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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio Yodaca
会いたい夏

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52/69

ひなたの横顔

 駅には、誰もいなかった。

 ホームの自販機が、モーター音を低く出している。

 ベンチの木の上に、夕日が斜めに乗っていた。


 俺と桐生(きりゅう)がベンチの端に荷物を置く。

 (りん)は、ベンチからわずかに離れた柱の前で、リュックの紐を片手で握っていた。

 長い髪が片肩から垂れて、白いカーディガンの腕の上で動かない。

 ひなたはベンチに座らず、俺の隣に立っている。

 俺の肘に当たりそうで、当たらない距離だ。

 ひなたが桐生(きりゅう)の方を一度だけ見たが、声は出さない。

 つぐみがその全部を一度見て、何も言わずにスマホを開く。


「あー、しんどい」


 桐生(きりゅう)がベンチに上半身から倒れ込む。


「靴脱ぐな」


「脱いでない」


「脱ごうとしてた」


「ここで脱いだら社会が終わる」


「終わらないだろ、靴くらいで」


「終わる」


 桐生(きりゅう)が片足を持ち上げて、靴の中を覗き込む。


「砂浜から駅まで、俺の靴の中で社会が始まったんだよ」


「何の話だ」


「砂が入ったまま帰宅は俺のポリシーに反する」


「お前のポリシー、緩そうだな」


「緩い」


 断定だけは早い。

 桐生(きりゅう)が片腕でこめかみを覆って、目を閉じる。


「電車、何分」


「12分」


 つぐみがスマホで確認して答える。


「12分長くないか」


「12分は12分」


「もうちょい縮まらない?」


「縮まったら12分じゃないでしょ」


 桐生(きりゅう)がため息で答える。


 ひなたが、柱の前の(りん)の方に半歩近づく。


(りん)ちゃん、座らないの?」


「......立ってる方が、楽」


「そっか」


 ひなたはそれ以上は聞かない。

 (りん)は、ベンチを一度だけ見て、視線を空の方に戻す。

 ひなたが俺の方に戻ってくる。


 (りん)が、柱の前で立ったまま、海の方角を一度だけ見た。

 駅から海は見えない。海の方の空だけが、わずかに広い。

 俺はその視線の角度を、なんとなく覚えた。


 ひなたが俺のすぐ横で、両手を後ろに組む。

 組んだ手の指が、リュックの紐に絡みかける。


「そうくん」


「ん」


「今日、楽しかったね」


「ああ、楽しかったな」


(りん)ちゃん、笑ってたね」


「ああ」


「初めて見たね」


「ああ」


 ひなたが小さく笑う。

 俺は自販機の中の冷たい飲み物の列を、ベンチの位置から眺めていた。


 遠くで踏切のカンが一度鳴る。

 電車はまだ来ない。

 ホームの自販機が、もう一度モーター音を高く出す。

 桐生(きりゅう)がベンチの上で寝返りを打って、手の甲が額の上に乗った。


 * * *


 電車が来た。

 夕方の下り、ガラガラだ。


「俺は寝る」


 桐生(きりゅう)が宣言して、隣の車両のベンチシートにそのまま倒れに行った。

 残った4人で、4人がけのボックス席に向かう。


 (りん)が窓側に座る。進行方向じゃない方の窓側だ。

 俺はその向かいに座った。窓側で、(りん)と斜めの位置。

 ひなたが俺の隣、通路側に座る。

 つぐみが(りん)の隣、通路側に座る。


桐生(きりゅう)、本当に寝るんだ」


 ひなたが隣の車両を首だけで覗く。


「あいつは寝ると本当に寝るんだよ」


「そうなんだ」


「起きるのは終点」


「終点で起きなかったら?」


「車掌に起こされるんだ」


「経験ある?」


「あるな」


 ひなたが声を出して笑う。

 笑い声が車両のエアコンの音に乗って、天井の方に消えていく。


 電車が走り出す。

 夕方の田んぼと、海から離れる方向の景色。

 窓の外で電線が一度途切れて、また現れる。


 車内には、俺たちのほかに誰もいなかった。

 エアコンの吹き出し口の真下に、つぐみが頭を入れている。

 風で前髪が後ろにめくれて、額が出ていた。


白河(しらかわ)、その位置で寝るなよ」


「寝ない」


「寝るときは寝るんだよな、お前」


「あんたといっしょにしないで」


 桐生(きりゅう)は隣の車両ですでに本格的に寝ている。背中を窓側に向けて、片手を顔の上に乗せている。

 俺はその丸まった背中を視界の端に入れたまま、ボックス席に向き直った。


 (りん)は、窓の外を片頬で受けたまま、目を一度閉じる。

 白いカーディガンの袖口が、両手の上で軽く重なっている。

 俺の視線が、その袖口の重なり方の上で、しばらく止まった。


 ひなたが、俺の隣で口を開けた。開けたまま、閉じた。

 膝の上で、両手の指の組み方を一度直す。


 俺がひなたの方に顔を向ける。


「ん?」


「......ううん」


「なんだ、言いかけてただろ」


「なんでもない、ほんと」


 ひなたが両手を膝の上で重ねる。

 膝の上で、片手の親指が、もう片手の親指を一度だけ撫でた。


 通路側の(りん)の隣で、つぐみがスマホを片手に伏せていた。

 画面を見ているのではない。画面の上に乗っている自分の親指の関節を見ている。

 つぐみの視線が、一度だけひなたの方角に流れた。

 流れて戻った。


 窓の外で、田んぼが切れた。住宅街の屋根が並び始める。

 夕日が、屋根の鈍い銀色に当たって、車内の温度を一段だけ下げる。

 (りん)は目を閉じたままだ。


 走行音が、しばらく続いた。

 誰も話さない。

 つぐみがエアコンの下から頭を抜いて、髪を片手で整える。

 ひなたが両手の指を組んでは、ほどいた。

 窓の外で、住宅街の屋根がまた切れて、田んぼに戻った。

 夕日の角度が、車内の床に届きそうだ。


「そうくん」


「ん」


秋月(あきづき)さんと、仲良くなったよね」


「まあ、隣の席だからな」


「そうだね」


 ひなたの「そうだね」は、それきり続かなかった。

 俺は、自分の手のひらを膝の上に置く。


 俺の目が、また(りん)の方に流れる。

 (りん)はまだ目を閉じている。

 夕日が車両を斜めに切って、(りん)の頬の半分だけ、橙色になっていた。

 白いカーディガンの裾の折り目が、膝の上で一度ずれた。

 その折り目を、(りん)は最後まで直さなかった。


 ひなたが俺の視線の先を目で追って、膝に戻す。

 それからもう一度、(りん)の方を見た。

 ひなたが膝の上で、片手を握る。

 指の関節が、白い。


「......そうくんって」


「ん」


(りん)ちゃんのこと、よく見るね」


「そうか?」


「うん」


「気のせいだろ」


「うん」


 3回目の「うん」が、一番小さかった。

 俺は返事をしなかった。


 ひなたが、両手の指を膝の上で何度か握り直した。

 指を絡めた形のまま、止まる。


 つぐみが、スマホの画面を一度だけ起動して、また伏せる。

 起動した画面の光が、つぐみの顔の下半分を一瞬だけ照らす。

 その光の中で、つぐみの口元が、一度だけ開いた。


 電車が、地元の駅の手前のトンネルに入る。

 車内の音が一段大きくなって、それから少し小さくなった。


 * * *


 地元の駅で電車を降りる。

 桐生(きりゅう)は本当に終点まで行きそうだったので、ひなたが駆け足で隣の車両に呼びに行った。


「ここどこ」


 起きた桐生(きりゅう)が、寝ぼけた声を出す。


「あんたの最寄り」


 つぐみが冷たく返す。


 桐生(きりゅう)が改札の手前で「あ、ICカード残高足りねえ」と言って、横の精算機に走る。


「あんた行きにチャージしなさいよ」


「忘れた」


「90円足りない!」


「ひなた持ってるよ」


 ひなたがリュックから100円玉を出して、桐生(きりゅう)に渡す。

 桐生(きりゅう)が「ひなたちゃん、神」と片手を合わせる。

 (りん)は、騒ぎの始まる前に黙って改札を抜けていた。

 今は5メートル先の蛍光灯の下で、片手を反対の腕に添えて立っている。

 駅の蛍光灯が、白いカーディガンの肩を青く落としていた。

 (りん)の顔は、駅前のロータリーの暗さの方を向いている。

 俺は(りん)の方に半歩進んで、そこで止まった。


 改札を抜ける。

 駅前のロータリーは、もう半分暗い。

 自販機の明かりが、地面の上に四角く落ちていた。

 夏の夕方の蝉が、商店街の方角で、まだ鳴いている。


「じゃ、また明日」


 桐生(きりゅう)が片手を上げる。


「明日、何かあるんだっけ」


「何もないけど」


「お前なあ」


 桐生(きりゅう)が思い出したように顔を上げる。


「来週、夏祭り」


 指で「7」と書いた。


「7日後だな」


「7日も?」


 ひなたが片手を口の前に当てる。


「うん」


「あっという間だね」


 ひなたが、口を閉じてから一拍、商店街のアーチの方角を見上げる。

 俺はそれを横で見ていた。


 (りん)が、白いカーディガンのボタンを今さら一つだけ留める。


「......じゃあ」


 短く言って、(りん)が反対方向に歩き出した。

 俺は片手を上げて応える。

 (りん)は振り返らなかった。


 つぐみが、ひなたの肩を一度だけ軽く叩いて、商店街の方角に向かう。

 桐生(きりゅう)が「ま、また明日」とあくびをしながら、自転車置き場の方に消える。


 俺とひなたが残った。


「そうくん」


「ん」


「夏休み、あと何日」


「えーと......11日」


「11日かあ」


 ひなたが指で空中を、一度だけ数えるようになぞる。


「短いな」


「うん」


「来年もまた、みんなで来ようぜ」


「うん」


 ひなたが片手で前髪を直す。

 直した手のひらを、そのまま自分の前に出している。


 俺たちは、どちらからともなくアパートの方角に歩き出した。

 道は、二人が並んで歩ける幅だ。

 ひなたが俺の後ろを歩いている。

 肩が並ばない。


 角を曲がったところで、ひなたの靴の音が一拍止まった。

 俺が振り返る。

 ひなたが、自販機の前で立ち止まっていた。


「ジュース買おっか」


「ああ」


「そうくん、何にする」


「同じのでいい」


「同じって、何にも言ってないよ」


「お前と同じので頼む」


「ふうん」


 ひなたが小銭入れを片手で開けて、そのまま閉じる。


「やっぱり、いい」


「買わないのか」


「うん」


「飲みたかったんじゃないのか」


「うん」


「どっちだよ」


「分かんない」


 ひなたが、自販機の明かりの中で、片手の親指で小銭入れの縁をなぞった。

 指の動きが遅い。

 俺は黙って、自販機の唸りを聞いていた。

 ひなたが小銭入れをポケットに戻す。

 戻した手を、もう一度ポケットの上から押さえた。


「やっぱり帰る。そうくん、また明日」


「ああ。また明日な」


 ひなたが先に歩き出す。

 俺は少し遅れて歩き出す。

 ひなたの背中が、街灯の下を一度だけ通って、また暗がりに入る。


 夏の夕方の蝉が、もう鳴き止んでいた。


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