夏休み初日
夏休み、初日。
朝7時に起きた。
目覚ましを止めてから、平日と同じペースで、キッチンに降りた。母さんが夜勤明けで帰ってくるのは9時くらいの予定だった。
台所で、弁当を作った。
母さんの分だ。病院に昼勤で行く日は、母さんの昼飯になる。明日は昼勤だ。
卵焼きを作りながら、砂糖の分量で、一瞬、手が止まった。
砂糖の計量スプーン、大さじ一杯。
これは、秋月が取るようになってから、少しずつ増やした分の、現在位置だった。
昨日、ひなたの「前よりも甘い気がする」を浴びた後、この計量スプーンを、どうするのか、決めていなかった。
決めなかったまま、大さじ一杯を、いつも通り、卵に入れた。
焼き上がった卵焼きを、いつも通りの4切れに切り分けた。
母さんの弁当なので、一人分だ。4切れで、多いくらいだった。
多いのに、4切れにした。
多いな、と自分に言ってから、「......多いな」を、そこで、考えないことにした。
* * *
朝9時過ぎに、母さんが帰ってきた。
「ただいまー、死ぬほど眠い」と玄関で呟いて、そのまま寝室に直行していった。
10時前に、インターホンが鳴った。
鳴らし方が、平日の桐生と、ほぼ、同じ、連打系だった。でも、今日、桐生ではない。
ひなただった。
サンダル、半袖ワンピ、水筒、手に団扇。初日装備、完成していた。
「そうくーん、暇でしょ!」
「俺の忙しさを問い合わせなしで断定するな」
「暇でしょ!?」
「暇だ」
「ひなたも暇!」
「お互いの暇の同期が取れたな」
ひなたはリビングに入って、冷房のリモコンを勝手に操作した。設定温度を1度下げた。温度設定の主導権までが、ひなたの領分になりつつあった。
二人で、テレビを見た。
午前中のワイドショーは、芸能人の熱中症対策と、どこかの海水浴場が大混雑、という話題で、回っていた。
冷凍庫から、あいすあいすと騒ぐひなたに、ガリガリ君を2本出した。1本を俺の分として握ったら、ひなたが「そうくんは白いやつの方が好きでしょ!」と奪い返して、代わりに別の箱のバニラ味を、俺に、押し付けた。
幼馴染の情報は、時々、こちらの希望を先回りする。
希望、かどうかは、別として、今日はバニラにしたいと思っていた、と思う程度には、ひなたの勘は、当たっていた。
* * *
午後は、洗濯機を2回回した。母さんのスクラブ(病院の制服)と、自分の体操着と、ひなたが寝そべっていたソファのクッションカバーまで、一気に。
15時前、ソファでうたた寝しそうになった頃、ポケットのスマホが、短く、震えた。
LINE。
通知の上に、「秋月」と、表示されていた。
『......暑い』
一言だった。
他に、何も、なかった。
夏休み、初日、15時、「......暑い」。
秋月の「たまに」は、早速、たぶん、初日に、抜かれた。
俺は、指で、短く、打った。
『うん、暑いな』
送信から、5秒で、既読がついた。
既読から、3秒で、返信が来た。
『......猫がいた』
写真が、添付されていた。
縁石の上に、灰色の、小さめの野良猫が一匹、寝そべっている写真だった。写真の撮影角度がやや下からで、秋月が、しゃがんで撮ったことが、すぐ、わかった。
俺は、返信した。
『かわいいな』
すぐに、返信が、来た。
『......触れなかった』
俺は、ガリガリ君の棒を、口から、抜いた。
一瞬の沈黙のあと、吹き出した。
家に一人だった(ひなたはソファで完全に寝ていた)から、堂々と、笑えた。
「......触れなかった」。
情報量が、少ないのに、一番、情報量の多い一文だった。
しゃがみ込んで、手を伸ばして、猫が逃げる前に指が届かなかった秋月の光景が、文字数の少なさから、逆に、はっきり、見えた。
『それはさみしいな』
『......うん』
『次回リベンジだな』
『......リベンジ、する』
『言葉だけでも気合入ってて草』
『......草、じゃない』
秋月の「草、じゃない」だけが、妙に、律儀、だった。
LINE、閉じた。
閉じた瞬間に、もう一回、短く、震えた。
『......別に、報告するほどのことじゃない、と思ったけど、撮ったから送った』
秋月の今日一番の長文だった。長文と言っても、3行分だった。
読み終わったあと、俺は、しばらく、天井を、見上げた。
「たまに」が、早速、抜かれていた。
抜かれている自覚のある秋月が、自分で保険の文を、あとから、送ってきていた。
俺は、返信した。
『送っていい。たまには』
『......たまには』
『たまには、な』
『......うん』
返信の「......うん」の4文字のあとに、既読のつかない静けさが、しばらく、続いた。
続いた静けさは、たぶん、秋月が、自分の部屋の、机の上で、スマホを置いて、何か別のことをしているふりをしている、静けさだった。
* * *
夜、母さんが起きてきた。
寝室から出てきたばかりの母さんは、パジャマ姿で、水をマグカップに注ぎながら、リビングのソファに沈んだ。ひなたはもう家に帰っていた。
俺はキッチンで夕食の残り物を温め直していた。
母さんが、マグカップ越しに、俺を見て、言った。
「最近、よく笑うようになったね」
「そうか?」
「うん。前は笑ってる時でも、ちょっと、薄かった」
「母さんの比喩、解像度低くない?」
「けど、合ってるでしょ」
「......」
母さんは、マグカップのふちで、一度、自分の唇を、湿らせた。
そして、ごく、軽く、次の一言を、発射した。
「......女の子?」
看護師の、夜勤明けの、水分補給のついでの、質問、だった。
鋭さは、発射角度に、関係なく、頭のど真ん中を、通過した。
俺はレンジの中で温まっている豚の生姜焼きの角度を、少し、直した。
直しながら、答えた。
「......ただの友達だよ」
できるだけ、軽く、言った。
照れなかった。
照れる前に、自分で、結論を、置いた、という、スピードだった。
母さんは、マグカップをもう一口飲んで、短く、笑った。
「はい」
「なんだよ、その『はい』」
「はい、は、はい」
「情報量ゼロだな」
「ママの『はい』は、息子の『ただの』を、そのまま、受理しましたっていう意味」
「受理だけで実質不起訴じゃないか今の」
「不起訴ではない」
母さんはそれ以上、何も言わなかった。
何も言わない代わりに、マグカップを両手で包みながら、ちょっと、楽しそうな顔をしていた。
看護師の勘は、夜勤明けでも、鈍らないらしかった。
俺は生姜焼きを皿に移して、話題を、ご飯の上に、乗せて、終わらせた。
終わらせてから、ポケットの中のスマホを、一度、軽く、叩いた。
秋月の「......うん」の、既読のつかない静けさは、まだ、そこに、あった。
そこに、あることだけを、確認して、俺は、夕飯を、食べ始めた。




