赤い丸と3キロの誤差
リアルが少し立て込んでてしばらくの間週1投稿になります。
ペースは落ちますが気長に待っていただけると嬉しいです。
夏休み6日目。
昼過ぎの部屋。
冷房の風が、ゆっくり動いている。
今日は俺一人だ。母さんは昼勤で朝から出ている。ひなたは昨日、「明日は親戚が来るー」と言いながら帰った。桐生は昨夜から連絡がない。
何もない一日。
ベッドのそばに本が一冊、読みかけで置いてある。読もうとは思っている。ただ手を伸ばす気が、まだない。読みかけの本に手を伸ばす気力と、夏休み6日目の昼過ぎの怠さは、だいたい同じ重さだ。
蝉の声が、閉じたカーテンの向こうで続いている。カーテンの端から光がにじんでいる。外は相当明るい。中は薄暗い。昼寝するには半端な気だるさ。
スマホが鳴った。
画面には「秋月」と、あった。
『......今外にいる』
一行。
情報として、特に何もない。
「今外にいる」。それだけだ。
「外にいる」の「外」が具体的にどこを指しているか。なぜその情報が俺に送られてきたか。そこに補足はない。補足なしで送ってきたということは、説明の必要がないと思っているか、説明できない状態にあるか、のどちらかだ。
俺は返した。
『そうか』
『......買い物に来た』
『一人で?』
『......一人で』
「一人で買い物に来た秋月が、俺にLINEを送っている」。
それが「たまに」の範囲に収まるかどうかについての検討は、やめた。検討するほどのことでも、たぶんなかった。
『道はわかるか』
『......わかる』
わかると言われたら、次の言葉がない。
「気をつけて」と打ちかけて、止まった。
バックスペースで全部消した。
スマホを、一度ソファに置いた。
これは別にどうということもない話だ。何もない昼過ぎに、一人で買い物に出た秋月が、道がわかると言っている。それだけだ。帰れる。問題ない。
わかっている。それでもスマホをそのままにしておく気にならない。
拾い上げて、また持った。
30秒後に、また鳴った。
『......地図』
写真が添付されていた。
地図アプリのスクリーンショット。
画面の中央に赤い丸が、ひとつ。
左上の端に青い現在地マークが、ひとつ。
赤い丸のそばに「行き先」という細い文字が、ついていた。
縮尺のバーを見た。
3キロ。
赤い丸と現在地マークの間が、3キロ。
地図の画面を、しばらく見る。「行き先」と「現在地」の2点を、交互に。
『秋月』
『......なに』
『その赤い丸、現在地じゃない』
『......え』
『現在地は左上の青いマークだ』
『......なんで』
『俺に聞くな』
『......確認したのに』
『何を確認した』
『......赤い丸を目的地に設定した』
『だから目的地のマークだそれ』
『......』
スマホが着信で鳴った。
* * *
「......電話にした方が早いと思った」
「正解だ。今どこにいるか言え」
「......右に曲がったところ」
「状況から始まるな。近くに看板が読めるか」
「......大きな建物がある」
「何の建物だ」
「......白い」
「白いだけじゃわからない。文字を読め」
「......コインランドリー」
住宅街に入ったな、と思った。
「向こうに何か見えるか」
「......また建物がある」
「何の建物だ」
「......またコインランドリー」
「コインランドリーの多いエリアを、徘徊しているな」
「......なんで」
「なんでじゃない。自動販売機はあるか」
「......ある。赤いやつ」
頭の中で街区が組み上がってきた。
「単独か、並んでいるか」
「......単独」
「郵便ポストが近くにあるか」
「......ある」
待って、と俺は言った。
右手でスマホを持ったまま、左手の指先で頭の端を叩いた。赤い自動販売機、単独。コインランドリー、2軒。郵便ポストが近い。
わかった。
「動くな。今から行く」
「......え」
「動くな」
電話を切る。スマホをポケットに突っ込んで、玄関へ向かった。サンダルを引っかけて、外に出た。
* * *
外に出た瞬間、夏の昼間の熱気が全方位から来た。
アスファルト、直射日光。塀の白い反射。
肌が一瞬で乾く、あの感じ。
自転車を出してペダルを踏む。漕ぎ始めてからTシャツ一枚で来たことに気がついた。これで正解だ。もう一枚あったら、角を曲がる前に終わっていた。
住宅街の細い道を走る。
並木があるところは蝉がうるさく、日陰で体の温度が一度下がる。また日向に出ると戻る。角を曲がるたびに、蝉の音量が切り替わった。日陰を選んで進んだ。
頭の中で電話の情報を地図に変換しながら走った。赤い自動販売機が単独で、コインランドリーが2軒。このエリアなら、あの路地だ。
10分弱で、それらしい路地に入った。
道の奥に人影がある。
黒い長い髪。後ろ姿。右手から棒のようなものが、だらりとはみ出ていた。
もう少し近づく。後ろ姿で、この距離でもすぐにわかった。
秋月が、こっちを向く。
手に持ったものを体の後ろに素早く隠す。
表情を元に戻した。
一拍遅かった。
自転車を止めると、秋月が言った。
「......散歩してただけ」
最初の「買い物に来た」は、いつの間にか「散歩」になっていた。
「なんか後ろに持ってるだろ」
「......持ってない」
「見えてるぞ」
「......持ってない」
秋月の手の後ろに棒が一本、突き出ていた。
棒の先のアイスは7割方溶けている。溶けた分が秋月の手の甲を少し流れていた。
「迷子の途中でアイス買ったのか」
「......なんか、歩いてたら」
「歩いてたら?」
「......売ってた」
「売ってたから買ったのか」
「......美味しかった」
美味しかった、と言った。過去形だった。
手に持ったままなのに、過去形だった。
「溶けてるけどな」
「......だいぶ歩いてたから」
俺は自転車を秋月の横に押した。
「乗れ」
「......後ろ?」
「他にどこがある」
「......一人で帰れる」
「どっちに?」
「......」
東か西か、答えが出ない3秒だった。
「乗れ」
もう一回だけ言った。
秋月は何も言わずに、後ろのシートに乗った。
溶けかけのアイスの棒を、左手に持ったまま。
ペダルを踏んだ。
走り始めてすぐ、背中の低いところで引っ張りがあった。
シャツの裾を、何かがつまんでいた。
「......掴んでない」
「いや掴んでるだろ」
「......落ちたくないだけ」
「落ちないためにつかむのを、掴んでないとは言わない」
「......細かい」
「事実だ」
「......黙って漕いで」
漕ぐ。
走る風が、秋月の髪を引く。
シャツの裾を掴む手は、離れなかった。
路地を抜けると蝉の声が変わる。木の陰が途切れ、日差しが背中から来た。秋月の体温が、シャツ一枚越しにある。
また細い道に入った。
並木の日陰に入るたびに、後ろで小さな揺れがあった。
信号で止まった。
蝉の声と遠くの車の音と、室外機の低い唸りだけが、あった。
シャツの裾を掴む手が、わずかに位置を変えた。
「......夏休み、意外と退屈」
小さく秋月が言った。
前を向いたまま言ったので、俺への言葉なのか、ひとりごとなのか。一拍おいた。
「ひとりで買い物に出て、3キロ迷子になっても、か」
「......それは別の話」
信号が青になった。
ペダルを踏みながら、俺は言った。
「暇なら、うちに来いよ」
返事がしばらく、なかった。
シャツの裾を掴む手に、少し力が入った。
角を1本曲がって、また1本。見覚えのある並木、見覚えのある路地。秋月が毎日歩いているはずの道を、俺は逆方向から来ていた。
秋月の家の近く。
秋月が後ろから降りた。
溶けかけのアイスの棒を、困った顔で持ったまま立っていた。棒の先には、もう何もなかった。
「......また、来てもいい?」
「また」がついていた。
初めて来るのに。
来る前から、来ていい相手になっている。
俺は自転車にまたがったまま、正面を向いたまま、答えた。
「いつでも」
秋月は何も言わない。
くるっと背を向けて歩く。
10歩ほど歩いてから、立ち止まった。
「......ありがとう」
振り返らずに言って、走っていった。
路地の角を曲がって、姿が消えた。
俺は秋月が走っていった路地を、しばらく見ていた。
秋月の声が、頭の中で鳴った。「また、来てもいい?」という問いが、まだそこにあった。
日差しが強かった。




