九月まで、あと一日
虫の声がしている。
窓を少し開けている。夏の終わりの空気が入ってくる。エアコンは止めた。外の音が部屋に混ざっている。
天井を見ている。
ベッドに横になったまま、何もしていない。着替えだけはした。それ以外は、帰ってきてからずっとこうしていた。灯りが点いたまま、何もしない時間が続いている。
目の端に、猫のぬいぐるみが見える。
ベッドの端に置いてある。灰色の縞模様。耳が片方だけ折れている。夏祭りの射的の店で、棚の端にいたのを見ていたら、気づかれた。3回目で当てられて、そのまま渡された猫だ。
欲しくない、と言った。それでも受け取っている。
それからずっとここに置いてある。どこに置けばいいか分からなくて、とりあえずベッドの端。
枕元には、中学の時にお母さんがくれた縞の猫がいる。ベッドの上で、猫が2匹になっている。
家族じゃない誰かにもらったぬいぐるみは、初めてだった。
スマホを取る。LINEを開いた。
藤宮くんとのトーク履歴。上にスクロールしていく。
7月から始まっていた。最初は私から。「迷った」の1文だ。「どこ?」が返ってきた。赤い丸を付けた地図のスクショを送ると、「3キロずれてる」が返ってくる。その後も何度か場所を聞いている。宿題の写真を送ったこともある。海の日のグループLINEには、写真が3枚並んでいる。花火の夜は、何も送らなかった。
今日の「今どこ」「駅前のファミレス」が一番新しいやり取りだ。
スクロールを戻す。
花火の夜だけ、前後に比べて間が空いていた。あの日から翌日にかけて、何もない。
送ろうとして、文字を打ちかけた。止まった。
それだけだった。
スマホを置く。ぬいぐるみを手の端で引き寄せた。重さがほとんどない。手の中に収まる。猫の形が手のひらに当たっていた。
* * *
灯りを消す。
部屋の中が暗くなる。窓から月明かりが入ってくる。薄い光だ。目が慣れると、天井が白く見えてくる。外の虫の声だけが続いていた。
ぬいぐるみを抱えたまま、天井を見る。
今夜で夏が終わる。
花火の夜のことを思う。神社の裏。人混みから外れた場所に2人でいた。花火が上がるたび、音が体に当たる。向こうの人混みから歓声が来るたびに、2人とも少し顔を上げた。藤宮くんが隣にいた。転校のこと、ここに来るまでのこと。初めてちゃんと話した。言葉がひとつ出るたびに、胸の奥が軽くなる。何も言わずに、ただ聞いていた。
あの夜、声が出た。
あなたに会えてよかった。
花火の音にかき消されている。聞こえなかったと思う。それでよかった。
今年の夏のことを思う。
ハイタッチをした手のひらの熱さ。肝試しの夜、暗い廊下で掴んだ袖の、布の感触。どれも、手に残っている。
場面の数だけ、藤宮くんがいた。
ぬいぐるみが部屋にある。LINEの履歴が積み上がっている。
今日の帰り道、路地の中で立ち止まって、振り返れなかった。路地の奥を向いたまま言った。夏休みありがとう。言えた。
「おう。また明日な」が返ってきた。「......うん」と言って、扉を閉める。それからすぐ、藤宮くんの足音が遠くなっていくのを聞いていた。
ファミレスで、藤宮くんが言っていた。来年もまた、みんなで海とか行こうな。その時、窓の外を見るしかできなかった。
来年もここにいるかどうか。
分からない。
高校に入る前に「もう転校はない」と言われている。信じていいのか、まだよく分からない。
転校するたびに、いなくなった。自分がいなくなったのか相手がいなくなったのか、最後には分からなくなる。名前を思い出せなくなった人もいる。だから近づかなかった。近づかなければ、離れる時に痛くない。そうやってきた。
でも今年の夏は。
ぬいぐるみが、ここにある。
ぬいぐるみを少し強く抱える。猫の形が手の中にある。縫い目が指に当たる。
虫の声が続いている。窓の外の月が、少し動いている。
また学校。また隣の席。
......早く、会いたい。




