藤宮くん
花火が終わった。
最後の連射の音が、本殿の屋根の上で止まる。
空の色が少しずつ黒に戻っていく。
参道の方から歓声が波のように来て、また引いていった。
煙が上空でゆるやかに広がっていた。
俺は本殿の階段から腰を上げる。
砂利が靴底の下で鳴る。
「行くか」
「......」
凛も立ち上がる。
ぬいぐるみを両腕で抱えたままだった。
下駄の歯が砂利を踏む音が、俺の靴音の隣で鳴る。
* * *
参道に戻ったら、桐生とつぐみとひなたがブルーシートの端で待っていた。
桐生がたこ焼きのパックをゴミ袋に押し込みながら俺を見る。
「遅かったな」
「探すのに手間取ったんだ」
「秋月さんは大丈夫だったか」
「......そこが静かだっただけ」
凛が自分で答える。
桐生が「なるほど」と返す。
ひなたが笑って言った。
「まあ無事でよかったよ」
「......うるさい」
ひなたが「帰ろっか」と言いながら立ち上がる。
綿菓子のゴミを丸めながら、凛の隣に並ぶ。
「凛ちゃん、どこで花火見てたの?」
「......神社の裏」
「どんな感じだった」
「......静かだった」
「いいな。人混みの中で見るより、絶対そっちがいいよね」
「......そう」
「ひなたも1回そういうとこで見てみたかったな。来年はそうしようかな」
「......そう」
凛が同じ言葉を2度返した。
ひなたが気にした様子はなかった。
「凛ちゃん、LINEの既読がついてたから一応確認できたんだけど、返信なくてちょっと心配してたよ」
「......見た。返せなかっただけ」
「そっか。よかった」
ひなたが笑う。
凛がぬいぐるみの背中を1度だけなぞる。
つぐみが扇子をリュックに押し込む。
「帰るか。明日も早いし」
ひなたが言う。
「眠くなってきた」
桐生が「花火見てただけじゃないのか」と返す。
「見るのにも体力いるんだよ。あんたには分からないかもしれないけど」
「精神力の消費か」
「そういうこと」
ブルーシートは桐生が丸めて、袋にねじ込んだ。
5人で参道の出口の方へ歩き出す。
提灯の橙色が頭の上で揺れている。
帰りの人混みが参道を埋めていた。
屋台の灯りはまだついていた。
金魚すくいの水面が、灯りを受けて光っている。
いくつかの屋台は片付けを始めていた。
ひなたが先頭で元気よく歩いている。
凛がその隣に並ぶ。
気づくと俺は凛の隣を歩いていた。
後ろを桐生とつぐみが歩いている。
凛の下駄の音が、石畳の上で規則的に鳴る。
俺の靴音と並んで聞こえていた。
歩幅が凛の歩幅に合っていた。
別に意識したわけじゃない。
「なあ蒼太」
後ろから桐生の声。
「なんだ」
「いや、なんでもない」
なんでもない用で呼ぶな。
参道の出口の灯りが先に見えてきた。
少し間を置いて、後ろで桐生の声がまた聞こえた。今度はつぐみに向けた声だ。
「あいつ、自覚ないよな」
「全然ないよね」
「ため息が出るな」
「ほんとね」
「お前もため息つくのかよ」
「あんたが先につくからじゃん」
「俺が言うのは仕方ないだろ、あれだけ見せられたら」
「あたしも同じだって言ってんじゃん」
「そうか。じゃあ2人でため息ついとくか」
「こういう時だけ足並み揃えるの、あんたって本当に」
「......」
「......」
参道の出口の灯りが近づく。
前でひなたが「あ、金魚」と声を上げた。
「凛ちゃん、さっき金魚すくってたよね。何匹とれたの」
「......3匹」
「すごい。ひなた2回やって全部割れちゃったのに」
「......真剣にやれば」
「そうだよね。ひなたはなんか笑ってたのがよくなかったかも。凛ちゃんすごく真剣な顔してたもんね」
「......そう?」
「うん。なんか射的の時も」
ひなたが言いかけて、少し口を閉じる。
それからまた口を開く。
「今日、凛ちゃん色々もらったじゃん。嬉しかった?」
「......まあ」
「まあ、かあ」
ひなたが「まあ」を繰り返す。
凛が「......変な聞き方しないで」と言った。
ひなたが「ごめんごめん」と笑う。
人混みに押されて、少しずつ流れていく。
* * *
参道を抜けると、道が分かれた。
「ひなたとつぐみはこっちだよね」
桐生がひなたに確認する。
「そうそう。桐生くんも同じ方向でしょ」
「ああ」
「じゃあ3人で帰ろっか」
ひなたが俺の方に振り返る。
「そうくん、また来週ね」
「ああ、来週な」
ひなたが凛の方に向き直す。
「凛ちゃんも。今日楽しかったよ」
「......」
「凛ちゃん?」
「......うん」
ひなたがにっこりする。
「よかった。また来年も来ようね」
「......うん」
「3人ともよろしくね、って凛ちゃんが言ってた、ってそうくんに伝えておくね」
「......そんなこと言ってない」
「あ、ごめん、言ってもらえる?」
「......言わない」
ひなたが笑った。
つぐみが凛の方を1度だけ見る。
目が少し笑っていた。
「凛、帰り気をつけなよ。色々な意味で」
「......何が」
「色々な意味でって言ったじゃん」
「......」
「まあいいか。じゃあね」
桐生が俺の肩を1度だけ叩く。
「まあ、気をつけてな、蒼太」
「何がだ」
「分かるだろ」
「分からない」
「......本当に分からないんだな、お前は」
桐生がため息混じりに笑う。
「また来週な」
「ああ」
「ちゃんと帰れよ。秋月さんも」
「......」
3人が右の方へ歩いていく。
桐生が振り返らずに手を上げる。
ひなたが「バイバーイ」と声を上げる。
つぐみが一度だけ振り返って、何も言わずにまた前を向いた。
人混みの音が、3人の方向に薄れていった。
俺と凛が、分かれ道に2人で立っていた。
「行くか」
「......」
並んで歩き出した。
夜の住宅地に入ると、祭りの音が遠くなった。
街灯だけが道を白く照らしている。
虫の声が一面に続いていた。
遠くでお祭りの太鼓が、まだどこかで低く鳴っている。
アスファルトが参道より平らで、下駄の音が澄んでいた。
静かな分だけ、よく聞こえる。
特に何も話さなかった。
道を1つ曲がった。
住宅の塀が続いている。
街灯の下を通り過ぎる。
凛が、ぬいぐるみを胸に引き寄せた。
「......」
俺も何も言わない。
静けさが戻った。
凛の足が、不意に止まった。
塀の上に猫がいた。
白と黒と茶の色が混じった猫が、丸まって、こちらを見ている。
「......来て」
小声で言う。猫に向けた声だ。
猫は動かない。
塀の上で、丸まったまま、しっぽだけが1度揺れた。
「......」
凛がしゃがみかける。
下駄の音が止まる。
猫が体を1度だけ持ち上げる。
それから、塀の向こう側へ消えた。
「......行った」
「夜は用心するんだ」
「......そうなの」
「日当たりのいい昼間の方が人に慣れてる気がするな」
「......猫って、昼間は起きてるの」
「寝てる時もあるけど、昼の方が機嫌がいいことは多いな」
「......そう」
凛が立つ。
下駄の音がまた始まる。
俺も歩き出す。
「......今度、昼間に見かけたら教えて」
「近所にいるのか」
「......たまに」
「そうか」
「......あなたの近所にもいるの」
「いる。黒いのと白いのが」
「......どっちが可愛い」
「どっちも同じだと思うんだが」
「......違うよ」
「そうか?」
「......全然違う」
凛がぬいぐるみを片手に持ち直す。
もう片方の手が自由になった。
「......黒い猫って、どこにいるの」
「俺の部屋の近くの駐車場に、よくいる」
「......昼間に?」
「昼間も夜もいる」
「......今日はいるかな」
「さあ。帰り道じゃないから分からないな」
「......そう」
凛がまた前を向く。
ぬいぐるみを持った腕が、歩くたびに少しだけ揺れている。
住宅地の塀が続く。
道の端の雑草が、夜風で揺れている。
次の街灯まで来た。
その手前で、凛が前を向いたまま呟いた。
「......藤宮、くん」
「ん」
返事をしてから、少し待った。続きが来ない。
「......なんでもない」
「なんだそれ」
「......なんでもない、ってこと」
凛が前を向いたまま、ぬいぐるみを抱え直した。
俺も前を向く。
住宅地の静けさの中を、2人で歩いた。
靴底の下に、アスファルトの静けさがあった。
凛が正面を向いたまま、ぬいぐるみを胸に引き寄せた。
「......ねえ」
「ん」
「......今日の花火、どこで見てたの」
「本殿の階段だな」
「......同じじゃない」
「そうだな」
凛は返事をしない。
下駄の音が続く。
1歩また1歩。
空に雲がかかって、星が1度隠れる。
雲が流れると、また出てくる。
途中、大きな木のそばを通り過ぎた。
木の葉が夜風で揺れる。
その音だけが少しの間、隣で続く。
「......今日、お祭り前に言ってた話」
「ん、どの話だ」
「......毎年窓から聞いてたって」
「ああ」
「......今年は聞いてなかった」
「そうか」
「......神社の裏で、聞いてた」
「......そうだな」
凛は前を向いたまま歩いている。
ぬいぐるみが凛の腕の中で少し揺れた。
太鼓の音がまた遠くで1回鳴った。
俺は何も言わない。
* * *
凛の家の角まで来た。
街灯の下で、立ち止まる。
凛がぬいぐるみをもう片方の腕に持ち替える。
両手の位置が変わる。
指がぬいぐるみの頭のあたりで止まる。
「......今日は」
その声が前を向いたまま出てきた。
言葉の続きが来ない。
凛が息を1度吸って、ぬいぐるみを胸に抱え直す。
「また来週な」
「......」
凛が踵を返す。
下駄の音が2、3歩鳴って、それから小走りになった。
浴衣の裾が揺れる。
角を曲がり消えた。
俺は1人で立っていた。
虫の声が続いている。
街灯の下の影が、靴先に落ちていた。
俺は来た道の方向に歩き出す。
祭りの音は、もうほとんど聞こえなかった。
遠くで太鼓が1発だけ鳴って、それから止まった。
住宅地が続く。
街灯の下を通り過ぎるたびに、影が前から後ろへ動く。
帰り道に、自分の近所の駐車場を通った。
黒い猫も白い猫もいない。
アスファルトが、ただ白かった。
自分のアパートが見えてきた。
外灯の下に、虫が集まっている。
俺はその下を通り過ぎて、階段を上がる。
鍵を出す。
錠前に差し込んで回す。
部屋に入ると、母さんはまだ帰っていなかった。
夜勤の日だ。
電気をつける。
静かだった。
財布とスマホをテーブルに置く。
音はしない。
桐生からLINEが来ている。
「無事帰ったか」
「帰ったんだ」と返した。
「そうかそうか」
それだけだった。
スマホをテーブルに戻す。
浴衣の裾が揺れていたのが、まだ目の端に残っていた。
角を曲がった、あの場所の。




