缶コーヒーの温度
教室に残っているのは、俺と凛の二人だけだ。
黒板の隅には「夜間作業 20時まで」と担任の判が押されている。窓の外はもう真っ暗で、グラウンドの照明も落ちていた。
看板は3枚とも机の上に並んでいる。入り口用の1枚は昨日のうちに下書きが終わっており、残る2枚は真っ白のままだ。
「これ、桐生の下書きか」
俺と凛は、並んで下書きを覗き込んだ。
「あいつ、美術の成績どうだったっけ」
「......知らない。聞かない方がいい気がする」
「......これ、猫?」
「熊のつもりらしい」
「......熊」
凛がもう一度絵を見る。輪郭の丸みと耳の位置。言われてみれば熊かもしれない。
「......画力、心配になる」
「文字は読めるからいい」
「メイド&執事喫茶」の文字だけは、太めのマジックで潰しが利いていて読める。
「絵の具、準備室から借りてきた」
「......筆、何本?」
「10本くらい。適当に使っていい」
「......全部使い切ったら怒られる?」
「聞いてない。多分大丈夫」
「......誰かに借りるの、緊張する」
「先生に許可もらっただけだろ」
「......それでも」
「秋月、そっちの筆持って。俺は縁描くから」
「......まっすぐ引くの、苦手」
「はみ出してもいい。あとで直す」
「......本当に、直せる?」
「多分な」
「......多分」
「自信持てって言われても、初めて描くんだから仕方ないだろ」
凛が筆を受け取り、持ち手を指先で確かめるように握り直す。
「そんなに力入れなくていい」
「......分かってる」
パレットを机の真ん中に置いて、俺たちは看板を挟んで向かい合った。凛の筆先は、線が右に流れては左に流れる。
「......ずれた」
「いい。縁は俺が描き直す」
「......迷惑かけてる」
「迷惑って言うな。飾り係、二人でやることになっただけだろ」
凛が少しの間だけ筆を止めた。それからまた色を置き始める。今度は筆先だけを見つめて、一画ごとに息を止めている。
「蛍光灯、切れかけてるな」
「......換えないの」
「先生に言っとく」
「......藤宮くんが言うと、ちゃんと直りそう」
「他の奴が言うと直らないみたいな言い方だな」
「......そう言った」
切れかけの蛍光灯が瞬くたび、凛の横顔が暗んで、また浮かぶ。
ずれた線を、凛は指で軽く払う。絵の具が乾く前だから、払った跡がぼやけて余計に汚れる。
「......余計汚れた」
「指で触るからだろ」
「......知ってる。分かってても、触ってしまう」
その言い草に、思わず笑いそうになる。
「秋月、案外不器用だな」
「......うるさい」
「料理も、絵も、不器用って共通点あるよな」
「......今、それ言う必要あった?」
「なかった」
「......分かってるなら言わないでほしい」
「善処する」
凛は真剣な顔のまま、また筆を持ち直した。絵の具の甘ったるい匂いに、ふとした瞬間、凛のシャンプーの香りが混じる。
赤の筆を持ち替える時、凛の指先がパレットの端でぶつかる。
「......あ」
「悪い」
凛は何も言わずに、少し体を右へずらす。数センチだけ、間が空いている。
「教室、俺らだけだな」
「......そう、だね」
「静かすぎて、逆に落ち着かないか」
「......ううん。落ち着く」
窓の外に、校舎の反対側の灯りが1つだけ見える。あとは筆の音と、凛が「......そこ」「......もう少し」と呟く声だけだ。
「悪くないな、こういうの」
「......うん」
「秋月、意外とこういう地道な作業向いてるよな」
「......褒めてる? けなしてる?」
「褒めてる」
「......そう」
* * *
指の先が、絵の具でべたついている。
「そろそろ休憩する。飲み物買ってくる」
「......うん」
「秋月も何か欲しいか」
「......いい。何でも」
「何でもって言われても困るんだけどな」
「......じゃあ、任せる」
筆を置く凛の手つきが、名残惜しそうに見えたのは気のせいかもしれない。
夜の廊下を1人で歩きながら、あとで「秋月の分も買ってやったんだぞ」と恩着せがましく言ってやろうかと益体もないことを考えた。言うわけがない。
自販機に硬貨を入れて、缶コーヒーを2本落とす。1本はブラック、もう1本も迷わずブラックを選んでいる。
教室に戻ると、凛は椅子に座ったまま絵の具のついた指先を見つめている。
「はい」
缶を差し出すと、凛がラベルを見て一拍止まる。
「......何、これ」
「ブラックだろ」
「......なんで知ってるの」
「いつも飲んでるだろ」
凛の目が、少しだけ大きくなる。缶を受け取った両手が、机の上でそのまま止まっている。
「......覚えてるんだ、そんなの」
「別に覚えようとしたわけじゃない」
言ってから、少し余計だったかと思う。缶の冷たさが手のひらから抜けていくのを、意味もなく指で確かめた。
凛はプルタブを開けて、一口飲んだ。
「......温かい」
「寒いだろ、もう」
「......うん」
窓を少し開けているせいで、風が入ってくる。凛は制服のブレザーの前を、片手で軽く合わせている。
「文化祭、楽しみか」
「......分からない。メイド服、着るの」
「似合うと思うけどな」
言った瞬間、自分の口の軽さに驚く。凛も驚いたらしく、缶を持つ手に一瞬力が入った。
「......からかってる?」
「別にからかってない」
「......そう」
凛は缶コーヒーに視線を落として、それきり黙って飲んでいる。壁時計の音だけが、やけにはっきり聞こえた。
「秋月は、何担当だっけ。当日」
「......接客。1時間だけ」
「客の相手、大丈夫か」
「......大丈夫じゃない。でもやる」
「無理そうなら、代わってやろうか」
「......執事が接客するの、変」
「別にいいだろ、1人くらい」
凛が缶コーヒーを両手で包み直す。指先がまだ赤い。
「......藤宮くんは、執事」
「そう。似合わないだろうけどな」
「......見てみたい」
喉の奥で、言葉がつかえた。凛は自分の言ったことに気づいていない顔で、缶のプルタブをかちかちと意味もなく起こしたり戻したりしている。
「......何」
「いや、別に」
窓の外で、風がカーテンをわずかに揺らす。どっちも黙ったまま、缶を傾けていた。缶コーヒーの中身は、もう半分近く減っている。
* * *
休憩を終えて、また色を塗り始める。
1枚目の看板は8割方仕上がり、残るは細かい縁取りだけになっている。凛の筆先はもう線からはみ出さない。
「上手くなったな」
「......慣れただけ」
「他の部活、もう終わったみたいだな」
「......静か」
窓の外の灯りが、いつの間にか1つも見えなくなっている。まぶたが重い。朝から動きっぱなしだったツケが、静かな教室で一気に回ってきた。
机に頬杖をついた腕が、少しずつ下へ沈んでいく。
「秋月、起きてるか」
声をかけたつもりだったが、自分の言葉がどこか遠くから聞こえた気がした。返事があったかどうかもよく覚えていない。
視界がゆっくりと暗くなっていく。
* * *
物音で目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。頬に机の木の感触が残っていて、痺れた腕は、ひと呼吸おいてやっと自分のものに戻った。
肩に重みがあった。手を伸ばして確かめると、布の感触。制服のブレザーだ。俺のものではない。
顔を上げると、凛が反対側の席で看板の縁取りを塗っている。俺の方を見ずに、筆先だけを見つめていた。
「......何」
「いや」
ずり落ちそうなブレザーを、指先で引き直す。裏地から、洗剤の匂いに混じって凛の匂いがした。
「これ、秋月のか」
「......寒いと思って」
凛はまだ筆先から目を離さない。声は、看板の上に落ちて消えるくらいの大きさだった。
「いつからかけてた」
「......少し前から」
「寒くないの、これで」
「......平気」
言いながら、凛の二の腕に鳥肌が立っている。
「二の腕、鳥肌立ってるだろ」
「......見なくていい」
俺はブレザーを脱いで、代わりに凛の肩にかけようとした。凛がブレザーの襟を掴んで、自分の方へ引き寄せる。
「......いい。自分のだから」
「でも」
「......今は、要らない」
それ以上は押せず、ブレザーを畳んで膝の上に置いた。まだ温かい。
凛が最後の筆を入れて、道具を置く。
「......できた」
「2枚目、もう終わってるのか。早いな」
「......途中まで手伝ってもらった」
途中までというのは、俺が寝る前の話だ。半分以上を凛1人でやっている。それを指摘しようとして、やめた。
「戸締まり、しないとまずいな。もう20時過ぎてる」
「......うん」
道具を片付ける手が、さっき肩にあった重みの残りを覚えている。凛は、それについて何も言わない。
「......何か言った?」
凛が片付けの手を止めて、こちらを見る。
「......いや」
「......そう」
凛は短く返して、また道具をまとめ始める。
鞄を持って、教室の電気を消す。非常灯の緑色だけが、机と椅子の輪郭を薄く照らしていた。
昇降口を出ると、夜の空気が肌に張りついた。校門までの道を、二人並んで歩く。
「看板、明日には乾くか」
「......たぶん」
「乾いたら、あとは飾り付けの続きだけだな」
「......うん」
「明日は桐生とつぐみも合流するんだよな」
「......4人になると、賑やかになる」
「桐生がまた変なメニュー案出してきそうだな」
「......今度は、たこ焼きにチョコがけとか言い出しそう」
「今日みたいな静かなのも、悪くなかったけどな」
凛は少し黙って、それから小さく答えた。
「......うん。悪くなかった」
歩いていると、時々凛の鞄が俺の腕に当たった。当たっても、凛は避けなかった。校門を出たところで、足を止める。
「......今日、ありがとう」
缶コーヒーの礼か、ブレザーの礼か、区別がつかなかった。聞き返す前に、凛はもう歩き出している。
「明日な。遅くならないうちに帰れよ」
「......うん、また明日」
街灯の下で、凛の後ろ姿が少しずつ小さくなっていく。凛は一度も振り返らずに、角を曲がった。




