には聞こえていないようだったが、俺には聞こえていた。何も言わずに、そのまま近づいた。
「秋月、また迷ってるのか」
俺が近づくと凛が振り返る。
「......この店、広すぎる」
「教室1個分だろ」
「......普段と、配置が違うから」
言われてみれば、机を全部どかして並べ替えた教室は、俺が見ても知らない部屋みたいだった。凛が迷うのも無理はない。
「7番はあっちだ」
「......分かった」
凛が向きを変えて歩き出す。数歩進んでまた立ち止まった。
「......やっぱり、こっちな気がする」
「それ、教室の入り口の方だぞ」
「......そうなの」
「秋月、方向感覚どうなってるんだ」
「......生まれつき」
「生まれつきで済ませていいのか、それ」
「......他に、言いようがない」
「まあ、いいけどな」
「......こっち?」
「反対」
「......そう」
凛が向き直る動きと俺の靴音が重なった。そのまま並んで7番テーブルまで案内すると客が「息ぴったりですね」と笑う。凛は何も言わず、少し早足で次のテーブルへ向かった。
* ◇ *
昼過ぎ。教室の入り口に花園先生が現れた。
「あら、繁盛してるわね」
花園先生が教室を見回しながら言う。年配のはずなのに、生徒の間をすり抜ける足取りが妙に身軽だった。
「先生、他のクラスも見て回ってるんですか」
「ひととおりはね。ここが一番賑やかだったわ」
「そうですか」
「メイド喫茶って強いのよ、いつの時代も。先生が学生だった頃からそうだった」
「先生、来てくれたんですか」
「様子を見に来ただけよ。でも」
「でも?」
「藤宮くんの執事姿、なかなか様になってるじゃない」
「そうですか」
「照れなくていいのよ」
「照れてません」
「顔、少し赤いけど」
「気のせいです」
花園先生が凛の方に視線を向ける。
「秋月さん、メイド服似合うわね。先生もやっぱり......」
「花園先生、それはダメです」
桐生が即座に間に入る。
「なんでよ。着てみたかったのに」
「クラス会議で全会一致で却下されたじゃないですか」
「あれは冗談半分だと思ってたのに」
「先生の冗談、いつも本気度高すぎるんですよ」
「あら、バレてた?」
「バレバレです」
花園先生が唇を尖らせる。それを見て周りの生徒たちが笑った。凛も口元だけわずかに緩めている。
「桐生くんも冗談っぽく見えて、意外と本気だったりするものね」
「先生、それは違います」
「あら、そう?」
「多分」
「多分なんだ」
花園先生が愉快そうに笑った。凛はその様子をただ黙って見ていた。
「秋月さん、接客どう? 楽しい?」
花園先生が凛に尋ねる。凛は少し黙ってから答えた。
「......分からない。でも」
「でも?」
「......忙しい方が、落ち着く」
「そう。無理はしないでね」
「......してない」
「秋月さんがそう言う時は、大体無理してるって、先生は知ってるけど」
「......知らない」
「じゃあ、先生の勘違いってことにしておくわね」
「......そうして」
花園先生が「そう」と頷いてそれ以上は聞かなかった。
午後の光が窓から差し込んで教室の中を明るく照らしている。凛がトレイを持って次のテーブルへ向かう後ろ姿を俺はしばらく見ていた。今日だけで凛が何回迷ったか、もう覚えていない。それでも名前を呼べば、こっちを向く。方向を指させば、そっちへ歩く。それだけのことが、朝よりずっと滑らかになっていた。
「藤宮くん、次は2番テーブル」
つぐみの声に俺は「了解」と答えて動き出す。厨房の方から、桐生の「お待たせしました」という声が聞こえてくる。今日一日、桐生があんなにまともに接客をこなすところを見るのは初めてかもしれない。
「秋月、休憩取ったか」
通りすがりに声をかけると、凛がトレイを持ったまま首を振った。
「......まだ」
「無理するなよ」
凛が一瞬、俺の顔を見た。何か言いかけて、結局何も言わずにまた前を向いた。
「......次、休憩する」
「それでいい」
凛がトレイを厨房に置いて、休憩スペース代わりの隅の椅子へ向かう。その後ろ姿を見送ってから、俺も次のテーブルへ足を向ける。教室の喧騒はまだ続いている。閉店まではまだ長い。




