夏の名残
9月1日。
教室のドアを開けると、もうそれなりに人が来ていた。夏休み明けの教室というのはいつも独特の空気がある。久しぶりに会う同士がそこかしこで話している。どこかが弾んでいる。どこかが眠そうだ。窓の外から、まだセミの声がする。
自分の席に向かって、足が止まる。
凛がいた。
すでに席についている。制服。バッグを机の横にかけて、手元のノートに何か書いていた。こちらには気づいていない。鉛筆が動いている。髪が肩にかかっていた。夏前と同じだ。少し伸びたか。分からない。
「......おはよう」
顔を上げないまま言う。
「気づいてたのか」
「足音」
答えてから、またノートに視線を落とす。
俺は椅子を引いて座る。机の上に鞄を置いて、ひとまず体の向きを前に向けた。
おかしいな、と思った。
夏休み中はほぼ毎日LINEしていた。今日どこどこに行ったとか宿題の進捗とか、そういう他愛ない話が積み上がっていた。なのに今、面と向かってみると言葉が出てこない。
「......久しぶり」
凛が言う。
「久しぶりも何も、昨日の夜もLINEしてたろ」
「関係ない。会うのは久しぶり」
言いながら、また視線をノートに戻す。正しい。正しいんだが。
「そうか」
とりあえずそう返す。
凛はノートに何かを書き続けている。横目でちらりと見る。縦横に罫線が入っていて、数字のようなものが並んでいた。グラフか表か。見られていることに気づいた凛がそっとノートを傾けた。
「......なんでもない」
聞いてない、とは言わなかった。
俺は机の上のノートを開く。夏休みの宿題の最後のページ。今日が提出日だった。シャープペンの音が隣からしていた。一定のリズムで書いている。書き慣れている音だ。昨日まで文字だったものが、今は隣で音を立てている。
窓の外でセミが鳴いている。空は青い。まだ夏の空だ。
椅子を引く音が、あちこちでした。誰かが窓を開けて、まだ蒸し暑い風が入ってくる。
教室に人が増えてくる。桐生が廊下から入ってきた。
「おはよーって、藤宮じゃん。久しぶり」
「昨日LINEしてたろ」
「会うのは久しぶり。秋月さんもいる。奇遇」
「奇遇じゃない。同じクラスだろ」
「だな」
桐生は自分の席に落ち着いて、すでにカロリーメイトを開けていた。朝から食べている。「朝から食うな」と言いかけたが、毎度のことなので止めた。つぐみも少し遅れて入ってきて、凛の机の前で立ち止まる。
「凛、夏休みどうだった?」
「......普通」
「嘘。色々あったでしょ。海も肝試しも花火も行ってたじゃん」
「......普通だった」
「そういう嘘のつき方、下手すぎ」
つぐみが隣の席に座りながら笑う。
「藤宮くんと一緒のこと多かったでしょ」
「......関係ない」
「え、なんで即答なの。怪しすぎる」
「......怪しくない」
「凛が否定するやつって大体本当のことじゃん」
桐生が「それな」と言いながらカロリーメイトをかじる。凛はそれ以上何も言わず、視線をノートに戻した。
「どっかでまた会う予定あるの?」
つぐみが続けた。
「......ない」
「でも同じクラスだし」
「......それは別の話」
「そうかな」
凛がページをめくる。話を切り上げる動作だと分かるのだろう、つぐみはそれ以上しつこくしなかった。代わりに桐生が振り返ってこちらに向いた。
「藤宮さ、何か気まずいとか?」
「ない」
「そう? まあいいけど」
桐生がまたカロリーメイトに戻った。隣の席で凛がノートを書いている音がしている。桐生の咀嚼音がする。教室のざわめきが続いている。夏休み明けの朝だった。
ホームルームが始まる前の10分間、教室の声はざわざわと続く。凛がノートを書き続ける音だけが、隣からずっとしていた。
* * *
3時間目のホームルームで、夏休みの宿題提出と自由研究の発表順を決める。
「じゃあ順番は出席番号順で。発表は全員30秒以内。夏休みのことを何か一言でいい」
花園先生がそう言う。
出席番号の順に発表が進む。「家族で旅行に行きました。2回」「毎日バイトしました。貯金できました」「図書館に通って読書をしました」「ゲームを1000時間やりました」「それ夏休みより長い」「換算するとそうなった」。クラスが笑った。桐生の番が来た。
「バイトで初任給もらいました。ほぼ全部使いました」
「どこに?」
「洋服です」
「そうか。じゃあ藤宮くん」
俺の番が来た。
「友達と海に行きました」
「よし。じゃあ次、秋月さん」
花園先生が凛を指す。
凛が立つ。
「自由研究は『方向感覚と空間認知能力の相関』について調べました」
「すごい。どういうきっかけで?」
「......自分が方向音痴なので」
クラスがぶわっと笑う。凛は「笑うところではない」という顔で立っていた。
「具体的に調べたんですか?」
「地図の読み取り速度と正答率を測定して、実際の道案内の精度との差異を検証しました」
俺は思わず吹き出した。
隣から凛の視線が来る。
「......また面白いって言った」
「すまん。でも、それを自由研究にしようと思ったのが」
「......思うだろう」
「そう言われたら否定できないけど」
凛は再び着席して、視線を正面に戻した。耳が少し赤かった。
桐生が背後から肩を叩いてくる。
「自由研究の話、もっと聞きたいんだけど」
「俺が聞きたいわけじゃないだろ」
「藤宮がきっかけじゃないかとか、思わないの?」
「何がだ」
「方向音痴の研究をしようと思ったきっかけ」
「お前はそれを今俺に聞くのか」
「聞いてみたかった」
俺は正面を向く。凛はもう前を向いていた。桐生が何かを言い続けているが、もう答えなかった。
ホームルームが終わって、次の授業の準備をしながら凛を横目で見る。ノートを開いている。またペンを持っている。さっきとは別のノートだった。どこからそんなに書くことが出てくるのかは分からない。
昼休みになって、桐生が弁当を持ってこちらの机に来る。
「秋月さんの自由研究の続き、気になってる」
「だから俺に言うな」
「でも一番気になってるのは藤宮だろ。客観的に見て」
「客観的に見てそういう結論になるのがおかしい」
「いや普通にそうだろ。さっき吹き出してたじゃんか」
桐生が弁当の容器を開けながら言う。向こうの席では凛とつぐみが並んで弁当を食べていた。凛の横顔が少し見えた。つぐみの話に時々うなずいている。食べ終わって弁当箱を片付けてから、窓の外を見ていた。外の何かを見ている顔だった。
「方向音痴を研究しようと思ったきっかけって絶対ある。そういうテーマって動機があって選ぶじゃんか」
「それはそうかもしれないけど」
「でしょ。で、その動機って何だと思う?」
「知らない」
「迷子になったとか誰かに道を教えてもらったとか、そういう感じじゃないかな」
俺は答えない。向こうの席を見た。凛がちょうど顔を窓から離して、前を向く。
「気になるじゃんか」
桐生がさらっと言う。からかっている声ではなかった。
「知らない」
もう一度そう言う。
「よくそんなに知らないって言えるよな」
「お前に言われたくない」
「ほんと?」
向こうで凛が弁当箱を片付ける。立ち上がって窓の外を一度見る。それからつぐみに何か言って、教室を出ていく。つぐみが後を追いかけた。
俺は弁当のふたを閉める。桐生はにやにやしながら唐揚げを食べていた。
午後の授業はそれなりに過ぎる。英語の小テストはなんとかなった。5時間目の数学は黒板の半分以上が板書で埋まって、写し終わったところでチャイムが鳴った。凛は授業中も時折ノートに何か書いていた。授業の内容なのかどうかは分からない。授業が終わるたびにペンを置いて、次が始まるとまた取り出す。繰り返しの動作。夏休みの間は見ていなかった動作だった。
* * *
放課後になる。
下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから声がした。
「......帰るの」
凛だった。
「そうだな」
「......方向が同じだから」
聞いてないのにそう言う。
「分かってる」
2人で校門を出る。校門の前でもたついた拍子に、凛が少し先を歩いた。すぐに追いついた。凛は速度を合わせなかった。俺も合わせなかった。それでも2人の歩調は自然に同じになった。
住宅街に入ると人の流れが減る。いつもの路地。夕方の光が道路の上に落ちている。空は青いが、少し違う青だった。夏の空より少しだけ透明感がある。
「......自由研究、笑うなら先に言ってほしかった」
「先に言えるわけないだろ。発表されてから笑った」
「それは知ってる」
「ならなんで」
「......笑われると思ってなかっただけ」
前を向いたまま、凛が言う。少し速度が落ちる。落ちたまま、また同じになった。
「発表する前から、そういうテーマにしたのがお前らしいとは思った」
「......お前らしい」
「悪い意味じゃない」
「分かってる」
また少し黙った。足音が2つ続く。
夏休みの間ずっとLINEしていた。それが当たり前になっていた。でも今、こうして横に凛がいると、それとはまた別の感覚がある。凛の声のトーン。速度が落ちる瞬間。視線の方向。
「......来年も、自由研究やるかな」
「やるだろ、たぶん」
「......来年も同じクラスかどうか分からない」
凛がそう言う。
「そうだな」
返しながら、何か言い添えようかと思う。言えなかった。凛も続けなかった。
来年、同じクラスになるかどうかは確かに分からない。高2だ。クラス替えがある。当然そうなる可能性はある。なのに今まで考えなかった。そこにいるものとして考えていた。凛がそこにいて隣の席で、そういうものとして。
足音が2つ続いている。
路地の突き当たりが近くなってきた。住宅街の夕方の空気に、夏の匂いがまだ少し残っていた。蝉の声は細い。
商店街の角を曲がったところで、凛が少し上を向く。
「......雲が変わった」
「秋の形だな」
「......夏と違う」
本当だと思う。白くて横に広がっている雲だった。夏の積乱雲とは明らかに形が違う。
「変わるのが早い」
「......そう」
凛が前を向いて、また歩き始める。
同じ路地だ。夏の間も何度か通った道。向かいの家の古い自転車が、同じ場所に止まっている。変わっているのは空の色だけかもしれない。いや、もう少し何かが違う。
路地に街灯がひとつ点く。夕方の光の中で、2人の影が少し伸びている。蝉が鳴いた。また鳴いた。それきり止まった。
凛の家の前。凛が立ち止まって、鞄からポーチを取り出す。鍵を探している。
「......笑った理由、もう少し聞かせてもらっていい?」
「今か」
「......嫌なら別に」
「嫌じゃない」
俺は少し考える。
「テーマが面白かったんじゃなくて、それをちゃんと研究にしようとしてたのが面白かった。方向音痴なら方向音痴を研究する、みたいな考え方が」
「......それが面白い」
「悪い意味で笑ったわけじゃない」
「......じゃあどういう意味」
「方向音痴なのに方向音痴を研究しようとするっていうのが面白かった。自分で原因を調べようとするの、お前らしいと思った」
凛は少し黙った。
「......お前らしい、ってまた言った」
「今日2回目だな」
「......気をつけてほしい」
「すまん」
「......分かった」
「よかった」
「......よかったは余計」
「すまん」
凛が玄関の扉を開けて、少し振り返る。扉の隙間から、こちらを見た。
「......また明日」
「おう」
扉が閉まった。俺はそのまま路地に立っている。夕方の光が薄い。蝉が遠くで短く鳴いて、止まった。
来た道を戻り始めた。1人分の足音だった。さっきまで2人分だったのに、今は1人だ。夏の最初の頃は1人で帰っていた。いつから2人になったのかは、はっきりと覚えていない。
夏休みが終わった。
また学校で、また隣の席で、また一緒に帰っている。




