指先が触れた
午後3時。
机の上の自由研究ノートが、計画欄まで埋まってから止まっていた。凛がペンを置いて、軽く首を回す。
「......動かないと、進まない」
「動くか」
「......動く」
外に出ると、午後の熱気が朝とは違う角度から来た。少し角の取れた暑さ。アスファルトの白い反射はそのままだ。
歩道のヘリを凛が歩く。半歩前。俺がそっちじゃないと言う前に凛が止まった。
「......どっち」
「右だ」
「......」
並んで歩く。蝉の音が高い。並木が途切れる場所で、凛の影が一度だけ濃くなった。
最初のコンビニまで、徒歩で5分。
自動ドアの向こうから、冷房の塊が体に当たる。凛が一瞬目を細める。
「......涼しい」
「効きすぎだろ、ここ」
凛がスイーツコーナーへ真っ直ぐ向かう。歩幅が、いつもより少し急ぎ気味だ。
棚の前で視線が左から右へ走った。プリン3種、シュークリーム2種、ロールケーキ、和栗のモンブラン、抹茶ティラミス。凛がリュックからノートを抜いて、棚の前で開く。
「......コンビニで広げるんだな」
「......書かないと、忘れる」
鉛筆の先が、整った字を出力していく。商品名。価格。容量。製造元。
俺はカゴだけ持って横に立つ。
「......撮ってもいい?」
「店員に見えない角度なら、いいだろ」
「......わかった」
スマホをやや斜めに構えて、シャッターを切る。フラッシュは焚かない。レンズの位置が陳列のヘリより上に来ないよう、肘を一度引いていた。お行儀がいい。
「......藤宮」
「ん」
「......どれが一番、美味しそう」
「俺に聞くのか」
「......舌は、藤宮の方が信用できる」
「俺の舌は研究員じゃないぞ」
「......でも、料理を作る人」
「比較対象にしてくれるなら、和栗のモンブランが本命じゃないかな」
「......和栗、わかってる」
凛がノートの端を、片手の親指で一度押さえた。
「分かってるなら聞くな」
「......確認」
凛がノートに「和栗◎」と書いた。何の確認だ。
俺はパンと飲み物だけカゴに入れて、レジへ向かった。
外に出る。
「......3軒、行く」
「全部買うのか」
「......分析のため」
「分析のため、と書いて自分を許してるな」
「そんなことない......」
2軒目までは3分。
俺と凛の歩調が、いつの間にか合っていた。
2軒目のスイーツコーナーで、凛の鉛筆の音は1軒目より少しだけ短い。重複する商品が多かった。凛が「......同じ」と小さく呟いて、新しい欄に短く印をつける。
3軒目に着く頃には、凛の表情にうっすら集中が乗っていた。学校で見る顔より、少し前のめりだ。
レジで凛がプリンを3つ並べる。会計の時に、自分の財布から先に出した。
「いいのか、3つ」
「......自分のだから」
「俺のぶん入ってないけどな」
「......」
凛の指先が、レジ袋の取っ手を握り直す。
「......プリン、1つあげる」
「分析対象を、減らすのか」
「......半分でいい」
「半分か」
「......藤宮はスプーンで一回」
「一回?」
「......一回分」
何の単位だ。口には出さなかった。
* * *
部屋に戻ると、冷房の低い音がそのまま残っていた。
机の上には朝に並べた教科書5冊と、凛のノート。窓のカーテンは半分だけ閉まっている。日差しの線が床に落ちて、午前よりも角度が浅くなっていた。
凛が机につく前に、レジ袋からプリンを2つ取り出す。冷蔵庫に入れろ、と俺が言う前に「......溶ける」と凛が呟いて、自分で台所へ向かった。靴下が滑らないよう、廊下の角で一度足を止めて方向を確認している。
戻ってきた凛が、スプーンを2本、台所から持ってきた。
「......1個、開ける」
「今か?」
「......分析」
蓋をめくる動作が、慎重だ。膜を破かないように指先の角度を変えている。
プリンの表面にスプーンを差し込んで、凛が一口、口に運ぶ。
「......悪くない」
「悪くない、で済むのか」
「......後で書く」
凛が「悪くない」と言う時の重みは、俺の方で換算が済んでいる。
凛はノートを開いて、商品名の横に「悪くない」と書いた。書いた後で、横に「★」をひとつ足した。
「......藤宮も、食べる?」
「ひと口、もらおうかな」
「......一回分」
「またそれか」
スプーンが差し出される。先には、プリンの白い部分が小さくのっている。
俺はそのスプーンを受け取って、ひと口、口に入れた。卵の風味が、思ったより先に立っていた。
「......どう」
「悪くないな」
「......言い方、似てきた」
「お前の方が先だろ、その言い方」
「......」
凛が小さく息を吐く。否定はしなかった。
俺は本棚から食品科学の本を引き寄せて、見出しから読み直す。糖質と脂質の比較から入るのが正攻法だが、グラフの軸は凛と決めなければならない。言いかけて止めた。凛が今、感想を書いている。
しばらく、鉛筆の音だけが部屋にあった。
窓の外で蝉が鳴き止んで、また鳴いた。
「......藤宮」
「ん」
「......この単語、なんて読む」
英語の教科書。文法の単元。凛の指が、長い文の真ん中の単語を指している。
「acquaintance。知り合いって意味だな」
「......発音、もう一回」
「アクウェインタンス」
「......舌、噛みそう」
「俺も最初はそうだったぞ」
「......友達じゃないの」
「友達ほど近くないやつだな。挨拶するだけの近所の人みたいな」
「......微妙な距離」
凛がノートの隅に、小さく書き込んだ。
「英語の方が細かく分けるんだ、こういうの」
「......日本語、雑だ」
「日本語が雑なんじゃなくて、英語が細かいんだろ」
「......そう言える」
凛がペンを持ち直して、発音と意味の両方をノートに書きつける。書き終わってから、凛は俺のノートを覗き込んだ。
「......藤宮」
「ん」
「......今の英作文、間違ってる」
「どこ」
「......主語と動詞の数」
凛が指で、俺の書いた文の前半を二度なぞった。三人称単数の sが抜けている。
「......この sは、入れる」
「ああ、入れるな」
俺は鉛筆で sを足した。
凛は満足そうに自分のノートに戻る。
「数学、こっちはどうなんだ」
「......教えて」
凛の数学のノートには、計算の途中式が几帳面に並んでいた。間違っている箇所だけ、答えが宙に浮いている。俺はノートを横に引いて、凛の式の一行上を指でなぞる。
「ここで因数分解、ひとつ抜けてるんだ」
「......どこ」
「ここ」
鉛筆を凛のノートに伸ばす。凛の手の横を通る。指先が一瞬だけ触れた。
凛が一拍止まる。
俺も止まる。けれどこれは数学だ。式は終わらせる方が早い。俺は計算の続きを書き足した。
凛がそれを見て、しばらく動かない。
何かを言うつもりで言わなかった顔。俺は計算の続きを書き足した。書き終えても、触れた箇所の体温が消えなかった。
「答え、ここで戻るな」
「......ありがと」
「短くなったな、最近」
「......藤宮の前だから」
「俺の前だと、短くなる理由は?」
「......説明、長くなる」
「説明が長くなる時点で、答えだろ」
「......」
凛が、ノートの端を指でなぞる。一往復してから、戻した。
何の流れだ、と思ったが、凛は鉛筆をもう書く方向に動かしている。
* * *
午後の光が、いつの間にか斜めに落ちていた。カーテンに沿って、影が一筋、机の端まで伸びている。
凛のペンが、一度止まる。しばらくして、また動いた。動き方が、さっきまでより少し遅い。ノートの右上に書かれた走り書きが、文字の最後を引きずっている。
凛が目を閉じる。一拍で開く。三拍でまた閉じた。
「寝るなら、机のへりに肘だぞ」
「......寝てない」
凛がペンを握り直す。書く。2行で止まる。
凛の顎が、わずかに机の方へ落ちた。
「秋月」
「......んん」
「寝るぞ、それ」
「......寝てない」
「目、閉じてるけどな」
「......思考してる」
凛のペンが、止まったまま動かない。
「思考してる人間はそんなに姿勢崩れないんだ」
「......崩れてない」
「崩れてるって」
「......」
寝ている。
凛の頬の側面が、教科書の角に触れた。痛そうな角度だ。俺は本を1冊、凛の手前に置き直す。教科書を抜いて、開いた本のページを下にして、表紙を上に。
凛の頬の下に、本の柔らかい部分が当たった。
凛は何も言わない。息の間隔が、さっきまでより伸びている。
俺は鉛筆を置いた。
凛の指先が、ノートの上に開いたままだ。鉛筆を握ろうとして握れなかった形で、止まっている。
普段、この距離で見る顔ではない。横顔で見ることはあるが、こんな至近距離は、ない。
無防備、と書くと安っぽい。安っぽいから、書きたくない。
胸の奥で、何かがずれた。
ずれた、と書いてそこそこ近い。これは何だ。
問いの形にしたら、答えが先に逃げた。
凛の前髪が、寝た拍子に頬の上にかかっていた。細い線が、目尻にかかる位置までずれている。眠りの邪魔になりそうな位置だ。
指で払う。
そのくらいのことだ、と思いながら手を動かした。
俺の指先が凛の前髪に触れる。
凛が目を開けた。
顔と顔の距離が、近い。
凛のダークブラウンの瞳が、俺の指先を一度見て、それから俺の目を見た。
一拍。
二拍。
三拍。
「......何してるの」
声が、起き抜けで掠れていた。
「いや」
「......」
「髪が」
「......」
「顔に」
「......」
「かかってたから」
凛の耳が、縁から先に向かって、ゆっくり赤くなっていく。
俺の指は、まだ凛の前髪の高さで止まっていた。
凛が一度、目を伏せる。
俺は手を引いた。
「......そう」
凛が体を起こす。背筋を伸ばす動作が、いつもより5センチくらいぎこちない。机の角に置かれた本を、凛が見る。俺が動かした、という察しが、凛の中で順番にできていく顔だ。
「......ありがと」
「いや」
「......ごめん。寝てた」
「ああ」
「......何分」
「30分くらい、かな」
「......そんなに」
凛が、目を伏せてノートに視線を逃がした。
「気持ちよく寝てたぞ」
「......言わなくていい」
「言うだろ、それは」
「......」
凛が髪を片手でまとめて、耳にかける。耳の赤さが、髪の下に隠れた。隠したぶん、首筋がうっすら赤い。
俺は目を逸らした。逸らした目が、結局そっちに戻った。
「......もう、書く」
「書け」
「......藤宮も、書いて」
「俺?何を」
「......何でもいい。書いてる人がいると、書きやすい」
「お前、それずるいぞ」
「......ずるくない」
俺は鉛筆を持ち直して、自分の本のページに線を引く真似をした。本物の線は引かない。引けばあとで消す手間が増える。
凛がノートに戻る。鉛筆を持つ。書こうとして、止まる。書く。止まる。凛のペンが、いつもより小さい文字を出力していた。
冷房の風が、ノートの端をめくった。俺は鉛筆を持ち直して、自分の本に戻ろうとした。戻ろうとして、戻れない。本の同じ行を、3回読んでいる。
外で蝉が鳴いた。鳴き止む気配はなかった。
凛の鉛筆の音が、ようやく一定のリズムに戻った頃、午後の光が窓の半分まで上がっている。凛が小さく息を吐いた。俺もたぶん同じことをした。
机の上、半分減ったプリンの容器がひとつ。
俺はそれをずっと見ていた。なんで見ていたのか、自分でもわからない。




