九月のエプロン
9月の初旬。
昼休みの教室。残暑のなかにも空気が少しだけ変わっていた。窓から差す光はまだ明るいが、夏の盛りほど眩しくない。扇風機が首を振りながら動いている。どこかの机でふたを開ける音がした。弁当の匂いが漂っている。
窓の外では、セミがまだ鳴いている。9月になっても声が止まらない。そういう年もある、と誰かが言っていた気がする。
桐生が向かいの席に弁当を持ってくる。ふたを開けながら、思い出したように言った。
「先週さ、秋月さんに聞かれたんだよな」
「何を」
「藤宮の誕生日。いつか知ってるかって」
俺は箸を止める。
「なんで」
「俺も知らない。聞かれたから答えた。まずかったか?」
「別に」
「まあ何か理由があって聞いてきたんだろうなとは思ったけど、詮索はしなかった」
「そうか」
桐生がからあげを口に入れる。咀嚼の音がする。それ以上の話は続かなかった。
俺は弁当に視線を戻してから、少し離れた席を横目で見る。
凛とつぐみが机を向かい合わせにして、弁当を食べながら話していた。声は落としている。2人の距離が近い。凛が少しかがんで、つぐみの方に顔を寄せて何かを言っていた。つぐみが答える。また凛が言う。
凛が小さなメモのようなものを差し出して、つぐみが首をかしげる。何度か往復して、また首を振られていた。2人の声は届かない。
「......手作りって難しいの?」
一瞬だけ凛の声が届く。周りのざわめきの隙間に、はっきりと。凛本人がすぐに気づいて声を落とした。つぐみが笑い声を上げた。凛がつぐみを肘で突く。
「何あれ」
桐生が言う。
「知らない」
「こそこそしてるな」
「そうだな」
「気になってる?」
「別に」
「嘘だ」
俺は答えない。卵焼きを口に入れた。向こうでつぐみが何かを続けていて、凛がもう一度肘を入れた。つぐみが笑い続けている。
秋月が桐生に聞いた、という事実だけがある。なぜかは分からない。
桐生が唐揚げを食べながら何かを言っている。返事だけ返す。向こうの席では凛とつぐみの会話がまだ続いていた。声は届かない。昼休みの残りの時間が過ぎていた。
「藤宮、顔がそっち向いてるよ」
桐生が言う。
「向いてない」
「だいぶ向いてた」
俺は正面に向き直る。弁当の残りに箸をつけた。
チャイムが鳴った。向こうで凛が弁当箱を片付けている。メモをしまって、つぐみと何か言い合っていた。昼休みのざわめきが少しずつ収まっていく。
* * *
放課後。
教室の光が少し赤みを帯びていた。窓から見える空に橙の色が混ざり始めている。帰り支度をする音があちこちでしていた。桐生が椅子を引いて立ち上がる。
「じゃあな」
「おう」
桐生が鞄を担いで教室を出ていく。俺も鞄を持とうとして、声をかけられた。
「藤宮くん」
振り返ると、つぐみが俺の机の前に来ていた。
「ちょっといい?」
「何」
「凛がプレゼント探してて」
つぐみが直球で言う。
「今月誕生日でしょ、藤宮くん。何が欲しいとか、ある?」
「白河!!」
廊下から声が飛んでくる。凛だった。扉のところに立っている。鞄を抱えたまま、声が上ずっていた。廊下にいた生徒が何人か振り返る。凛がそれに気づいて、少し声を落とした。
「ちょっと待って。何してるの」
「聞いてる。本人に聞くのが一番早いじゃん」
「聞かなくていい」
「何で?」
「そういう問題じゃない」
凛がつぐみの方へ歩いてくる。椅子の間を縫って、早足で。つぐみの腕を引っ張った。つぐみは引かれながらも俺の方を向いたままだった。
「何も問題じゃないと思うけど」
「問題しかない」
「じゃあ何が問題なの」
「全部」
「全部って具体的に言えば」
「......言えない」
「言えないんじゃなくて言わないんじゃん」
凛が黙る。つぐみが「正解っぽい」と呟きながら笑った。凛がつぐみを引っ張る。
凛がこちらをひと目見て、すぐに顔を背けた。何か言おうとして、口を開いて閉じる。
「藤宮くん、気にしないでね」
つぐみが言う。
「気にしてない」
「じゃあ聞いていい?」
「待って」
「もう聞いてる」
「うるさい」
「ねえ藤宮くん。食べ物は好き?」
「まあ。嫌いじゃない」
「お菓子は?」
「食べるよ」
「焼き菓子とかは?」
「特には。別に嫌いじゃないけど」
「好きな方には入る?」
「入ると思う」
「じゃあ箱とか缶に詰め合わせたやつ、もらったら嬉しい?」
「どういう意味だ」
「お菓子の詰め合わせ。もらったら嬉しいかどうか」
「もらったことないから分からない」
「分からないじゃなくて、もらったとしたら」
「まあ、嫌じゃないと思う」
「思うじゃなくて」
「嫌じゃないよ」
「よし」
つぐみがうなずく。それから凛を見た。
「聞けた。参考にすれば?」
凛がつぐみを見る。それからこちらをひと目見て、鞄の持ち手を両手で掴み直した。
「......行くよ」
「なんで逃げるの」
「逃げてない」
「絶対逃げてる」
「行くって言ってる」
「ちょっと待って。あともう少しだけ」
つぐみがまた俺に向く。
「誕生日いつか、凛が調べてたよ。一応」
「白河!!」
今度の凛の声は、本当に低かった。
「だって本人には知らせといた方が」
「余計なことしなくていい」
「これは余計じゃない。必要な情報提供」
「必要じゃない」
「なんで?」
凛が「行くから」と言ってつぐみを引っ張る。つぐみが笑いながら引かれていった。
「藤宮くん、参考にしまーす。あと」
廊下に出てから、つぐみが振り返る。
「藤宮くんのその鈍感さ、いつか刺されるよ」
「うるさい」
凛が「行く」と言って歩き始めた。つぐみが後を追いながら笑っている。
俺は机の前に立っている。
桐生はもういない。帰り支度の音もほとんど収まっている。窓から橙の光が差していた。椅子が1つ、机の脇に引きっぱなしになっていた。凛が引っ張ったときのやつだ。教室の中に、俺だけが残っている。
廊下からまだ声がしている。
「......たまたま覚えてた」
凛の声だ。
「絶対嘘じゃん」
「覚えてた」
「どこで?」
「......聞いた」
「誰に?」
「......いい」
「なんで隠すの」
「隠してない」
「じゃあ言えばいいじゃん」
「それとこれは別」
「意味分かんない」
「うるさい」
「うるさくないよ。ちゃんと調べたじゃん」
「......そういうことを言ってるんじゃない」
「じゃあどういうこと」
「......なんでもない。行くよ」
「凛が自分で言えばよかったじゃん」
「......うるさい」
「だって」
「行くって言ってる」
歩く音がして、つぐみが「待ってよ」と追いかける声が続いた。廊下の声が遠くなる。
俺は鞄を担いで教室を出る。
* * *
翌日の放課後。
廊下から、つぐみの声が聞こえてくる。
「凛、昨日どうだった? エプロンつけてたって聞いたけど」
「......なんでもない」
「なんでもなくないでしょ。ちゃんとできた?」
「......次の話して」
「壊滅したんじゃん」
「してない」
「でも?」
「......次の話して」
凛の声が少し低くなる。つぐみが笑い声を上げた。廊下の曲がり角の向こうで話していたらしく、俺が角を曲がったとき2人の姿が見えた。つぐみが凛の腕をつつく。
「藤宮くん来た来た」
凛が振り返る。目が合った。
「......帰るの」
「そうだな」
「......同じ方向だから」
「分かってる」
3人で下駄箱まで歩く。つぐみは下駄箱の前で「またね」と言って靴を履いた。凛が靴を履き替えている間、つぐみが声をひそめてこちらに言った。
「昨日のこと、本気にしてあげてね」
「何の話だ」
「鈍感さと本気さは別だから。凛の場合は」
つぐみが靴を履いて先に出ていく。
俺と凛の2人になる。校門を出て、住宅街に入る。いつもの路地。夕方の空気が涼しい。セミの声が今日は遠い。自転車が1台通り過ぎた。
「......エプロン」
凛が言う。
「何」
「......聞いてたでしょ」
「ちょっとだけ」
「......なんでもなかった」
「エプロンして何してたんだ」
「......なんでもない」
「なんでもないことはないだろ」
「......少し練習した。うまくいかなかっただけ」
それ以上は言わない。
俺もそれ以上は聞かなかった。
足音が2つ続く。住宅街の夕方。商店街の角を曲がる。どこかの家から夕飯の匂いがした。凛が少し前を向いている。
「......うまくできなかった」
凛がまた言う。誰かに言うつもりというより、ひとり言に近かった。
「そうか」
「......そう」
それきり、また黙る。
凛の家の前で、凛が鍵を出した。差し込む前に、半分だけ振り返る。
「......また明日」
「おう」
扉が軽い音で閉まった。
俺は商店街の方へ歩き出す。
誕生日まで、あと10日かそこらだった。
夕方の空が少し高くなっていた。




