蒼太やるじゃない
夏休み7日目。
朝10時。
昨日の帰り道が、まだ部屋の空気の中にいる気がする。「また、来てもいい?」という凛の問いが耳の奥で鳴っていた。「いつでも」と答えたのは俺の方で、凛は背を向けたまま走っていった。
スマホが鳴る。
『......行ってもいい?』
一行。
補足なし。
昨日の文脈でこれが来たなら、「うちに来る」という意味になるはずだ。
『どこに?』
打ちかけて止まった。
なんで場所を確認する必要がある。わかってる。
バックスペースで消した。
『いつ来る』
『......今から』
『今すぐか』
『......どこかに用事あった?』
『ない』
『......じゃあ、いい?』
『いい』
スマホを置いて部屋を見渡す。
机の上に本が2冊、ベッドの端に洗濯物が畳まれたまま。窓際に飲みかけのコップがある。
普段の部屋だ。問題はない。問題はないが、見え方が急に変わった気がした。
洗濯物を棚にしまい、コップを流しに持っていく。本を机の端に揃える。鉛筆立てが斜めになっているのを直してから、やりすぎた気がして少し戻した。
インターホンが鳴った。
今からって、本当に今からだ。
* * *
玄関を開けると、凛が立っていた。
学校の教科書を胸の前に抱えている。片手にペンケース。
昨日より一段だけ、表情が平静に見えた。
「......来た」
「おう」
どちらからも続かない。俺は一歩引いた。
「上がれ」
凛が靴を脱ぐ。脱いだサンダルを揃えてから上がってくる。
その間、俺は廊下の奥を確認した。
咲良は午後から出かける予定のはずだ。午前中はいる。
廊下の奥から音がした。
「......あら」
遅かった。
咲良が廊下の端から出てきた。タオルを肩にかけた格好で、外出前の準備中らしい。
凛を見て一瞬動きを止め、にっこり笑う。
「綺麗な子。蒼太やるじゃない」
秋月凛の目の前で言った。
「母さん!!」
「うるさい。初対面の子の前でどなるもんじゃないわよ」
どなったのはそのセリフのせいだ。
凛は廊下に立ったまま、一拍止まっていた。少し背筋を正す。
「......初めまして。秋月凛です」
きちんと頭を下げる。
「まあ、丁寧ね」
咲良が笑ったまま言う。
「蒼太のごはん、美味しかったでしょ?」
凛が、わずかに間を置いた。
「......はい。とても」
「でしょ〜! 教えたのあたしだもん」
誇らしそうに言う。それからまた凛を見る。
「ゆっくりしていってね。蒼太に何かあったらあたしに言って」
「問題なんて起こさないから」
「ねー、学校でどんな感じの子なの? 蒼太、全然話してくれないのよ。友達の話」
「母さん」
「授業は? 何が得意?」
「母さん」
咲良が止まらない。
「休み時間は何してるの?」
「もういいだろ!仕事の準備しろよ!」
「時間あるって」
「ないはずだろ」
咲良が凛を見る。凛は廊下に立ったまま、咲良と俺のやり取りを静かに見ていた。困ってもなく焦ってもなく、どちらかというと少し楽しそうな顔だ。
「ゆっくりしていってね、凛ちゃん。あと蒼太ちゃんとお茶出しなさいよ」
「出すよ」
「凛ちゃんの前で横柄にしない」
「してないから」
「横柄に見える」
「見えない」
咲良が廊下の奥に引っ込む。
廊下に俺と凛だけが残る。
静かになった。
「......お母さん、明るい人」
「明るすぎるんだよ......」
凛の口の端が、わずかに動いた。
「......好き」
「好きって言うな、つけあがる」
「......つけあがらせていい」
「よくない」
* * *
先に部屋に向かうよう凛に伝えて、俺はキッチンでお茶を用意した。
麦茶をグラスに注ごうとした時、洗い物を片付けていた咲良が隣に立った。声を低くして言った。
「あの子、好きなんでしょ」
「......違うから」
さらっと言える。
「あっそ」
咲良は洗い物を続けた。
俺はお茶をトレイに乗せて、部屋に戻った。
* * *
部屋に入った凛は、ドアの前で一度止まった。
部屋全体をゆっくり見渡す。
机と本棚。ベッドと窓。
視線が一周して、本棚の前でわずかに止まった。
「......本が多い」
「まあ」
「......読むの?」
「読む」
「......藤宮が本読むイメージ、ない」
「あるよ」
「......知らなかった」
向かいのスペースを空けた。凛が鞄から教科書を出して机に並べる。
5冊。
国語と数学。英語に物理と生物。
「全部持ってきたのか」
「......念のため」
「宿題、どのくらい進んでる?」
「......ほとんど終わってる」
「ほとんど?」
凛が教科書の端を揃えてから、何も言わない。
「......自由研究が、ある」
「どのくらい進んでるんだ」
「......テーマが、決まっていない」
7日目で。
「夏休み7日目で?」
「......うるさい」
凛がペンを持ち直す。
「テーマ、何か興味あることでいい」
「......猫」
「猫で研究するのか」
「......猫の習性について」
「高校生の自由研究で猫の習性について」
「......だめ?」
「だめとは言い切れないが、もう少し何か」
「......猫の聴覚の周波数について」
俺は少し止まった。
「......お前、猫、かなり本気で好きなんだな」
「......そう」
「猫以外」
「......ない」
「環境問題とか」
「......普通すぎる」
「天文学」
「......興味ない」
俺はテーマのリストを、頭の中でもう一度繰った。
「地域の歴史を調べる系」
「......動きたくない」
「化学の実験」
「......器具がない」
凛の却下が、軽快に続いていく。
「食品の成分分析」
「......やばい人みたい」
「市販食品の成分分析は正当な研究分野だ」
「......でも、やばい人みたいな見た目になる」
「グラフで整理すれば、見栄えはする」
凛がこちらを見た。
「......それ、藤宮がやりたいだけじゃない?」
俺は一拍止まった。
「......否定はしない」
凛が小さくため息をつく。
それから凛は自由研究のノートを机の端から引き寄せる。
ページを開く。
鉛筆を持って止まった。考える顔をする。
「......聞いていい?」
「なんだ」
「......コンビニスイーツの成分分析、どうやってやるのか」
「さっきやばい人みたいって言ってたよな」
「......言ってた。でも、さっきより面白そうな気がしてきた」
「さっきより、ってなんだよ」
「......さっきより。藤宮がやりたそうだったから」
「俺の気持ちで選ぶのか、自由研究を」
「......いい?」
俺は本棚から去年使った食品科学の本を取り出して机の上に置く。
「コンビニで商品の選び方から説明するか」
「......コンビニのスイーツコーナー、全部覚えてる」
「なんでだ...」
「......気がついたら、覚えてた」
「研究者の素質があるな」
「......そういう言い方、しなくていい」
でも、凛が自由研究のノートのテーマ欄に鉛筆を走らせる。
丁寧な字で一行。
書いた内容は俺の位置からは読めない。読もうとしなかった。
それからしばらく、勉強が続く。
凛の鉛筆がノートの上を走る音。ページをめくる音。
冷房の低い音。窓の外の蝉。
俺も本に目を落とす。
向かいに凛がいる。お互いに何も言わない。
特に言わなくて、困らない。
30分ほどして、凛が顔を上げる。
「......今日、長くなりそう」
「宿題が?」
「......自由研究。やり始めたら、計画が増えた」
「何を計画した」
「......コンビニを3軒比較する。データを表にする。グラフにする。考察を書く」
「計画は、できてる」
「......実行がまだ」
「今日から始めれば間に合うだろ」
「......間に合うかな」
凛が鉛筆を置いてノートを少し見る。
計画欄がびっしり埋まっている。
「......コンビニ、行く時間ある?」
「今日か?」
「......午後」
「行けるよ」
「......連れていって」
「お前一人で行けるだろ」
「......迷子になるかもしれない」
俺は鉛筆の頭を一度、机に立てた。
「近所の道わかるか?」
「......わからない」
「こっち来て何ヶ月だ」
「......地図を見てもわからない人間がいる」
それは本当だ。昨日の3キロの誤差を俺は知っている。
「わかった、午後に行こう」
「......お願い」
凛がノートに戻る。
また鉛筆の音が戻ってくる。
蒼太やるじゃない、という咲良の声が耳に残っている。
あの声のトーンと、「あっそ」と言った時の顔。
違うと思った。確かに。
ただ、確かに、と付け加えた理由が、少しわからなかった。
向かいで凛が鉛筆を走らせている。
俺も本に目を落とす。
冷房の音。向かいの気配。
午後も凛はここにいる。




