通知表と約束
7月下旬。
終業式の朝は、晴れていた。
体育館での式は30分で終わり、教室に戻ると、担任の花園先生が通知表の封筒を抱えて入ってきた。窓の外では、蝉が、遠慮のない音量で、夏を宣言していた。
「はい、一人ずつ呼ぶから、取りに来てね」
花園先生は出席番号順に名前を呼び始めた。
教室の空気は、緊張半分、夏休み突入への浮かれ半分、という混合比だった。後ろの方で桐生が「頼むぞ、赤点以外なら何でもいい」と小声で祈っていた。祈りの目的がすでに低い。
秋月の名前が呼ばれた。
前に出て、封筒を受け取って、席に戻ってきた。自分の席に戻って、封筒を机の上に置いた。開けなかった。開けなくても、秋月は、たぶん、結果を、ほぼ、把握していた。
俺の名前も、その3人後に呼ばれた。
自分の封筒を机に置いた。こっちは把握していなかった。こっちこそ開けるべきだった。
中を開いた。
5教科の数字と、学年順位が、目に入った。
学年45位。
中間の50位から、5つ、上がっていた。
数学の点数が、65点。中間の58点から7点、上がっていた。
秋月は、隣の席で、静かに自分の封筒を開いていた。
俺は自分の紙の上から、視線を、右にスライドさせた。
覗き見る気はなかった。なかったが、秋月の封筒の中の紙の、学年順位の欄だけが、俺の視界の端に、勝手に、入ってきた。
学年2位。
桁が違う、という言い方があるが、桁そのものは、一桁差だった。数字の差以上に、生き方の差が、一桁違った。
「......」
秋月の視線が、自分の紙から、俺の紙の方に、少しだけ動いた。
動いた視線は、5教科の合計の一番下の行、「学年順位」のあたりで、止まった。
「......前回より」
「ん?」
「......上がった」
「5つな」
「......」
「中間からだと、5つ」
「......うん」
秋月は、それ以上何も言わずに、紙をまた封筒に戻した。
戻す時の指の動きが、わずかに、ゆっくりだった。安心した時の秋月の、指の動きの速度だった。
「......数学、上がった」
「ああ」
「......7点」
「よく見てるな」
「......見えた」
「俺の紙、覗いたろ」
「......」
「覗いたな」
「......視界に、入ってきた」
「被害者ヅラするな」
秋月は反論せずに、封筒を鞄の中に戻した。反論しない時の秋月は、たぶん、指摘されたことを、否定する気のない秋月だった。
「数学は、秋月のおかげだな」
俺が、できるだけ軽く、そう言った。
軽く言ったつもりだったが、秋月の視線は、窓の外の蝉の方に、ひゅっと、逃げた。
「......別に」
「別にじゃないだろ」
「......自分で、解いた」
「解法、全部、お前が教えたやつだけどな」
「......それは、前提」
「前提の話を入れると、秋月のおかげ、は成立するぞ」
「......」
秋月はそれ以上答えなかった。答えない代わりに、封筒をしまった鞄の取手を、少しだけ、強く握っていた。握った力の分、たぶん、秋月の中では、「教えたのが役に立ってよかった」という気持ちが、ちゃんと、溜まっていた。溜まっていることを、俺は、本人より先に、察する程度には、見慣れていた。
* * *
通知表の回収が一通り終わり、花園先生が「はい、夏休み前の最後のホームルーム」と手を叩いた。規則や課題の連絡が短く告げられ、教室はあとは自由解散に近い状態になった。
つぐみが俺たちの席の前に、椅子を逆向きにして座った。
「ねえねえ、提案」
「また提案か」
「また提案」
「前回の提案の精度を覚えてるか」
「勉強会、成功したじゃん」
「物理的には」
「夏休み、みんなで海、行こうよ!」
つぐみが両手を広げた。
桐生がすぐに反応した。
「賛成! 海! 海だろ、夏は!」
「すぐ賛成するな、お前」
「即答が俺の誠意」
「誠意の定義を訂正しろ」
つぐみは俺たちの掛け合いを無視して、秋月の方を見た。
「凛は?」
「......海?」
「海。海水浴」
「......」
秋月の反応が、一拍、遅れた。
返事を考えているというより、頭の中で「海」という単語を、いつもとは別の棚から取り出そうとしている、という遅れ方だった。
「秋月、行ったことないのか? 海」
「......ある」
「あるのか」
「......小さい頃に、家族で」
「じゃあ普通に行くだろ」
「......」
秋月の視線が、机の木目の節の方に、落ちた。
そして、机の木目に向かって、短く、答えた。
「......友達と行ったことは、ない」
教室の音が、一拍だけ、薄くなった気がした。
気のせい、かもしれない。
秋月はそれ以上、何も説明しなかった。
説明しなくても、秋月が小学校を3回、中学校を2回転校していることは、前に本人から聞いていた。転校するたびに、友達は、誰かを「置いてくる」側になる。置いていった友達と、夏休みに海に行くのは、難しい。それが、5回、繰り返された人生の、たぶん、ちょっとした、一滴だった。
教室の音が戻ってきた時に、俺は、できるだけ、普通の声で、言った。
「じゃあ、行こう」
即答だった。
考えずに、言った。
考えなくても、答えが、ちゃんと、出ていた。
「......」
「海。今年の夏」
「......」
「行こう」
秋月は、机の木目から、視線を上げた。
上げたが、俺の顔の、少しだけ横の、窓枠の方を見ていた。真正面からは、見られない感じだった。
返事はなかった。
返事はなかったが、首を、少しだけ、下に、動かした。
首を振ったわけでも、頷いたわけでもなかった。
でも、断ってはいなかった。
「ひなたも行く!」
教室のドアから、叫び声がした。
いつの間にか隣のクラスから流れてきたひなたが、勝手に参加表明を終えていた。
「聞き耳立ててたな、お前」
「通りすがりー!」
「通りすがりが海の計画を正確に拾い上げるな」
「ひなたも行く! 絶対行く!」
ひなたが両手を挙げて、教室の中に入ってきた。つぐみが笑って、桐生がガッツポーズをした。教室の空気が、一気に、浮かれた方向に、振り切れた。
振り切れた空気の中で、秋月は、何も言わずに、鞄のジッパーを閉めていた。
閉めた指の動きは、通知表を鞄にしまった時と、同じ、ゆっくりだった。
目の端で、秋月の口角が、ほんのわずかに、下には、動いていなかった。
下に動いていない、ということだけが、読み取れた。
読み取れたものを、そのまま、俺は、胸の奥に、しまった。
ひなたとつぐみが「水着どうするー?」「あたし新調する」と、もう買い物の話を始めていた。
夏が、本格的に、始まろうとしていた。
秋月の「友達と行ったことは、ない」の一行を、夏の始まりに、そっと、持ち込んでいくのは、たぶん、俺の担当になる。そういう気が、した。




