メイド服と執事服
空き教室に段ボール箱が積み上がっていた。文化祭実行委員から借りてきた衣装が入っている。放課後の柔らかな陽が窓から斜めに差し込んで、床に積んだ箱の影を長く伸ばしていた。ビニールの梱包を破ると、黒と白のフリルが波のように溢れ出した。
教室には俺と桐生、つぐみと凛の4人しかいない。他のクラスメイトはすでに帰ったか、別の準備作業に回っている。誰もいない放課後の教室で衣装の山を前にすると、明日から本当に喫茶店を開くのだという実感が、じわじわ湧いてきた。廊下からは他クラスの賑やかな作業音がかすかに漏れ聞こえている。
「メイド服、サイズ順に並べたから。秋月さんはこれね」
つぐみが箱の中から1着を取り出し、凛に押し付ける。凛は両手で受け取ったまま、しばらく布地を睨んでいる。
「......本当に、これ着るの」
「配役決定した時点で確定でしょ。今さら?」
「......往生際が悪いのは分かってる。分かってるけど」
凛の指がフリルのついた袖口をつまんで持ち上げる。透けそうなほど薄い生地だ。
「往生際悪いって。もう配役決まってんだって」
桐生が横から茶々を入れる。自分の執事服を早々に羽織り、片手で蝶ネクタイを弄んでいる。
「そもそも秋月さん、なんでそんな渋るわけ。似合わないとか思ってる感じ?」
「......そういうんじゃない」
「じゃあ何」
「......分からない。ただ、慣れないだけ」
凛はそう言って、また箱の中の布地に目を落とした。つぐみが「大丈夫だって、可愛いから」と軽く背中を押す。凛は何も返さなかったが、布地を持つ手からは少しだけ力が抜けたように見えた。俺はそれを黙って眺めていた。
「秋月さんが着るの渋ってる間に、俺は一番似合う着方研究してるわけ」
「誰も見てない」
「見られる予定なんだよ。当日、店の入り口で」
「今日は誰も見てないって話だ」
「今日の練習が明日につながるんだよ」
「そうかよ」
桐生が蝶ネクタイを結んでは解き、また結び直す。2回やって3回目でも歪んでいる。
「桐生、その結び方おかしいだろ」
「うるさい。俺のスタイルだ」
「スタイルじゃなくて単に下手なだけだ」
「じゃあお前は結べんのかよ」
「別に興味ない」
「興味ないんじゃなくて、できないの間違いだろ」
「うるさい」
俺が言うと桐生は「じゃあお前がやってみろよ」と胸を張った。俺はやる気もないので首を振る。桐生が「その反応、逃げただろ」と食い下がってきたが、聞こえないふりをした。試着室代わりのカーテンの向こうから、つぐみが凛の背中を押す声が聞こえてくる。
「はい、着替えたら見せてね。サイズ合わなかったら直すから」
「......分かった」
カーテンの向こうで、段ボールの底を漁る音がした。凛が小さく「これ......サイズ表記どこ」と呟くのが聞こえる。
「タグ、襟の内側だよ」
つぐみの声が飛ぶ。少しの沈黙の後、「......あった」という声が返ってきた。それきりまた静かになって、布の擦れる音だけが続いている。
カーテンが閉まる。桐生がようやく蝶ネクタイを諦め、俺に投げてよこす。
「蒼太、お前も着ろよ」
「分かってる」
俺は自分の分の執事服を受け取り、教室の隅で袖を通す。黒いベストのボタンが小さくてうまく留まらず、指先が意外に手間取る。
「サイズ、ぴったりだといいけどな」
袖の長さは合っているようだが、肩まわりは少し余っている。それでも動きにくいほどではない。ズボンの丈もちょうどよかった。
鏡は無いから自分がどう見えているかは分からない。すると桐生が「おっ」と声を上げる。
「蒼太、思ったよりサマになってるじゃん」
「お前の感想は信用してない」
「失礼な」
桐生が自分の襟を立てたり倒したりしながら、鏡もないのに何度も肩越しに角度を確かめている。決まらないらしく、最後は諦めたように「まあいいか」と手を止めた。
カーテンの向こうから衣擦れの音が続いている。つぐみの「もうちょっと引っ張って」「ここのリボン、結び直すね」という声が漏れ聞こえてきた。俺は意味もなくベストの裾を二度、三度と引き直す。
* * *
「じゃあ、開けるよ」
カーテンの向こうから、凛の小さな声がする。「......待って、まだ」。つぐみが「まだって、もう15分経ってるよ」と苦笑する。「......分かってる」「じゃあ開けるからね、3、2、1」。数え終わる前に、凛の「待って」がもう一度聞こえた気がしたが、つぐみは構わずカーテンに手をかけた。
桐生は「おおー」と芝居がかった歓声を上げる準備をして待っている。俺は特に身構えていたつもりはなかった。ただの衣装確認だ。何を緊張することがある。
布が横に引かれると、そこに凛が立っている。
黒いワンピースに白いエプロン。裾が膝の上で揺れ、フリルの縁取りが光を拾っている。袖口のレースが手首のあたりで揺れ、いつもの制服とはまるで違う輪郭を作っていた。髪はいつも通り下ろしたままだが、それがかえってワンピースの装飾との対比を作っていた。凛は両手を体の前で組み、視線を落としている。
「......似合ってない」
凛の声は小さく、指先でエプロンの結び目をぎゅっと握っている。
俺は何も言えなかった。言葉を探しているうちに時間だけが過ぎていく。
「すごく似合ってる」
考えるより先に、声が出ていた。
凛が顔を上げる。目が合った瞬間、俺は自分がとんでもないことを言った気がして視線を逸らしそうになった。それでも逸らさなかった。
「......え」
「似合ってる。すごく」
2回言った。1回目が本当に自分の声だったのか、自信がなかった。
凛の顔が耳までみるみる赤くなっていく。両手が力を失ってだらりと下がり、意味もなく髪を触りだした。
「......そう」
凛がくるりと背を向けてカーテンの中に戻ろうとするのを、つぐみが「待って待って」と両手で止める。
「はい、今ので凛の好感度MAXいったね」
「......何がMAX」
「顔真っ赤だよ。鏡見せてあげたいくらい」
「......見せなくていい」
凛が両手で頬を押さえるが、それでも赤みは隠れなかった。桐生が「蒼太、お前まっすぐすぎんだよ」と俺の肩を小突いてくる。
「まっすぐも何も、思ったこと言っただけだ」
「その思ったことを口に出せる奴が少ないんだよ、世の中には」
桐生の言葉に、俺は何も返せなかった。あとで「見惚れてただろ」とでも言われたら厄介だ。顔に出ていないだろうな、と誤魔化す算段だけが頭を巡っている。誰も何も聞いてこないのに、勝手に焦っていた。
凛は頬を押さえたまま何か言いかけては止め、一瞬開いた唇をまた閉じる。
「秋月?」
「......何でもない」
凛はそう言ってカーテンの中に引っ込んだ。桐生が「なんかあったのか?」と聞いてきたが、俺も答えを持っていない。「さあな」とだけ返して、話を切り上げた。
* * *
着替えを終えた凛が教室の隅で片付けを始めている。俺は執事服のまま、ベストの裾を直していた。まだ着替える気にならない。
「藤宮くん、それいつ脱ぐの」
「もうちょっとしたら」
「......見た目、悪くない」
「悪くないって、それ褒めてるのか」
「......さあ」
凛は片付けの手を止めないまま、視線だけをこちらへ何度も往復させている。俺はそれに気づかないふりをして、ベストのボタンをもう一度留め直した。
「秋月、そんな見るなよ」
視線を感じて振り返ると、凛がすぐに目を逸らす。
「......見てない」
「今、見てただろ」
「......見てない」
俺が言い終わらないうちに、凛の返答が重なった。
「はいはい、目撃者います」
つぐみが横から口を挟むと、凛の片付ける手が止まった。桐生も面白がって「証言、詳しく聞きたいな」と参戦してくる。凛は箱の中身を必要以上に丁寧に並べ直し始める。誰とも目を合わせないための時間稼ぎに見えた。
「......つぐみ」
「執事姿の藤宮くん、そんなに珍しい?」
「......珍しくない」
「じゃあなんで2回見た?」
「......見てない、って言ってる」
凛は短く息を吐き、逃げるように横を向く。俺は思わず笑いそうになるのを堪えた。桐生は段ボール箱を片付けながら、まだ蝶ネクタイを弄っている。
「二人とも似合いすぎて逆に腹立つ」
「お前が下手なだけだろ、その結び方」
「うるさい黙れ」
「腹立つなら自分もちゃんと結べよ」
「それとこれとは別の話だ」
桐生の理屈はいつもよくわからない。つぐみが「桐生は永遠にそのままだと思う」と冷たく言い放ち、桐生が「ひどくない?」と抗議する声が教室に響く。
桐生の蝶ネクタイは結局最後まで歪んだままだった。片付けを終え、衣装を段ボールに戻していく。凛のメイド服も丁寧に畳まれて箱に収まった。フリルが潰れないよう、凛は上からそっと手のひらで押さえるようにして蓋を閉めた。
「明日で準備、最終日だね」
つぐみが箱の蓋を閉じながら言う。
「メニュー表、印刷は済んでる?」
つぐみが桐生に向かって聞く。
「桐生、明日の朝、印刷室行ってきて」
「俺? 聞いてないけど」
「今言った」
「無茶振りだろ」
桐生がぼやきながらも、結局はメモ帳に「印刷室」と書き足していた。字は相変わらず雑で、俺が横から覗くと「いんさつしつ」と読めなくもない崩れ方をしている。
「桐生、その字下手すぎるだろ」
「うるさい。俺の個性だ」
「個性で片付けるには限度があると思うけどな」
凛が小さく笑ったのが見えた。声には出ていない。でも口元がわずかに緩んでいる。
「看板も飾り付けも終わってる。あとは配置決めるだけ」
「クラス全体、士気上がってるよな」
桐生が伸びをしながら言う。廊下から他クラスの生徒の話し声が聞こえ、文化祭前日特有のそわそわした空気が校舎全体に満ちている。
「桐生、その蝶ネクタイ、明日までに誰かに結んでもらえよ」
「うるさい。当日までに完成させる」
「無理だと思う」
「お前に言われたくない」
「つぐみに頼めば?」
「それだ」
桐生が急に真顔になって、つぐみの方を振り返る。つぐみは「え、無理」と即答した。桐生の顔から一瞬で表情が抜け落ちる。
凛が箱を運ぼうとして俺と目が合うが、すぐに逸らされる。
「秋月、荷物持つぞ」
「......いい。自分で運べる」
「見た感じ、結構重いだろそれ」
「......重くない」
「顔に書いてある」
「......書いてない」
「1人より2人の方が早いだろ」
凛はしばらく黙っていたが、結局箱の片方を俺に持たせる。教室を出る間際、桐生とつぐみが「先に職員室戻ってるね」と声をかけて出ていった。二人分の足音が遠ざかると、廊下にはまた静けさが戻ってくる。
凛と二人で運びながら廊下を歩く。凛はそれ以上箱から手を離さず、廊下に出るまで一度もこっちを見なかった。
「......今日の、言葉」
「ん?」
「......何でもない」
凛はそれ以上続けず、俺も聞き返さなかった。箱を抱えたまま二人で準備室へと歩いていく。廊下の窓から差し込む夕方の光が凛の横顔を淡く照らしていた。窓の外では、他クラスの生徒たちがまだ何か作業をしている声が遠く響いている。明日はもう、文化祭前日だ。




