射的と猫のぬいぐるみ
凛がそのまま、もう一歩屋台の前に出る。
気づいていない様子で、金魚の袋を両手から片手に持ち替える。
空いた手が、帯の脇に下りた。
屋台の看板の上に、ぬいぐるみが並んでいた。
犬。熊。アヒル。
その中で、1匹だけ灰色の縞模様の猫。
凛が、そこから視線を外さない。
俺は凛の横で、看板の上の同じ場所を見る。
灰色の縞模様の腹。耳が片方だけ折れている。背中に縫い目が1本走っていた。
凛は何も言わない。
言わないまま、もう一歩屋台の前に進んだ。
屋台の電球の唸りが、3拍くらい続く。
凛の視線は、それでも動かなかった。
屋台のおじさんが「お嬢ちゃん、やってく?」と声をかけたが、凛は応えない。
応えないまま、銀のかんざしの根元に、片手を一度だけ添える。
弁当のおかずを見る時の目だ。
「秋月」
「......何」
「あれか」
「......別に」
「別にじゃないだろ」
「......別に」
「いいから、見てろ」
俺は屋台のおじさんに、コルク銃を3丁分払う。
桐生が「お、蒼太なに始めるんだ?」と声を上げる。
つぐみが「黙ってて」と冷たく言った。
ひなたが綿菓子を片手に、少し離れた場所で立っていた。
俺は屋台の手前で構える。
猫のぬいぐるみまで、3メートルくらい。
コルク銃の冷たい銃床が、肩に当たる。
目を細めて、的を合わせる。
息を一度止めて、引き金を引く。
外れた。
コルクが猫の右隣の犬の足元に当たって、転がる。
「お、おっしい!」
桐生が背後で叫ぶ。
俺は片手で「うるさい」のサインを出す。
屋台のおじさんが「次、行けるよ」と笑って2発目を渡してくれた。
俺はコルクを受け取って、もう一度構え直す。
「秋月、見てるか」
「......見てる」
「次、当てる」
「......見てない」
「見てるって言っただろ」
「......言ってない」
凛がうつむいて、片手で帯の結び目をなぞる。
俺は2発目を構える。
今度は、的の重心を一段下に見て、引き金を引く。
外れた。
コルクが、猫の真上のアヒルの嘴に当たって、跳ねる。
「あ、上に逃げた」
桐生が今度は分析モードに入る。
つぐみが「黙ってって言ったでしょ」ともう一度冷たく言う。
桐生が「いやでも、これは見守るべきイベントだぞ」と肩をすくめた。
屋台のおじさんが3発目を黙って渡してくれる。
もう一度、肩の力を抜く。
力を抜くために、息を3拍止めた。
「藤宮」
「ん」
「......いい」
「何が」
「......欲しくない」
凛の視線は、看板の上の灰色の縞模様から動かない。
「欲しくないって誰が言ったんだ」
「......私が、今」
「聞かなかったことにする」
「......」
「もう1回」
凛が顔を上げかけて、また下げる。
俺は3発目を、最後にした。
肩の力を抜く。
猫のぬいぐるみの中心、灰色の縞模様の腹のあたり。
息を吐ききって、引き金を引く。
コルクが、猫の腹に当たった。
ぬいぐるみが、看板の上から、屋台の縁の方に倒れた。
屋台の中で、コルクが小さく弾けた音が、もう一度遅れて聞こえる。
桐生が「おお!」と叫ぶ。
桐生の声が祭りの太鼓の音をかき消して、屋台の前の何人かが俺の方を見た。
ひなたが綿菓子の袋を片手で握り直す。
つぐみが何も言わずに、扇子を片手で開く。
屋台のおじさんが、ぬいぐるみを拾い上げて、俺に渡してくれた。
「お兄ちゃん、上手いねえ」
「いや」
「彼女に渡してやんな」
「......」
俺は何も言い返せない。
ぬいぐるみは、思っていたより軽い。
軽さの分、凛の腕の中に置く時の手の力加減を、一拍考えた。
ぬいぐるみを片手に持って、凛の方を向く。
* * *
凛が、両手を自分の前の何もない空間に出していた。
出した両手が、半分だけ広がっている。
受け取る形ではなくて、受け取りそうな形。
金魚の袋を片手で軽く揺らす。「持ってて」というジェスチャーだ。
俺はその袋を受け取って、凛の両手にぬいぐるみを乗せた。
凛の指が、ぬいぐるみの灰色の縞模様の腹を、一度だけなぞった。
なぞって、両手で胸の前に運ぶ。
両手の指が、ぬいぐるみの底の方に、均等に回っていた。
「......」
凛は、何も言わなかった。
ただ、もう一度、腕に力が入る。
ぬいぐるみの耳が、凛の鎖骨のすぐ上で、少し押しつぶれた。
凛はその位置を、調整しなかった。
俺が持ったままの金魚の袋の中で、3匹の金魚が、一度だけ静かにゆらいだ。
「蒼太、かっけー」
桐生が背後から、両手で頭の上にハートを作る。
「やめろ」
「いや、これは伝説の場面だぞ」
「伝説にするな」
「秋月さんのために3回チャレンジ、3発目で命中。ヒロインの心は撃ち抜かれた」
「最後の1行、消せ」
「消さない」
「消せ」
「消さない」
俺は片手で額を押さえる。
桐生は、ハートを作った両手を、まだ頭の上から下ろさない。
「桐生、お前なあ......」
「俺は事実を述べてる」
「事実じゃないだろ」
「事実だ」
「桐生」
つぐみが桐生の腕を引いて、声を低くする。
「今の、凛の顔見た?」
「......見た」
「あの子、ああいう顔するんだね」
「あの子、ってどんな顔だ」
「言葉にできないやつ」
つぐみが扇子で口元を半分覆う。
「それ、白河らしくないだろ」
「あたしも、言葉にできないんだもん」
俺は横から、つい口を出す。
「白河、何だその語尾」
「祭り補正」
「そのセリフまで使うなよ」
つぐみが扇子で桐生の頭を一度だけ叩く。
桐生が「白河の語彙も消えたんだな」と頭を押さえた。
ひなたが、3メートルくらい離れた場所で、綿菓子を食べていた。
綿菓子の袋の底の方に、白い塊が少し残っている。
ひなたが指でひとつまみして、口に運ぶ。
運ぶ途中で、その手が止まった。
綿菓子が指先に潰れたまま、ひなたは口に運ばずに、リュックの紐の根元を片手で握った。
ひなたが俺の方を見て、笑う。
目の焦点が、俺の少し後ろにある。
俺はひなたの笑顔に頷いて、それから凛のぬいぐるみの背中を、ちらりと見る。
凛は俺の方を見ない。
ぬいぐるみの背中の縫い目を、両手の親指の腹で、一度だけ確かめていた。
* * *
「そろそろ、花火の場所取り行くか」
桐生が片手で自分の腕時計を見る。
「20時から」
「あと25分」
「場所、奥の方がいい」
「だね。一番奥の」
桐生とひなたが先に歩き出す。
つぐみが俺の隣で「悪くなかったよ、藤宮」と短く言って、後を追う。
俺と凛が、5人の最後尾になる。
凛は、ぬいぐるみを胸の前で抱えたまま、歩いていた。
下駄の音が、参道の石畳にコツン、コツンと鳴る。
俺はその下駄の音に、自分の靴音を半歩分手前で止めて歩いた。
俺の片手には、金魚の袋がぶら下がっている。
凛は俺の方を見ない。
でも、抱えるぬいぐるみの位置が、俺のいる側の肩に少し寄っていた。
桐生とひなたが先頭で歩いている。
桐生が両手を後ろに組んで、ひなたに何か話していた。
ひなたが頷いて、片手で綿菓子の袋を畳んでいる。
空になった袋を、自分のリュックの脇のポケットに入れている。
つぐみが二人の後ろで、扇子をひらひらさせていた。
「秋月さん」
桐生が後ろを振り返って、片手を上げる。
声が、屋台の電球の唸りの方に落ちていた。
「......何」
「その猫、名前つけた?」
「......つけない」
「えー、名前ないと可哀想だぞ」
「......」
「シマちゃんとか」
「......」
桐生が首をかしげて、もうひと案ひねり出す。
「灰色だからハイちゃん」
「......」
「ニャーちゃん?」
「桐生、ネーミングセンス致命的じゃん」
つぐみが扇子の先で桐生の背中を一度叩いた。
桐生が「俺なりに考えたんだぞ」と肩をすくめる。
凛が、ぬいぐるみの折れた方の耳を、軽く立て直した。
神社の境内が見えてきた。
提灯の橙色が、境内の石畳の上にも続いている。
花火の場所取りの人波が、すでに半分くらい埋まっていた。
「あそこ、空いてる」
桐生が境内の右手の方を指す。
木立の手前、少し奥まった場所。
桐生がリュックから折り畳んだブルーシートを取り出して、両手で広げる。
「お前、本当になんでも持ってくるよな」
「準備の男だ」
「3か月ぶりにそのセリフ聞いた気がするな」
「俺の代名詞だぞ」
「自慢じゃないだろ、それは」
「自慢だ」
ブルーシートが境内の石の上に広がる。
風で端が一度めくれて、ひなたが片手で押さえる。
桐生がリュックの中から、4隅に置く石を探している。
「桐生、リュックに石まで入れてるのか」
「準備の男だ」
「お前、本当に何でも入ってるな」
「夢が入ってる」
「もう聞いた」
桐生が境内の隅から拾ってきた石を、ブルーシートの4隅に置く。
桐生・つぐみ・ひなたが先に靴を脱いで上がる。
桐生がブルーシートの中央であぐらをかいて、つぐみが片足を伸ばして座った。
ひなたが膝を抱える形で、隅の方に座る。
俺はブルーシートの手前で立ち止まって、片手の金魚の袋を桐生に渡す。
「桐生、これ預かってて」
「金魚?」
「秋月の」
「あー、これ、夜店のやつな。任せろ」
桐生が両手で袋を受け取って、シートの隅にそっと置いた。
凛は、まだブルーシートの上に上がらなかった。
ぬいぐるみを抱えた両手で、下駄を脱ぐ動作が、たぶん面倒だ。
片手で帯の結び目を一度なぞる。
「藤宮」
「ん」
「......トイレ」
「ああ。場所、確保しておくな」
「......どこ」
「あっち。神社の境内の、入口の方」
「......分かった」
凛がぬいぐるみを胸の前で抱え直す。
「迷うなよ」
「......迷わない」
「絶対迷うやつだろ、お前は」
「......迷わない」
俺は片手で頭を掻く。
「迷ったらLINEな」
「......分かった」
俺は、凛の腕の中のぬいぐるみに、もう一度目をやる。
「ぬいぐるみ、持ってくのか」
「......持ってく」
「重くないか」
「......重くない」
「だな」
凛が頷いて、参道の脇の細い道の方へ歩き出す。
ぬいぐるみを胸の前に抱えたまま。
紺地の浴衣が、提灯の橙の中に紛れていく。
下駄の音が先に聞こえなくなって、太鼓の音が、また一段大きく鳴った。




