来年も
8月31日。ファミレスに来て3時間になる。
テーブルの上に原稿用紙が広がっている。400字詰め3枚分の読書感想文。前半の2枚は埋まっているが、最後の1枚が白いままだった。
書けないというより、書き方が分からない。本を読んでいる間に何かを感じたのは確かで、それが言葉を持たないまま胸の方にある。まとめようとした瞬間から、全部嘘みたいな言葉になってしまう。
最初に書いた3行を読み返して、消す。また3行。また消した。
ペンを置く。アイスティーをひと口飲んだ。氷の音がする。窓の外はまだ夏で、商店街の日除けシートの端が白い光の中にある。ファミレスの中はエアコンが強すぎて少し寒かった。
Tシャツの袖を少し引っ張る。
夏休みの最終日にファミレスで震えているのは俺くらいだろう、と思った。そしてその状況を招いたのは自分だと思った。
スマホにLINEが来ている。
凛から「今どこ」とだけあった。
どこにいるか知りたい理由は書いていない。凛のLINEはいつもこういう形だった。
駅前のファミレス、と返す。既読がついた。
10分ほどして、凛がトレイを持って席の前に立った。ドリンクバーのアイスコーヒーと、バニラアイスの小さいカップを1つ持っている。
「......来た」
「来てるな」
「......暇だから」
「ありがたい」
凛が向かいの席に座る。コップをテーブルに置いて、アイスを俺の方に押してくる。
「......お詫び」
「何の」
「......呼び出したわけじゃないから、代わりに」
「呼んだのか」
「......場所を教えたら来てしまった。同じようなものか」
まあそうかもしれない。アイスを受け取ってひと口食べる。
凛が原稿用紙に視線を落とす。
「......宿題」
「読書感想文だけ残ってた」
「......今頃」
「毎日会ってたから時間がなかった」
凛が少し黙る。コップに手を置いたまま、窓の方を一度だけ見た。
「......見ていい」
「どうぞ」
凛が原稿用紙を手前に引く。無言で読み始める。最初から順に目で追っている。
俺はアイスを食べながら待つ。凛が読んでいる間、かすかに紙をめくる音がした。途中で一度止まって、少し前に戻ってまた読む。2枚目の途中で止まってそのまま考えているような間があった。
30秒ほどで、凛が原稿用紙をテーブルに戻す。
「......文章、下手」
「それは知ってる」
「......でも、気持ちは伝わる」
「褒めてるのか」
「......別々の話をしてる。文章が下手なのは、構成と語彙の問題。気持ちが伝わるのは、読んで分かったこと」
「どっちが本当なんだ」
「......どっちも本当」
凛がコップを口に持っていく。ひと口飲んで、また原稿用紙に視線を戻す。
「......後半が書けてない」
「まとめようとしたら全部嘘みたいになる」
「......それ、まとめようとしてるのが問題だと思う」
「どういう意味だ」
凛が体を少し前に傾ける。テーブルの上の原稿用紙を指先で示す。
「......読んでいる間に、手が止まった場面があったか」
「あった。2箇所くらい」
「......その2箇所、共通してる」
「何が」
「......その人が受け入れてもらえるかどうか、という場面」
俺は少し止まる。言われてみれば、そうかもしれない。
「......そこだけ書く。それ以外はいらない」
「論旨が通らないだろ」
「......感想文は論文じゃない。まとめなくていい」
俺は少し考える。
設問には「本から何を学んだかを書きなさい」とある。そこから「普遍的な教訓を結論として書かなければならない」と思い込んでいた。でも言われてみれば、それは感想ではなく分析だ。感想は学んだことではなく、感じたことを書けばいい。
「どこで止まったかは覚えてるか」
「覚えてる」
原稿用紙に書いた本文の一部を指で示す。
「主人公が、ずっと疎外されていた場所で『ここにいていい』と言われる場面と、もう1箇所は、最後に『また来てもいいか』と聞く場面」
凛が確認する。少し原稿を読む。
「......その2箇所に、全部ある」
「あとは書かなくていいのか」
「......書きたければ書いていいけど、その2箇所が核なら、他はそこへの助走でしかない」
俺はペンを持つ。
最初に手が止まった場面のことを、まず書く。まとめようとせず、止まった事実を書いた。なぜ止まったか。止まった時に何が頭の中を過ぎったか。それだけを書いた。
書き始めてみると、言葉が出る。
言葉にならないと思っていたものが、「まとめる」という圧力を外した途端に形になった。3行書いて、また3行書いた。消さなかった。
ペンを動かし続けていると、凛が「......少し見ていい」と言って、手元を覗いた。
「......さっきより早い」
「まとめようとしてないからだろ」
「......そういうこと」
凛が自分のコップに戻る。俺はまた書き続けた。
2箇所目の場面について書く段になって、少し手が止まった。なぜあの場面で止まったかを、今度はもう少し掘り下げようとした。主人公が「また来てもいいか」と聞いたのは、来ていい場所ができたからではなく、来ていい場所がずっとなかったからだ。そういうことを書いた。
凛がコップを傾けながら、俺が書いているのを横目で見ている。
「......いいな、それ」
「どれだ」
「......最後のところ」
凛が指さした場所には「ずっとなかったから聞けた」とある。
「合ってるか」
「......正解とか間違いとかじゃないと思うけど」
「まあ、感想文だからな」
「......うん」
2箇所目を書き終えた時、原稿用紙の残りがちょうど2行になっていた。締めの文を加えると、3枚ぴったりに収まった。
「終わった」
時計を見る。30分近く経っていた。
「......思ったより早かった」
「まとめようとしなかったからだろ」
「......そう思う」
凛がコップを持ち直す。もうほとんど残っていない。
「......他にある」
「理科のレポートが残ってる」
「......見せて」
凛にプリントを渡す。凛が読んで、少し考える間があった。
「......蒸留の原理のまとめ方、この順番だと伝わりにくい」
「どう変えればいいんだ」
「......書き方がある」
凛が自分の筆箱からシャープペンシルを出して、プリントの余白に3つの箱を並べて描いた。「現象」「原因」「結論」と書いて、矢印で繋げる。
「......この順で書くと流れが通る。今のあなたの原稿は原因から始めてる」
「なるほど」
「......あとは自分で書ける」
凛がシャープペンシルを戻して、コップを持ってドリンクバーに立つ。
俺は理科のレポートを書き始める。凛の順番通りに書くと、確かに流れた。詰まる箇所がなかった。
凛が新しいドリンクを持って戻ってきた時、レポートの8割が埋まっていた。
* * *
レポートを書き終えた時、窓の外の光が変わっていた。
白かった光がオレンジ色になっている。商店街の日除けシートの端が、斜めの光の中で橙に色づいている。影が伸びていた。
夕方だった。
ファミレスのBGMが変わっている。来た時から何曲か、流れていた。
テーブルの上の紙を重ねてまとめる。鉛筆を筆箱に入れる。時計を見ると5時を過ぎている。
「全部終わった」
「......お疲れ様」
「ありがとう。助かった」
「......別にそんなに」
少し間を置いて、凛が続けた。
「......あなたが書いたから、あなたの感想文になった。私が書いたら別のものになる」
「そういうものか」
凛がコップに口をつける。空になりかけていた。
窓の外に目を向ける。商店街の屋根の向こうの空が、薄くオレンジ色に染まっている。
ファミレスの中は変わらない。BGMが同じ調子で流れている。隣のテーブルの話し声が続いている。エアコンの冷気も変わらない。だが窓から入ってくる光の角度だけが、来た時とは全然違う。
凛も3時間、ここに座っていた。暇だから来た、と言って。
今日だけじゃない。夏休みを通して、凛とどこかにいた時間が思ったより多かった。海に肝試し、このファミレス。コンビニや公園まで足していくと、これ、普通に頻繁だろ。
「夏休み、楽しかったな」
窓を見たまま言った。
凛が「......そう」と返した。
少し間があった。
「来年もまた、みんなで海とか行こうな」
返事が来なかった。
振り返ると、凛が窓の方を見ていた。コップを両手で持ったまま、指先がテーブルの上で止まっている。ドリンクを飲もうとしていたのか、コップが口元まで来ていない。
「秋月?」
「......うん」
凛が視線を窓から外した。コップをテーブルに戻す。
「......そう」
「なんか間があったぞ」
「......夏が終わるなって、思ってた」
少しだけ息が出た。
「そりゃそうだな。今日で最終日だから」
「......うん」
凛がコップをテーブルに置いたまま、また窓を見ている。
俺も窓の外を見た。商店街の向こう、住宅街の屋根の上に空がある。青の残り方が、正午とは違う。薄くて遠い。
「......夏って、終わる時に気づくな」
「気づいてから終わる気がする」
「......そんな感じ」
凛は、窓を見たままだった。
「......そろそろ帰るか」
「......うん」
凛が教材をまとめ始める。バッグに入れる。俺も原稿用紙とプリントをまとめてバッグに押し込んだ。
レジに向かう。凛が財布を出した。
「今日は俺が出す」
「......なんで」
「宿題手伝ってもらったから」
「......手伝ったとは言ってない」
「じゃあヒントに感謝して俺が払う」
「......ヒントに感謝するなら割り勘が筋じゃない?」
「お前の割り勘の論理、よく分からんな」
「......あなたの宿題なんだから、あなたが全額払うのが筋。私が出す理由がない」
「手伝いに来てもらっといて全額もらうのも違うだろ」
「......ヒントを出しただけって言った」
「だから払う」
「......」
凛が少し黙った。
「......じゃあ、お願いする」
「了解」
支払いを済ませる。自動ドアが開いて、夏の夕方の空気が来た。
昼間より温度が落ちている。風があった。
商店街を歩き出す。日除けシートの端が夕風に揺れている。夕方の人の流れの中に出た。
「......帰り道、どっちか」
「途中まで同じだろ」
「......そうか。行くか」
「ああ」
並んで歩く。商店街の人の流れに混ざる。惣菜屋の前で、揚げ物の匂いが来た。
「......間に合ってよかった」
「宿題か」
「......うん」
「そうだな」
信号のあるところで立ち止まる。赤だった。凛が隣に並ぶ。
青になって歩き出す。人の流れがまた増えていた。商店街のアーチの向こうに、空の橙がまだ残っていた。
凛が少し前を向いたまま歩いている。バッグのストラップを肩に当て直す。商店街が終わる前に、分かれ道があった。
夏休みの最終日の夕方。商店街の風が、昼間より涼しかった。




