夏の残像
商店街のアーチを出ると、住宅街に変わった。
道幅が急に狭くなる。コンクリートブロックの塀が続いて、庭木の枝が上の方で交差している。アスファルトの色が変わった。商店街の人の流れから切れると、夕方の住宅街の静けさだけが残る。空はまだ橙を保っているが、路地の中はひと足先に暗い。
どこかから夕食の匂いがした。肉か魚を焼いている匂いで、どの家から漏れているかは分からない。住宅街の夕方はこういう匂いをしている。
遠くで子供の声がした。呼んでいる声で、少しして止んだ。
足音が2つ、アスファルトの上で続いている。
「......静かになった」
「商店街より人が少ないからな」
「......うん」
凛が前を向いたまま答えた。バッグのストラップを肩に当て直している。会話が続く空気でもなく、途切れたままで問題ない。そういう間だった。
今日で夏休みが終わる。
今年の夏は長かった。1学期の終わりに海の話が出て、気づいたら毎週のように凛と何かをしていた。スコールが来た日、軒下で雨が止むのを2人で待った。軒から水がぼたぼたと落ちていて、2人で並んでアスファルトが光るのを眺めた。肝試しの夜は、校舎の外に出た後に凛が缶を両手で持って夜空を見ている。今日のファミレスの3時間は、宿題が終わる前から凛がいた。
どの場面にも凛がいる。
凛が来ると言い出したわけでもない。誘った覚えもない。断ったこともない。でもいつの間にか来ていた。そういうことが積み上がって、気づいたら夏が全部そうだった。
電灯が1本、路地の中ほどで灯った。まだ夕方のうちに先行して灯っている。1本だけ夜の準備を始めていた。
「......今年の夏、結構あったな」
足を止めずに凛が言う。
「そうだな」
「......海とか、今日みたいなのとか」
「肝試しもあったな」
「......そう。色々あった」
凛が少し前を向く。靴先が交互に出ていく。
俺も前を向いた。路地の先に住宅街の屋根の線が続いていて、空の橙がその上に残っている。
夕方の空気の中に凛の横顔があった。バッグを肩にかけて、前を向いて歩いている。首の後ろの短い毛が、夕方の光の中で橙に見えた。3ヶ月前に同じクラスになった頃には、想像しなかった絵だ。気づいた時には、凛が隣にいるのが当たり前になっていた。
「......これが終わったら、また学校か」
「明日から9月だな」
「......早い」
「そうだな」
返事があって、また静かになる。
「......変な感じがする」
「夏休みが終わるからか」
「......今年の夏が終わるから」
「そうか」
少し間があった。
「......少し、惜しい」
前を向いたまま凛が言った。
「今年の夏がか」
「......うん。今年だから」
「そうか」
凛が靴先を一度見る。少し速度が落ちて、また同じになった。
返す言葉はそれだけだった。凛も続けなかった。
路地に外灯の光が落ちていて、2人分の影が前に延びていた。歩くたびに少し形が変わる。
遠くで子供の声がまた聞こえた。夕食の匂いが続いている。電灯がまた1本、路地の奥で灯った。住宅街の夕方は、こういう音と匂いが全部混ざってひとつの空気になっている。
凛の家はもう少し先だった。
* * *
路地の奥まで来ると、空が藍色に変わりかけていた。
電灯が1本、凛の家の近くで点いている。昼間の橙がほとんど消えて、夜の入り口の薄明かりになっていた。風が少し来て、塀の向こうの枝が揺れた。また静かになった。
虫の声が始まっていた。いつから鳴き始めたのか分からない。商店街を出た時にはなかった低い声が、路地の空気に混ざっていた。
凛の家が近くなると、2人とも少しずつ歩調が落ちた。
凛が立ち止まった。
家の手前だった。門の前ではなく、まだ少し手前で足を止めた。振り返らない。バッグのストラップも動かさない。路地の奥を向いたまま立っていた。
何か言うのかと思ったが、すぐには来なかった。
虫の声が続いている。足音が1つもない。外灯の光がアスファルトの上にある。
「......夏休みありがとう」
振り返らないまま言った。
「おう。また明日な」
返事が出た。
凛が少し頷く。それから路地の奥に向かって歩き出す。外灯の下を通って、遠くなっていく。靴音が小さくなった。門の前で少し立って、少し経ってから中に入った。
「......うん」
最後のひと言が来た。扉が閉まる音がした。それから静かになった。
今まで2つ並んでいた足音が、1つになった。
住宅街の夜の静けさが、急に広くなった。虫の声が続いている。外灯の光がアスファルトに丸く落ちている。空は藍から黒へ向かっていた。路地の奥に凛はもういない。
帰ろうと思った。足が動かなかった。
路地の先が見えている。月が出ていた。薄い形で、屋根と屋根の間の空にある。
凛の言葉が頭に来た。
夏休みありがとう。
振り返らないまま、路地の奥を向いたままで言った。
路地の向こうで、車の音が一度して、遠くを過ぎていった。また虫の声に戻る。
凛の横顔のことを考えていた。
ファミレスの窓の前で、オレンジ色の光の中にあった横顔。帰り道で「今年の夏、結構あったな」と言いながら前を向いたままだった横顔。門の前で少し立った時の、こちらに背を向けたままの後ろ姿。
今日1日だけで、こんなにいくつも出てくる。
凛の横顔が、まだ出てくる。
俺、秋月のこと......。
いや。
ないない。あるわけない。
外灯の光がアスファルトの上にある。虫の声が続いている。路地の夜は静かだった。
ないよな?




