あなたに会えてよかった
花火の音が、間断なく続き始める。
本殿の屋根の上の空が、ひと呼吸ごとに色を変えていく。
凛の手が、ぬいぐるみの上で一度動いて、止まった。
「藤宮」
「ん」
「......もう一つ、話していい?」
「ああ」
「......最初の頃は、泣いた」
「......」
凛の声が、花火の音の合間で、低い場所に置かれている。
「......別れる時、毎回」
「......」
凛がぬいぐるみの背中の縫い目を、片手の指でなぞる。
止まっては動く。
「......3回目の転校から、泣かなくなった」
「......」
「......期待しなければ、がっかりしない」
「......」
「......自分に、そう言い聞かせた」
「......」
「......そう、覚えた」
「......」
花火が一発、空に上がる。
その音が凛の言葉の続きを、一拍だけ遅らせる。
「......中学2年で、グループの中の一人に言われた」
「......」
凛がそこで、一度息を吸う。
吸った息を、すぐには吐かない。
「......『どうせまた、いなくなるんでしょ』」
「......」
俺の中で、固い物が動いた。
「......悪意は、なかったと思う」
「......」
「......事実だから」
「......」
「......それから、もう約束しないって決めた」
「......」
俺は何も言えなかった。
「......高校に上がる前、父に言われた」
「......」
「......『もう転校はない』、と」
「......」
「......」
「......信じてない」
凛がそこで言葉を切る。
ぬいぐるみの背中に、片手が置かれていた。
その手が動かない。
花火の合間に、虫の声が一度だけ戻った。
* * *
しばらく、何も言わなかった。
凛の言葉の重さが、一度に来た。
花火の音が、本殿の屋根の上で連続している。
一発上がるたびに、本殿の壁が小さく震える。
俺は片手の指を、自分の膝の上で組み直す。
口を開く。
「秋月」
「......」
「でも、今ここにいるだろ」
「......」
「俺たちと、夏休みずっと」
凛が初めて、こちらを正面から見る。
目が花火の光を受ける。
光が引いた後の凛の頬に、橙色がまだ残っていた。
俺はその目を、見返す。
凛の目の中に、花火の光がもう一発入る。
「......」
「......」
「......藤宮」
「ん」
「......」
凛がぬいぐるみを胸の前で、もう一度抱え直す。
両腕に力が入った。
「約束は、しなくていい」
「......」
「今日のことは、もう起きたからな。先のことと違って、消えようがない」
「......」
「金魚も、ぬいぐるみも、現物があるだろ」
凛は動かなかった。
花火の光が、凛の目に橙色の点を作って、消えた。
どちらも、何も言わなかった。
凛が、目を一度伏せる。
顔を上げた時、視線は空の方に向いていた。
* * *
花火が、最後の連射に入る。
空の方で、音が止まらない。
本殿の屋根の上の空が、橙、緑、赤、銀と色を変え続ける。
色は、止まらない。
本殿の屋根の輪郭が、その色の中で、何度も浮かんで消えた。
空のどこかで、観客の歓声が薄く届いてくる。
凛の横顔が、その光に照らされていた。光の色が変わるたび、頬の色も変わる。
凛は空を見ている。
俺は凛を見ている。
花火の音が、地面まで届く。
本殿の壁が、その音に一度だけ震える。
俺の靴底の下で、砂利が震えていた。
凛が両手を、ぬいぐるみの上で重ねる。
指がぬいぐるみの腹の真ん中で、止まる。
花火の音がその指の上で、もう一発鳴る。
凛の唇が、薄く動く。
「......あなたに会えてよかった」
その声は、花火の音に呑まれた。
耳に残ったのは、言葉になる手前の音だけだ。
凛は、前を向いている。
俺は、その横顔を見ていた。
「秋月」
「......」
「今、なんか言った?」
「......何も」
答えた声は、いつもの凛の声だった。
俺はそれ以上、聞かなかった。
代わりに、俺は片手で、自分の膝を一度だけ叩く。
音は、花火の音にすぐ消えた。
手のひらの熱が、少し残っていた。
花火の連射が、ピークを越える。
空の方で、音の間隔が一段間延びした。
凛が片手の親指で、ぬいぐるみの頭を撫でている。花火が連射のテンポを上げると、指も上がる。
俺の片手も、膝の上で、同じ間で開いていた。
花火がもう一発、空の最も奥に開く。
その光が、空一面を白く染める。
白の光が本殿の影を、一度だけ消した。
白の中に、凛の浴衣の紺と、ぬいぐるみの灰色だけが、はっきり浮かんでいた。
花火の音が、もう一発、空に上がる。
その音が、本殿の屋根を越えて、夜の方へ抜けていった。




