多数決の罠
9月下旬の放課後。
黒板に3つの候補が並んでいた。「メイド&執事喫茶」「お化け屋敷」「模擬店(焼きそば)」。チョークの字は3つ目だけ少し詰まっている。文化祭の出し物を決めるホームルームだ。
窓から差す光が斜めに床を切っている。
「去年の隣のクラス、お化け屋敷で外まで行列できてましたよね」
クラス委員の男子が立ったまま言う。
「でも準備が大変だろ。受験前だし」
「受験の話はなし。文化祭の話だけで」
あちこちから声が上がる。桐生が腕を組んで黒板を眺める。
「どれも捨てがたいな」
「そうだな」
俺は席から少し前を見る。2〜3列先の窓側、凛が手元のプリントを持ちながら黒板を向いている。横顔だ。視線は黒板の3つの候補の上を動いていた。
「お化け屋敷は本気でやらないとしょぼくなるから。準備の工数がかなり増える」
後ろの席の男子が言う。
「でも盛り上がり方が違うって。喫茶系より来場者多いと思う」
「メイド喫茶と執事喫茶を両方やれば集客力あるって聞いたけど」
「去年の3年生がやってたやつ?」
「今年は3年やってないはず」
「じゃあかぶらないじゃん」
「メイドと執事、両方やれるのはありじゃない?」
誰かが言った。声がそっちに向く。
「コンセプトが明確だし、去年の3年とかぶらない」
「集客力もある」
「衣装代はかかるけど、楽しいのは確か」
声がひとつの方向に集まり始める。
「執事って何着るの」
「燕尾服とか? 格好よくない?」
「どこで用意すんだよ、そんなの」
「借りればいいじゃん」
「誰が着るかによるけど」
笑いが起きた。桐生が「それは確かに気になる」と言う。俺は答えなかった。
「でも準備の負担が増えるのは変わらないから、それを込みで考えてほしいんですよね」
委員が黒板を向きながら言う。
「模擬店はどうですか。シンプルだけど集客力ある気がして」
「焼きそばは定番だよね」
「お金がかかるけど」
「でもリスクが一番低い」
「盛り上がり方が違うって」
「盛り上がり方で言えばお化け屋敷が一番でしょ」
「でも2組もお化け屋敷やるって聞いた」
「かぶるじゃん」
「内容が違えばいい」
「そんな保証はない」
意見が飛び交う。ざわめきが収まらない。窓の外でグラウンドの声がした。体育の授業か何かだろう。
そのざわめきの中で、誰かが言う。
「そもそもお化け屋敷の方が絶対楽しいでしょ。喫茶より面白いって」
その声が届いた瞬間、凛のプリントを持つ指に力が入った。
「じゃあ多数決でいきましょう。お化け屋敷に賛成の人、手を挙げて」
委員が言う。教室の前半分くらいで手が上がった。
俺は手を挙げなかった。
「はい、下げて。次、メイド&執事喫茶に賛成の人」
俺は手を挙げた。理由は、考えないことにした。
さっきより多かった。数える委員の声が、少し明るくなった。
「模擬店に賛成の人」
数えるまでもない程度だった。
「メイド&執事喫茶に決まりです」
歓声が上がる。前の席の女子2人が顔を見合わせて笑っている。後ろからも拍手が来た。
2〜3列先、凛のプリントが机の上に静かに置かれている。
「衣装はどこで揃える?」
「先輩に聞いてみようよ」
「誰がどれ着るか早めに決めないと」
「配役は後で決めようか。順番に」
委員が声を上げた。話がすぐに次へ進む。どこかから「何人くらいメイド役にするの?」という声がした。
「やるか」
桐生が俺の横で言う。
「みたいだな」
* * *
出し物が決まると、次は配役だ。
担任の花園先生がそのタイミングで後ろのドアから入ってくる。プリントを脇に抱えていて、黒板の字を見ると「あ、決まったんですね」と言いながらにやりとした。
「先生もメイド服着ていい?」
教室が一瞬静かになる。
「ダメです」
複数の声が同時に返す。誰が言ったか分からないほど重なった。
「ですよね」
花園先生が笑いながら黒板の前に立つ。メモ帳を取り出した。
「じゃあ配役を決めましょうか。メイド役は何人くらいいる?」
「5〜6人は欲しくないですか」
「そうですね。自分からやりたいっていう人は?」
数人手が上がった。それだけでは足りない。委員が名前を書き始める。
「あと2〜3人必要だね。誰かいない?」
少し間があった。教室の視線がいくつか動く。
「秋月さんはどうですか」
誰かが言う。最初の声がどこから来たか、俺には分からなかった。
「秋月さんいいじゃないですか」
「絶対いい」
声が重なり始める。
「秋月さんで決まりでしょ」
「納得」
凛の席を中心に視線が集まる。凛はまっすぐ前を向いたままだった。
「賛成の人は?」
委員が聞く。
ほぼ全員の手が挙がった。
花園先生がにこにこしながらメモ帳に何かを書いている。
「全会一致ですね」
「ちょっと待って」
凛が口を開く。
「他に立候補している人が先じゃないですか。なんで私が」
「だって秋月さん、絶対似合うじゃん」
「そういう問題じゃない」
「秋月さんのメイドが見たい」
「そういう問題じゃないって言ってる」
凛が花園先生を見る。
「先生、これはさすがに」
「全会一致ですもんね〜」
花園先生がメモ帳を手前に引きながら言う。
「先生も味方してくれないんですか」
「先生は見守る側なので」
笑い声がいくつか上がる。
つぐみが凛の腕を軽くつつく。
「逃げ場ないよ」
「......」
凛が黙る。花園先生がメモ帳に「秋月さん」と書くのが前の席越しに見えた。
「じゃあ執事役も決めましょうか。男子、立候補は?」
委員が言う。こちらは何人か手が上がった。3〜4人くらいだ。
「藤宮くんもどうですか」
桐生が俺の名前を出す。
「なんで俺がなんだ」
「メイドと執事でセットが綺麗じゃないですか」
委員が言う。花園先生がメモ帳のページを繰った。
「それはいい。テーマが出る」
「藤宮くんで決まりじゃないですか」
どこかから声が続く。
「そういう問題じゃない」
「秋月さんと同じこと言ってる」
どこかから笑いが起きる。
「藤宮は執事で」
別の声が続く。またほぼ全員の手が上がった。
「決まりですね」
花園先生がメモ帳を閉じて、黒板の端に「来週〜準備開始」と書いた。
「秋月さんと藤宮くん、いいんじゃないですか」
花園先生が笑いながら言う。
「全然よくないです」
凛が低い声で返す。
「見てみたい気はする」
誰かが言う。また笑いが起きた。
「蒼太と秋月さんペアとか最高かよ!!」
桐生が叫ぶ。隣の席が何人か振り返った。
凛の首は動かなかった。
花園先生が「来週の詳細は委員から連絡します」と言いながらドアを出た。チャイムまであと少しある。
「蒼太、服のサイズMだよな」
桐生が言う。
「なんで聞くんだ」
「執事服の発注。有志で動くらしい」
「お前が手を挙げたのか」
「まあ。でも秋月さんとメイド執事のペアだぞ。すごくないか?」
「すごくないだろ」
「なんでそんな冷静なんだよ」
「冷静じゃない理由がない」
「嘘をつけ」
桐生が笑いながら鞄を担ぐ。俺は荷物をまとめた。
* * *
校門を出ると凛が隣に来た。いつもの路地に入る。
空が少し高い。9月の終わりに近い空だ。室外機の音が遠くにある。2人分の足音。しばらく何も言わなかった。
「花園先生が言ってたな。来週から準備が始まるって」
「......そうだった」
「メイド服の準備は向こうでするのか、自分で用意するのか」
「......知らない。聞いてなかった」
「執事服は向こうで借りるらしい」
「......そう」
少し間があった。
「......全員一致は、やりすぎだと思う」
「そうかもな」
また黙った。路地を歩く。どこかの家で夕方の準備が始まっている気配。煮物の匂いが少し混じっていた。電柱の影が斜めに伸びている。
凛が何かを言おうとして、やめる。足音が続く。路地の角を曲がる。住宅街の奥で、子供の声がした。
「......変な人」
凛が前を向いたまま言った。声は小さかった。
俺は返事をしなかった。
塀の向こうに、窓の明かりが灯り始めていた。
凛の家の前まで来た。鍵を出しながら、立ち止まらずに、少しだけ顔がこちらを向く。
「......また明日」
「おう。執事役は逃げないから安心しろ」
「......誰も心配してない」
扉が、ぱたんと強めに閉まった。
路地に1人分の足音が残る。来週から準備が始まる。




