背中に触れた手
「だから、藤宮がやって」
つぐみが言い切る。
砂の上で片手の指の間から砂を一度こぼして、見せつけるようにもう片方の手も同じように動かす。
「ね、両手」
「ね、じゃないだろ」
つぐみが砂をもうひと掴み、こぼす。
「ベタベタ」
「砂がベタベタする海岸、どこだ」
「ここ」
つぐみがそのまま砂浜全体を、片手で示す。
「ここの砂は普通だろ」
「普通の定義は人による」
「物理だ」
「物理は人による」
「物理は人によらない」
つぐみは取り合わない。砂をもう一度すくっては落とす。
俺はパラソルの柱に視線を逃がす。
桐生がリュックの中から、急いでスマホを掘り出していた。
「お前、何してるんだ」
「記録」
「するな」
「いや、俺の聖域奪われた借りがある」
桐生がカメラのアプリを開きながら真顔で言う。
「秋月にじゃなくて、俺にか」
「全方位」
俺はもう一度頭を抱える。
つぐみが横から手を伸ばして、桐生のスマホをスナッチする。
「あ」
「却下」
「白河、それ俺の」
「却下」
「いつから検閲制になった」
「いま」
桐生がスマホを取り返そうとして、つぐみが片手で遠ざける。
ひなたがその攻防を一度横目に見て、それから両手をぱんと打った。
「桐生くん、屋台行こ」
「ええ、今?」
「今。お腹空いた」
「俺、スマホ......」
「あとで返してもらうから」
ひなたが桐生のリュックの肩紐を片手で掴んで、有無を言わさず引く。
桐生が砂の上を引きずられるように立ち上がる。
「ひなたちゃん、あんた力強くなった?」
「夏休みで強くなったの!」
「何の話だ」
「たこ焼きの話だよ!」
「噛み合ってない」
二人の背中が、屋台の方角に小さくなっていく。
ひなたが一度こちらを振り向いて、片手を頭の上で振った。
俺は片手を上げて応える。
* * *
残ったのは、俺と凛とつぐみ。
パラソルの陰の砂の上に、3人の影が落ちている。
凛はビーチタオルの上で膝を抱えていた。
長い髪の先を、片手で胸の前に寄せている。
顔は海の方を向いている。
俺の方は、見ていない。
つぐみが、ビニール袋から日焼け止めのチューブを片手で取り出す。
俺の前の砂に、ことんと置く。
「はい」
「いや、お前が塗ればいいだろ」
「無理だって言ってるじゃん」
つぐみが指の腹を俺に見せる。砂粒は1つも見えない。
「お前が言ってるだけだろ、それ」
「凛が断れない人に頼むのが、効率的なの」
「人選を効率で語るな」
「効率」
断定の方が早い。
凛はまだ膝を抱えたままだ。
ただ、膝を抱えた指先に、白くなるほど力が入っていた。
「秋月、自分で塗れるか」
「......」
「届くか」
「......届く」
「届かないだろ」
「......届く」
凛が、片手をうなじの方に上げかけて、また下ろす。
「届く範囲だけ塗っても、肩甲骨のあたりが空くんだ」
「......そこは、届く」
「指の長さ的に届かないだろ」
「......届く」
凛は譲らない。
譲らないが、3回目の「届く」は語尾が掠れていた。
「届かない人に届くって言わせるの、可哀想じゃん、藤宮くん」
「俺がか」
「あんたが」
つぐみが指で俺を一度差す。
「俺は塗れって言ってるだろ」
「塗ってって言われたいの、それは」
「お前さあ......」
「いいから塗って。あたしは見てる」
「監視じゃないか」
「監視」
もう何も返せない。
俺は日焼け止めのチューブを片手に取る。
凛の方を見る。
凛はまだ海の方を向いている。
「秋月、いいか」
「......」
「答えてくれ、何か」
「......早く、して」
語尾は、波の音に消えかけていた。
チューブのキャップを開ける。
白いクリームを、左の手のひらに少し出す。
量が、思っていたより多かった。戻すか迷って、戻さなかった。
......落ち着け。
日焼け止めだ。健康管理。ただの健康管理。
......いや、健康管理は親が言うやつだ。
......だめだ、何も落ち着かない。
凛が、髪を片手で前にまとめる。
長い髪が片肩から胸の前へ、滑り落ちる。
水着の黒の生地と、肌の白の境目に、海の風が一度通った。
「いくぞ」
「......」
「触る」
「......分かってる」
俺は手のひらを、凛の左の肩甲骨の少し上に当てた。
凛の肩が、一拍硬くなった。
白いクリームが、肌の上で延びる。
日に当たり続けた背中は、思っていたより温かかった。
肩から肩へ、横に手のひらを動かす。指の関節が、思うように曲がらない。
凛は何も言わない。
顔は、依然として海の方だ。
ただ、首の後ろのあたりの、髪の生え際の細い毛が、わずかに揺れた。
俺の息か、風か。
肩甲骨の下、背中の中央のあたりまで、手のひらを下げる。
白いクリームが薄くなって、もう一度チューブを開け、左手に足す。
「もう少し」
「......もう少し」
「真ん中の、ここ」
「......」
「終わる」
「......」
つぐみが砂の上で膝を抱えて、海の方を向いていた。
見ていないように見せながら、サングラスの下の目だけがこちらの方角を映している。
俺は何も言わない。つぐみの口の端が一度だけ持ち上がったのは、横目に入った。
「終わった」
「......悪い」
「ああ」
「......」
「肩、回るか」
「......」
「いや、答えはいい」
「......」
凛が片手で右の肩を回しかけて、半分も回さずに止めた。
それから髪を後ろに戻す。長い髪の先が、塗ったばかりの肩のあたりに、1本だけ張り付いた。
俺は反射的にその毛を取ろうとして、手を途中で止めた。
凛が自分で取った。
凛が、片手で短く息を吐く。
肩を一段下げるくらいの、短い息の長さだ。
それからリュックの横ポケットに手を入れて、薄手の白いカーディガンを取り出す。袖を片腕ずつ通して、ボタンは留めなかった。
白い布の下に、塗ったばかりのクリームの匂いが、薄く隠された。
日焼け止めのチューブを砂の上に置く。
左手のひらに、まだ少しだけクリームが残っていた。
俺はその手を海の方に向けて、軽く振った。乾く前に水で流すつもりだった。
つぐみが立ち上がる。
砂を一度払って、両手を腰に当てる。
「あたしも泳ぐ。あんたら、好きにしな」
「お前は監視じゃなかったのかよ」
「監視終了」
「責任放棄だろ、それ」
「責任放棄」
断定。
つぐみが水際の方へ歩き出して、屋台から戻ってくる桐生とひなたとすれ違った。桐生の手にはたこ焼きのパック。ひなたの両手にラムネの瓶が1本ずつ。
「白河、戻ったぞ」
「桐生、ひなた連れて反対側」
「なんでだよ」
「藤宮と凛を放っておけって言ってるの」
「俺、なんでそういう用件で動かされるんだ」
「動け」
つぐみが指で反対側を指す。桐生が「ええー」と言いながらひなたの方を見て、ひなたが両手のラムネを一度かちんと鳴らして笑った。
「桐生くん、こっちこっち」
「ひなたちゃん、白河の話聞いてた?」
「聞いてた。反対側だよね」
ひなたが、ラムネをもう一度、かちんと鳴らした。
* * *
立ち上がる。
砂の上の俺の影が、横に倒れた。
「秋月、入るか」
「......入る」
凛が膝の砂を片手で払って、立ち上がる。
タオルの上の凛の場所だけ、砂の色が一段だけ濃く残った。
水際まで歩く。
歩きながら、凛が一度だけ俺の方を見た。それから視線を海に戻した。
俺は何も言わない。凛も何も言わない。
波が足首に当たる。冷たい。
膝、腰と、水が上がってくる。
「......冷たい」
「最初だけだ」
「......最初って」
「あと10秒で慣れるんだ」
「......」
数えはしないが、それくらいで慣れる。
凛は、腰のあたりで一度立ち止まって、それ以上は前に出なかった。
俺は半歩戻る。同じ深さに合わせる。
波が来て、二人とも半歩浮く。
浮いて戻る。
「秋月」
「......何」
「足、ついてるか」
「......ついてる」
「砂、感じるか」
「......砂、ある」
「砂があるなら、流されないだろ」
「......」
凛が両手を水の中に広げる。
手のひらを水面の下に伏せて、波の上下を、肌で確かめている。
遠くの方で、桐生がひなたに水をかけているのが見える。ひなたが両手で受けて、こっちに向かってもう一度かけ返している。
ここまでは届かない距離だ。
声だけが、風に乗って薄く来た。
「......藤宮」
「ん」
「......友達と、海に来たの」
「ああ」
「......初めて」
俺は波がひとつ通り過ぎてから答えた。
「そうか」
「......そう」
「楽しいか」
「......」
「答えてくれ、それは」
「......普通より、少し上」
普通。
凛が水面に目を一度落として、しばらくそのままだった。
目を閉じて、なかなか開けない。
俺は声をかけずに、隣の波の動きに体を合わせていた。
風が来る。
水面が、皺の方向を一度変える。
凛の髪が、風の向きに引かれて、塗ったばかりの肩先をひとなでした。
凛が両手で、すくった水を顔の前で開く。
水が指の間から落ちて、波に戻る。
「藤宮」
「ん」
「......また、来てもいい」
「来年のことか」
「......」
「ああ。来ようぜ、また」
凛は答えなかった。
答えない代わりに、もう一度両手で水をすくって、その場で小さく揺らした。
* * *
海から上がる。
砂が足の裏に張り付いた。
パラソルの方へ歩く。
桐生とひなたが先に上がっていて、つぐみがビニール袋を片付けている。
「凛、戻った?」
「......戻った」
「タオル、こっち」
つぐみが凛にタオルを投げる。凛は両手で受けて、肩から肩までを一度拭いた。
俺もタオルで顔を拭く。
水分のついたまつ毛の重さが、一拍で消える。
「そうくん、たこ焼き残してあるよ」
ひなたが、紙のパックを片手で持ち上げる。
中に、たこ焼きが2個。爪楊枝が1本、突き立っている。
「2個も?」
「2個、そうくんの分」
「お、ありがとうな」
俺はパックを受け取る。
受け取りながら、目だけが半分、凛のいる方を向いていた。
凛はまだタオルで首の後ろのあたりを拭いていた。
俺がひなたに視線を戻すと、ひなたはちょうどタオルの端を畳んでいる。
「そうくん」
「ん」
「楽しかった?」
「ああ、楽しかったな」
「......そっか」
ひなたの「そっか」が、たこ焼きの紙パックの方に、ぽとりと落ちた。
俺は何も返さなかった。
つぐみがひなたの横顔を、一度だけ見ていた。
「白河、スマホ」
「明日、返す」
「明日って」
「明日」
「俺、夜届かないとサボったみたいになるんだけどな」
「困れ」
「ひどい」
桐生が砂の上で大の字になる。
ひなたが、たこ焼きの最後のひとつを竹串で持ち上げて、桐生の口に差し込んだ。
桐生が無言で咀嚼している。
砂浜の上で、夕方の風が一段だけ涼しさを増した。
ひなたが、何かを言いかけた。
言いかけて、たこ焼きの竹串を、ぱきりと折った。




