前夜、つぐみと凛
教室の時計が18時を回った。看板もメニュー表も飾り付けも、もう全部終わっている。あとは明日の朝、開店前に最終確認をするだけだ。窓の外は夕方から夜へと変わりかけていて、教室の蛍光灯だけが明るく浮いていた。
「これで全部終わりだな」
桐生が段ボールの山に寄りかかりながら言う。声には達成感と疲労が半々で混ざっている。
「終わったっていうか、お前は最後の1時間ずっと座ってただろ」
「戦略的休息だよ」
「ただの息切れだろ」
俺が言うと、桐生は反論する気力もないのか机に突っ伏した。つぐみが荷物をまとめながらその背中を軽く蹴る。
「寝るなら家で寝て」
「起きてる、起きてる」
桐生は顔を上げずに答えるが、全然説得力がない。俺は苦笑して、机の上の残った箱を数え直した。あと2つ運べば、今日の分は全部片付く。
「明日、ちゃんと集合時間に来いよ」
つぐみが桐生と俺、それから離れた席の凛に向かって言う。凛は片付けの手を止めて「......うん」とだけ答えた。
「藤宮くんも。寝坊とかしないでよ」
「分かってる」
「弁当も、いつもより早く起きて作らないといけないんじゃないの」
「まあな。明日は開店前の仕込みもあるし、少し早めに家を出るつもりだ」
「大変そう」
「別に。慣れてる」
「藤宮くんって、家のことほとんど一人でやってるんだよね」
「そうでもない。適当にやってるだけだ」
「適当で毎日弁当作れる人、あんまりいないと思うけど」
「別に大したことじゃない」
つぐみがそれ以上は突っ込まず、荷物の続きをまとめ始めた。
俺が答えると、つぐみが「そういえば」と何かを思い出したように続ける。
「明日のシフト表、藤宮くんと秋月さんが同じ時間帯多くない?」
「偶然だろ」
「偶然にしては多い気がするけど」
「決めたのはお前だろ」
「あ、そうだった」
つぐみが悪びれもせずに笑う。俺はそれ以上突っ込まない。
「分かってると言って寝坊した人、知り合いに3人はいる」
「俺はその3人には入らない」
「桐生とか」
「おい」
「桐生は去年、体育祭の日に寝坊して開会式に間に合わなかった」
「あれは不可抗力だ。目覚まし3個セットしてたのに全部聞こえなかった」
「それが不可抗力じゃない証拠だろ」
「うるさい。今年はちゃんと来る」
「その自信、去年も同じこと言ってた気がするけどな」
「今年は違う。誓う」
「誰に誓うんだよ」
「神様、とか」
「桐生が神様に誓うとか、なんか胡散臭い」
つぐみが疑わしそうな目を向けてきたが、それ以上は追及しなかった。教室の窓の外はもう暗く、廊下からは他クラスの片付けの音がまだ続いている。
「秋月、帰り一緒に行くよね」
つぐみに声をかけられ、凛は少し間を置いて「......うん」と頷いた。
「私と桐生は反対方向だから、ここで解散な」
桐生が伸びをしながら言い、段ボールの最後の1箱を教壇の脇に積み上げると教室の照明を半分落とす。
「じゃあ、また明日」
「おう」
俺と桐生は昇降口へ向かう。
「明日、いよいよだな」
桐生が靴を履き替えながら言う。声のトーンが、さっきまでの軽口とは少し違っていた。
「そうだな」
「準備、大変だったけど、終わってみるとあっという間だったよな」
「まあな」
「なんか、寂しい気もする」
「お前らしくないこと言うな」
「たまにはいいだろ」
「まあ、分からなくもないけど」
俺もそう答えて、それ以上は続けなかった。
「秋月さんのメイド服、絶対客殺到するぞ。俺の執事姿も見てほしいけど」
「お前の心配は自分の蝶ネクタイだろ」
「それはそれ、これはこれ」
桐生が靴箱の扉を閉めながら、にやりとする。
「今日のメイド服の時、めちゃくちゃ動揺してたじゃん」
「動揺なんてしてない」
「してた。俺見てたぞ」
「気のせいだろ」
「気のせいで顔赤くなる?」
「暑かっただけだ」
「9月だぞ」
「体育館裏で運動してたから」
「そんな設定初耳なんだけど」
桐生はそれ以上追及せず、「まあいいけどさ」と笑って先に歩き出す。
振り返ると、つぐみと凛が並んで鞄を持ち直しているのが見えた。凛の横顔は動かない。廊下の奥から、まだ誰かの片付ける物音が響いていた。
* ◇ *
──秋月凛の場合
校門を出ると、つぐみが隣に並んだ。
「疲れたー。でも明日から本番だと思うと楽しみ」
「......そう」
「凛はそういうの、あんまり楽しみとか言わないタイプだよね。前から思ってた」
「......言わないだけ」
「え、思ってはいるってこと?」
「......知らない」
私は短く答えたが、楽しみという言葉が自分の中にもあることに少し驚いている。つぐみが「ふーん」と言いながら、私の顔をちらりと覗き込んできた。何かを見透かされている気がして、私は少し歩調を速めた。夜風が頬をかすめていく。
夜の住宅街を二人で歩く。つぐみの部活バッグが肩でリズムよく揺れている。私はそのリズムを見ながら今日1日のことを思い返す。看板の色を塗って、輪っかの飾りを作って、メイド服を試着する。振り返れば、どれも初めての経験ばかりだ。街灯の下を通るたび、二人の影が伸びたり縮んだりを繰り返していた。
「白河さん」
私が口を開くと、つぐみが「ん?」と振り返った。小さく息を吸う。
「......つぐみ」
言い直した自分の声に心臓が少し跳ねる。
「友達と、文化祭の準備をするなんて、初めてだった」
つぐみは目を丸くし、それからゆっくりと笑う。
「初めてって、大げさじゃない?」
「......大げさじゃない」
「そんなに?」
「......友達と、何かを一緒にやったこと自体、あんまりない」
言ってしまってから、少し後悔する。こんな話をするつもりはなかった。でも口が勝手に動いている。
「マジで?」
「......マジ」
「意外」
「......何が」
「凛って、友達少なそうって思ったことなかったから」
「......今、失礼なこと言った」
「褒めてるんだけど。一人でも平気そうに見えるってこと」
「......平気じゃない。ただ、慣れてるだけ」
つぐみが「そっか」と静かに言った。それ以上、突っ込んでは聞いてこなかった。アスファルトの継ぎ目が足元で白く浮かんでは消える。
本当のことだ。誰かと何かを作る時間を、ずっと避けてきた気がする。理由は、うまく言葉にならない。
「楽しかった?」
つぐみに聞かれ、私は少し黙った。楽しかったという言葉を自分の口から出すことにまだ慣れていない。
「......楽しかった、と思う」
言ってから、喉の奥に何かが引っかかった。つぐみはそれ以上は聞いてこず、ただ隣で小さく笑っている。
「凛、変わったよね」
「......何が」
「最初の頃、もっと喋らなかったじゃん。今も喋らないけど、なんか、壁が薄くなった感じ」
「......そうかな」
「うん。前は目も合わせてくれなかったし」
「......そんなこと」
「あった。覚えてないの?」
私は答えなかった。壁、という言葉が耳の奥で小さく響いていた。
* ◇ *
「明日、メイド服で藤宮くんの前に立つの、ドキドキする?」
唐突な質問に、私は歩調を崩しかけた。それを悟られないよう、平静を装う。
「......しない」
「嘘つき」
「......嘘じゃない」
「じゃあなんで今、声が裏返った」
「......裏返ってない」
「裏返った」
「......裏返って、ない」
裏返っていたのは自分でも分かっている。
なんで即答したんだろう。聞かれた瞬間、考えるより先に口が「しない」と言っていた。
「今日、着てみてどうだった。あのワンピース」
「......普通」
「普通って便利な言葉だよね。何にでも使える」
「......悪い?」
「悪くない。凛らしいなって思っただけ」
「藤宮くんに褒められて赤くなってたの、普通の反応じゃないと思うけど」
「......本当に、見てたの」
「見てたっていうか、教室中が見てた」
「......恥ずかしい」
「今更?」
「......今更でも、恥ずかしいものは恥ずかしい」
私は黙る。あの時の記憶が勝手に蘇ってくる。「すごく似合ってる」という声。二度言われたその二度目。耳のあたりがまた熱くなる気がした。
あの瞬間、自分がどんな顔をしていたのか、覚えていない。ただ、あの一言だけが、今も時々、勝手に再生される。
「藤宮くんって、そういうこと言う人だったんだね」
「......知らない」
「知らないって、幼馴染でもないのに一番近くにいるじゃん」
「......近くにいるだけ」
「その近さが普通じゃないって言ってるの」
「......そういうんじゃない」
「じゃあどういうの」
私は答えられなかった。どういう関係なのか、自分でも言葉にできない。ただ、隣にいることが当たり前になっている。それだけは確かだ。
「まあ、いいけどね。凛が嫌そうじゃないなら、それでいいと思う。無理してるみたいなら、また別だけど」
「......嫌じゃない」
言ってから、その言葉があまりにもすんなり出てきたことに、自分で驚く。つぐみは何も言わず、ただ小さく頷いただけだった。
「凛」
つぐみが立ち止まり、私も足を止める。つぐみの吐いた息が、白く短く消えた。少しの沈黙があった。その隙間を、道端の草むらから虫の声が埋めていく。
「......何」
つぐみはすぐには答えなかった。街灯の下で、鞄の紐を持ち直している。
「無理にとは言わないけど、少しだけでいいから、素直になったら楽だよ」
私は何も言えなかった。街灯の明かりだけを見ていた。
「......つぐみは、平気なの。誰かと近くなるの」
聞きたいことを、自分でもうまく選べないまま尋ねていた。つぐみは少し考えるように、夜空を見上げる。
「平気っていうか、慣れてるだけかな。傷つくの怖がってたら、友達なんて一人もできないし」
「......部活とか、大変じゃない」
「大変だよ。でも部活の友達とかいるし、そこまで嫌じゃない」
「......怖くないの」
「怖いよ。でも怖いからって離れてたら、もっと寂しいと思う。それに離れたところで傷つかないわけでもないし」
私はしばらく何も言えなかった。つぐみの言葉が、飲み込めないまま喉のあたりに残っている。
「......寂しいの、慣れてると思ってた」
「慣れることと、寂しくないことは違うよ」
つぐみがさらりと言った言葉が、思っていたよりも深く刺さる。私は何も返せなかった。
「......少しだけ」
小さく呟くと、つぐみが「え?」と聞き返してきた。もう一度言うのは、最初よりずっと難しい気がした。浅く息を吸い込むと、胸の奥がきゅうっと鳴った。
「......ドキドキ、少しだけする」
言った瞬間に顔が熱くなるのが分かる。つぐみは何も言わずにただ笑った。からかうような笑いではなく、もっと柔らかい、何かを見守るような笑い方だった。
「そっか」
それだけ言うと、つぐみはまた歩き出す。私も遅れて足を進める。何かを咎められるかと思っていた。つぐみの背中は、何も言わずに先を歩いていく。
ドキドキすると認めてしまった。明日、メイド服を着て藤宮くんの前に立つ。
二人分の足音が、夜道に続いていく。避けたいとは、思わなかった。




