黒のワンピース
午前8時。駅前の改札。
桐生がいない。
ひなたとつぐみは先に来ていた。ひなたは麦わら帽子のリボンを片手でいじっている。つぐみはサングラスを頭の上に乗せて、つまらなそうにスマホを見ていた。
「そうくん、おはよう!」
ひなたが片手を振る。
「おう。早いな」
「早くないよ。集合8時って言ったの誰」
「俺だ」
「あんたが一番遅いじゃん」
つぐみが顔も上げずに言う。
「俺は桐生を待ってるんだ」
「桐生は集合時間の30分後に来るって相場が決まってるでしょ」
「決まってないだろ」
「決まってる」
つぐみが断定して、スマホに戻る。
ひなたが小さく笑った。
「凛ちゃんは?」
ひなたが俺の方を見る。
「まだ来てない」
「迷ってないかな」
つぐみがスマホから顔を上げた。
「家から駅までは一本道だ」
「凛にとって一本道が何キロあるかわかんないよ」
つぐみの指摘は、悲しいことに正しい。
「LINEしてみる?」
ひなたがスマホを片手で構える。
「もう少し待つ」
俺はそう言って、改札の方を見た。
駅前のロータリーから朝の風が抜けてくる。バスが一台、止まっては動いた。
ホームの上のアナウンスが、海方面の電車の到着を予告する。
「ね、そうくん」
「ん」
「凛ちゃんって、泳げるの?」
ひなたが片足のサンダルを踏みかえながら聞いた。
「聞いたことない」
「聞いてないんだ」
「聞く必要がなかった」
「これから必要だよ」
ひなたが笑う。
その笑いに、いつもより半秒だけ余韻があった。
俺がスマホを取り出した瞬間、改札の向こうから凛が現れた。
白の半袖シャツ。紺のショートパンツ。背中にリュック、片手にエコバッグ。歩幅はいつもより少しだけ速い。
「......おはよう」
「ああ」
「......遅い?」
「桐生がまだだ」
ひなたが凛に駆け寄る。
「凛ちゃん、おはよう! その帽子、持ってきた?」
「......持ってきた」
凛がリュックの横ポケットを示す。折り畳まれた帽子のつばが見えた。
「凛、日焼け止めは?」
「......リュックに、入ってる」
「水着は?」
「......入ってる」
つぐみが小さく頷く。
「うん。よし」
何の点検だ。
点検が終わった頃、改札の向こうから声がした。
「悪い悪い、寝坊した!」
桐生だ。
予定通りの遅刻。
「お前なぁ......」
「言うな。電車間に合うだろ」
桐生が改札を抜けてくる。リュックを片手で背負いながら、もう片手で寝癖を撫でつけている。
「秋月さん、おはよ」
「......おはよう」
凛の声が桐生の前ではいつもより半音だけ低い。気のせいではない。
「全員揃った。行くぞ」
俺がホームに向かう。改札を抜けて階段を上る。
ひなたが先頭、桐生が後ろから何か喋っている、つぐみが俺の半歩後ろ、凛がさらに後ろ。
「藤宮」
階段の途中で凛の声がした。
「ん」
「......何号車」
「先頭から3両目」
「......わかった」
凛がうなずいて、階段の手すりを片手で握り直す。手すりを握る位置がいつもより低い。
俺の説明に納得した時の凛の握り直しだ。
* * *
電車に乗り込む。
車内は思ったより空いていた。海の方向に向かう客がほとんどで、夏休みの中でも今日は中日だ。
ひなたとつぐみと凛が4人がけのボックス席に向かう。俺と桐生が向かいに座る、と思ったら、桐生が「秋月さん、ここ広いよ」と俺の隣の席を凛に勧めた。
凛が一拍止まる。
ひなたが「凛ちゃんこっちおいでよ」と先に呼んだ。
「......そっちで」
凛が女子組の方に座る。桐生が「やっぱり俺の隣は埋まらない」と肩をすくめた。
「お前のせいじゃないだろ」
「お前のせいでもないからな」
なんだそれは。
電車が動き出す。
窓の外の景色がゆっくり流れて、住宅街が田んぼに変わる。
ひなたが凛に何か話しかけている。凛が短く答える。ひなたがまた話す。
ひなたは凛のテンポを掴むのが上手い。短く聞いて短く待つ。返事を急かさない。
「そうくん」
ひなたが俺の方を向いて言った。
「ん」
「海、どっち回り?」
「左から見て右の方」
「答えになってない」
「砂浜が広い方だ」
「最初からそう言って」
ひなたが笑う。
凛がその笑いを横で聞いている。
窓の外の田んぼが切れて、トンネルに入った。
車内の音が一段大きくなる。
* * *
乗り換えの駅で全員が降りる。
ホームの反対側に乗り換え用の電車が止まっていた。
扉が開いて、人が降りる。
「次、これ」
俺が言う。
ひなたとつぐみが先に乗り込む。桐生が続く。
凛が動かない。
ホームの先の方を見ている。看板を一度、もう一度。
看板の数字を読み比べているのが俺にも分かった。
「秋月、こっちだ」
「......こっち?」
「そっちは戻る方だ」
「......」
凛がこちらに向き直る。
動き方が、半拍だけ遅い。
扉の閉まる予告音が鳴った。
「乗り過ごすぞ」
俺は凛の方に手を伸ばす。エコバッグの取っ手を軽く引いた。腕には触れなかった。それでも凛の歩幅が一段大きくなる。
二人で電車に乗り込んだ瞬間、扉が閉まった。
「......離して」
「離してる」
俺は既に取っ手から手を離していた。
凛が自分のエコバッグの取っ手を見て、それから俺を見る。
「......早い」
「お前が遅いんだ」
「......そう」
凛が顔を逸らした。
ひなたが少し離れた席で、こちらをじっと見ていた。
* * *
海の最寄り駅。
改札を抜けると、潮の匂いが先に来た。
「うわ、海だ海だ」
桐生が両手を上げる。
ひなたが歩道に飛び出して、つぐみに止められる。
凛が改札を抜けて、空を見上げた。
「......青い」
短いその一言を、俺は聞き逃さなかった。
学校で凛が空のことを言うのを、俺は聞いた覚えがない。
駅から海までは徒歩7分。
海の家の屋根が、もう見えている。
* * *
海の家で着替えを済ませて、男子組は先にビーチに出た。
俺は黒の半パン、桐生は派手な柄物。
桐生がリュックからスイカと飲み物を出して並べ始める。
「お前、本当に持ってきたのか、スイカ」
「割る」
「車内に持ち込んだのお前一人だぞ」
「重かった」
それを誇るな。
女子組はまだ更衣室にいる。
パラソルの下の砂が、すでに熱を持ち始めていた。
俺はサンダルの先で砂を一度かき寄せた。
「来たぞ」
桐生が顎で示した方向。
俺は顔を上げた。
ひなたが先頭で歩いてくる。白のビキニに薄手のパレオ。長い髪を片手で押さえている。
「そうくん、見て見て! ひなたの新しい水着!」
「ああ、似合ってるな」
ひなたが嬉しそうに笑う。
その後ろから、つぐみが歩いてくる。赤のビキニ。歩き方に迷いがない。
「あたしの感想は?」
「派手だな」
「褒めて」
「派手だ」
「2回言うな」
つぐみが俺の肩を軽く叩く。
桐生が「白河お前、すげー」と素直に言って、つぐみに「うっざ」と返された。
その後ろから、凛が出てきた。
俺の足が、砂の上で一度止まる。
黒のワンピース型。袖はなく、襟ぐりは深すぎず、丈は腿の真ん中まで。装飾は何もない。
ただそれだけだ。
それだけのはずだった。
凛がうつむき気味に歩いてくる。片手はリュックの取っ手、もう片手はうなじのあたりに上げかけて、戻している。髪は普段通り、結んでいない。長い髪の先が、肩の上で一度跳ねた。
砂の白さに、黒の輪郭がはっきり立っていた。
肩のライン。腕の白さ。膝の細さ。視線を一度上に戻そうとした。戻せなかった。
文を返さなければならない、と頭のどこかが言っていた。
頭の中の言葉が、声まで上がってこない。
凛がパラソルの手前で止まった。
「......変?」
「いや」
「......」
「変じゃない」
「......そう」
凛がリュックを砂の上に置く。リュックの位置を、置いてからもう一度直した。
俺はまだ凛の方を直視できていない。サンダルの先で砂を一度動かす。動かしただけで、それ以上にはならない。
桐生が小声で言った。
「おい、口閉じろ」
口は閉じている。問題は、口を開けないことだ。
「秋月さん、似合うね」
桐生が普通に言った。さらっと言った。
凛が「......どうも」と頭を下げる。礼儀の角度が一段深い。
俺は、凛にまだ何も返していない。
* * *
「ねえ、藤宮くん」
ひなたが砂浜の方へ走り出した後、つぐみが俺の隣に来た。パラソルの陰、砂の上。
ひなたは桐生と一緒に水際に向かっている。波打ち際で「冷たっ」と声を上げているのが聞こえた。
凛はビーチタオルを広げて、その上に座っている。
目を細めて、海の方を見ていた。
「ん」
「ひなたには似合ってるなって言ったよね」
「言った」
「凛には?」
「言った」
「何て」
「変じゃない、って」
つぐみが砂を片手で一掴みして、指の間からこぼす。
「あんた、自覚ある?」
「何のだ」
「言い方の差」
「同じように言ったけど」
「どこが」
俺は一拍置く。
ひなたへ「ああ、似合ってるな」。
凛へ「変じゃない」。
言葉だけ並べると、そんなに違わない。並べてみてから、並べた本人が嘘だと知っていた。
「言い方の差というか」
「うん」
「速度の差だな」
「正直」
「悪い」
「あたしに謝らないで」
つぐみがサングラスを下ろして目元にかける。
砂の白さで反射が強い。
「ひなたは、気づいてた?」
「気づいてたな」
「あの子、目はいいから」
俺は水際の方を見た。
ひなたが桐生を相手に水をかけ合っている。声は元気だ。
声は元気だ。水のかけ方の角度が、いつもより小さい。
「そうくん見て見て、って言ったのに、見たのは凛の方だったね」
つぐみがぽつりと言う。
俺は黙った。
つぐみが砂をもう一掴み、指の間からこぼした。
「藤宮くん」
「ん」
「自覚ないんだ」
風が、つぐみのサングラスの縁を一度揺らした。
俺はパラソルの陰から空を見上げる。
空が高い。8月の空だ。
その高さに、答えがあるわけではなかった。
水際で、凛がタオルから立ち上がるのが視界の端に見えた。
俺の視線が、勝手にそちらに動く。
膝の向きも、砂の上で半歩分ずれていた。
「藤宮くん」
「ん」
「ひなたは目がいいって、さっき言った」
「言ったな」
「ついでに、勘もいい」
「......」
「あんた、ひなたの前で凛の話するの、控えな」
「話してないだろ」
「話してなくても、見てれば伝わる」
つぐみが立ち上がった。
砂を一度払って、両手を腰に当てる。
「凛、水入る?」
水際の凛に向けて、つぐみが声を投げた。
「......入らない」
「なんで」
「......方角が、わからなくなる」
「海は前」
「......知ってる」
つぐみが笑う。
ひなたが振り返って、こちらに向かって手を振った。
「そうくん、水! 冷たいよ!」
桐生がひなたの後ろから水をかけようとして、ひなたが反射的に逃げた。
ひなたの笑い声が、波の音に乗って戻ってくる。
ひなたの笑い声は、いつもと同じトーンだ。
耳の中で響く位置だけが、いつもと違っていた。
つぐみが俺の肩を一度叩いて、水際の方へ歩いていく。
パラソルの下に俺が残された。
砂の上に、つぐみが座っていた跡が浅く残っている。
俺は立ち上がる。
凛のタオルの上に置かれた帽子が、海風で一度ふくらんだ。
「青春って、見てる方が疲れるんだね......」
つぐみが歩きながら、誰に言うでもなく呟いた声が、風に乗って俺の耳まで届いた。
届かないでほしいと思った。
届いてしまったので、答えなかった。
水際で、凛が片手を額の上にかざして、振り返った。海の青が、その指の影に切れている。
俺の足は、知らないあいだに立ち上がる準備をしていた。
この動きを、俺は何と呼べばいいのだろうか。




