放課後の共同作業
黒板に「準備スケジュール」と大きく書かれて、その下に係の名前が並んでいた。
文化祭まで2週間。準備が始まって3日目の放課後だった。教室は、もう授業の場所ではなくなっている。机を後ろに寄せて、床に模造紙を広げて、誰かが脚立を物置から引っ張り出してきた。絵の具の匂いと、ガムテープを剥がす音が混ざっている。
「メニュー、もう1回確認するよー」
つぐみが教卓の前に立って、プリントを片手に声を張った。バドミントン部の練習着のまま来ている。今日は部活が休みらしい。
「紅茶、コーヒー、オレンジジュース。フードは、クッキーとサンドイッチ。以上」
「待った待った」
桐生が手を挙げる。
「『桐生スペシャル』を入れたい」
つぐみが間髪入れずに言う。
「却下」
「まだ何も説明してない」
「却下」
「焼きそばにタピオカ入れて、執事が運ぶんだよ。映えるだろ」
「却下って言ってる」
つぐみが2回目を、さらに冷たく言う。桐生が「却下の速度が上がってる」と肩を落とす。
「映えと食えるは別の話だから」
「俺の中では同じだ」
「あんたの中の話はしてない」
俺は笑う。模造紙の隅でメニュー表の下書きを描いている途中だった。
「桐生、その脚立危ないぞ」
「大丈夫大丈夫。俺運動神経いいから」
「運動神経と脚立の安定は関係ないだろ」
窓際のカーテンレールの上に、埃が薄く積もっているのが見えた。文化祭の飾りを貼るには、あのあたりまで脚立がいるだろう。
少し離れた席で、凛がノートに何か書いていた。係決めの紙を手元に置いて、メニューの欄を見ている。何かを書いては、消している。
「秋月さん、紅茶担当でいい?」
つぐみが声をかけると、凛が顔を上げる。
「......担当は、いい。でも」
「でも?」
「......紅茶は、ちゃんとしたのにした方がいい」
「ちゃんとしたの、って」
「......ティーバッグを人数分まとめて煮出すと、渋くなる。ポットで、1回ずつ淹れた方がいい」
教室が一瞬、静かになった。誰かが「秋月さん詳しいな」と言って、凛が「......普通」と返した。
「じゃあ淹れ方、秋月さんに任せていい?」
「......淹れるだけなら」
「決定。紅茶は秋月、淹れ方つき」
つぐみがプリントに書き込む。凛が「淹れ方つきって何」と小声で言ったが、つぐみは聞こえないふりをした。
「あと、看板。教室の前と廊下と入り口の3枚」
「3枚も?」
「目立ってなんぼだから」
「じゃあ俺、看板やる。絵うまいよ」
桐生が手を挙げる。
「下書きだけね」
「なんで下書きだけなんだよ」
「桐生スペシャルの実績があるから」
「あれはメニューの話だろ」
「センスは一貫してるでしょ」
桐生が反論しようとして言葉を探し、結局「まあ、下書きはやる」と引いた。
係が割り振られていく。飾り付けと看板とメニューと買い出し。名前が黒板に書き足されるたびに、教室の人数が一人、また一人と減っていった。部活のある奴は途中で抜けて、塾のある奴も鞄を担いだ。
午後6時を回る頃には、教室に残っているのは数えるくらいになっていた。
「あたし、これから部活の招集かかってるんだよね」
つぐみがスマホを見て言う。
「バドミントン部の招集、こんな時間からか」
「顧問がうるさいの。時間厳守って」
つぐみが鞄を肩にかけながら、まだ気になるように教室を見回す。
「飾り付け、上の方がまだ終わってないんだけど」
「俺は買い出しのリスト作るって言ったろ」
桐生が手元のメモを示す。
「明日の朝、ホームセンターが開いたらすぐ行く担当だ」
「じゃあ飾り付けの残り、誰か」
つぐみが教室を見回した。残っているのは俺と凛と、あと二人だけだ。その二人も、片付けの手を止めて時計を見ている。
「藤宮、残れる?」
「まあ」
「秋月は?」
凛が、係決めの紙から顔を上げる。
「......飾り付けは、私の係」
「だよね。じゃあ二人で。あたしと桐生は明日の分やるからさ」
つぐみがそう言って、鞄を肩にかけた。帰りかけて、凛の机の前で足を止める。
「あ、そうだ。秋月さん」
「......何」
「あたしのこと、つぐみでいいよ。白河さんって、よそよそしいし」
凛が少し黙った。
「......考えておく」
「考えるところ?」
「......考える」
つぐみが笑って、桐生を引っ張って教室を出ていった。「考えるってさ」「いいじゃん、秋月さんらしくて」という声が、廊下の方で小さくなる。
残っていた二人も、上の段の飾りは脚立がいるからと言って、明日に回すことにしたらしい。鞄を持って、「お疲れー」と手を振って出ていった。
教室に、俺と凛が残った。
* * *
二人きりになった瞬間、好都合だと思った。何が好都合だ。飾り付けだぞ。
しばらくは、二人とも黙って手を動かす。
俺は床に残ったガムテープの切れ端を拾って、模造紙のメニュー表を続きから描く。凛は輪っか飾りを繋いでいる。色紙を細長く切って端と端を糊で留めて、また次の色を通す。橙と緑が交互に連なって、机の上に輪っかの鎖が少しずつ伸びていった。
「秋月、去年も飾り係だったのか」
「......去年は、違うクラス」
「じゃあ初めてか、こういうの」
「......うん」
文化祭の準備というのを、俺は今までちゃんとやった覚えがない。去年は模擬店の焼きそばを焼いていただけで、こういう、放課後の教室に二人だけ残って何かを作る、みたいなのは初めてだ。
窓の外が、暗くなり始めている。グラウンドの方から、最後まで残っていた部活の声が引き上げていく音が聞こえた。
凛が、輪っかの鎖を両手いっぱいに抱えた。それを窓際の壁の上の方に貼っていくつもりらしい。
「上、届くのか」
「......椅子があれば」
「無理そうなら言えよ」
「......平気」
凛が近くの椅子を一つ引いてくる。その上に乗って、つま先立ちになる。壁の高いところに輪っかの端を押し当てた。
届いていない。あと手のひら一つ分、足りない。
「秋月、それ俺がやる。降りろ」
「......届く」
「届いてないだろ」
「......届く。届くから」
凛が、もう一段つま先を伸ばした。椅子がかたんと鳴る。座面の上で、凛の踵が浮いている。
「危ないって」
「......平気」
平気の声が終わる前に、椅子がぐらりと傾く。
俺は反射的に手を出していた。倒れる方向に回り込んで、凛の腰のあたりを支える。手のひらに、凛の体重が半分だけ乗った。シャツ一枚越しに、体温がある。
「......っ」
凛が小さく息を呑んだ。輪っかの飾りを持ったまま、動きが止まる。
俺も止まっていた。腰に回した手の下で、凛の息が浅い。
「......離して」
「落ちるぞ」
「......落ちない」
「じゃあなんで動かないんだ」
「......っ、うるさい」
落ちないと言いながら、凛は椅子の上で固まったままだった。輪っかの端は、まだ壁に届いていない。
「降りるから。手、貸して」
俺は腰から手を引いて、代わりに片手を差し出した。凛が椅子の上から、その手を取る。
降りる時、凛の手が、俺の手のひらの上に重なった。
手を引く前に、指が一拍止まった。
「......ありがと」
凛が、目を伏せたまま言った。色紙の輪っかを、胸の前で抱え直す。
俺は、自分の手のひらをポケットに突っ込んだ。
「上は、俺がやる。背、こっちの方が高いから」
「......どうぞ」
俺が椅子に乗ると、壁の高いところに輪っかの端が普通に届いた。凛が下から、飾りの位置を見ている。
「もう少し、右」
「ここか」
「......もう少し」
「ここ」
「......そう」
俺が留めて、凛が下から確かめる。凛が「右」と言えば俺が右に動かして、凛が黙れば、それで合っているということだった。指示が短くなっていく。「もう少し」が「そこ」になって、「そこ」が頷きだけになる。声を出さなくても、だいたい伝わるようになっていた。
体育祭で組まされた競技の時も、こんな感じだった気がする。最初は足が合わなくて転びかけて、終わる頃には歩幅が揃っている。
凛の指示通りに、輪っかを壁に留めていく。下から見上げる凛と、上から作業する俺。教室の蛍光灯が、半分だけ点いている。その半分の明かりの中で、輪っかが壁の上で繋がっていった。
「もう少し右」「ここか」というやり取りを、何回繰り返したか分からない。気づくと、窓際の壁の上に、橙と緑の鎖が1本、端から端まで渡っていた。
「......できた」
凛が、下から見上げて言った。声に、ほんの少しだけ満足そうな響きがある。俺は椅子から降りて、同じ方向を見上げた。安っぽい色紙の輪っかが、壁の上に渡っている。
「悪くないな、これ」
「......うん」
* * *
飾りを貼り終えた頃には、午後7時を回っている。
窓の外はもう暗い。看板は、入り口の1枚に下書きが入っただけで、あとの2枚は白いままだ。色塗りは明日以降になる。
俺は教室の鍵を職員室で借りて、戸締まりをする。
「先に待ってろ」
「......うん」
鍵を返しに行く間、凛は廊下で待っていた。職員室の蛍光灯はまだ煌々と点いていて、何人かの先生が残業している。そこから出ると、廊下は急に暗い。電気を消した教室の前で、非常灯の緑だけが点いていた。凛が鞄を肩にかけて、俺が鍵をかけるのを待っている。
二人で昇降口まで歩く。スリッパから靴に履き替える音が、静かな校舎に二つだけ響く。
「......明日も、残るの」
凛が、下駄箱の前で言った。靴を履き替えながら、こっちは見ていない。
「看板が、まだ半分残ってるからな」
「......そう」
凛が、靴の踵をとんと床に当てた。それから、少し間を置いて言った。
「......私も、残る」
「飾り付け、もう終わったろ」
「......看板の、色塗り。手伝う」
「絵、描けるのか」
「......塗るだけなら」
「じゃあ、下書きの中を塗るだけでいいから」
さっきの紅茶と同じ言い方だな、と思った。淹れるだけなら。塗るだけなら。
「じゃあ、頼む。よろしく」
「......うん」
昇降口の扉を開けると、夜の風が入ってきた。9月の終わりの夜は、もう半袖だと少し冷える。
校門の外灯の下を、二人で歩いていく。看板はまだ半分。明日も、たぶん二人で残る。




