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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
雨のにおい

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42/44

通知表と約束

 7月下旬。

 終業式の朝は、晴れていた。

 体育館での式は30分で終わり、教室に戻ると、担任の花園(はなぞの)先生が通知表の封筒を抱えて入ってきた。窓の外では、蝉が、遠慮のない音量で、夏を宣言していた。


「はい、一人ずつ呼ぶから、取りに来てね」


 花園先生は出席番号順に名前を呼び始めた。

 教室の空気は、緊張半分、夏休み突入への浮かれ半分、という混合比だった。後ろの方で桐生(きりゅう)が「頼むぞ、赤点以外なら何でもいい」と小声で祈っていた。祈りの目的がすでに低い。

 秋月(あきづき)の名前が呼ばれた。

 前に出て、封筒を受け取って、席に戻ってきた。自分の席に戻って、封筒を机の上に置いた。開けなかった。開けなくても、秋月(あきづき)は、たぶん、結果を、ほぼ、把握していた。

 俺の名前も、その3人後に呼ばれた。

 自分の封筒を机に置いた。こっちは把握していなかった。こっちこそ開けるべきだった。

 中を開いた。

 5教科の数字と、学年順位が、目に入った。


 学年45位。

 中間の50位から、5つ、上がっていた。

 数学の点数が、65点。中間の58点から7点、上がっていた。


 秋月(あきづき)は、隣の席で、静かに自分の封筒を開いていた。

 俺は自分の紙の上から、視線を、右にスライドさせた。

 覗き見る気はなかった。なかったが、秋月(あきづき)の封筒の中の紙の、学年順位の欄だけが、俺の視界の端に、勝手に、入ってきた。


 学年2位。


 桁が違う、という言い方があるが、桁そのものは、一桁差だった。数字の差以上に、生き方の差が、一桁違った。


「......」


 秋月(あきづき)の視線が、自分の紙から、俺の紙の方に、少しだけ動いた。

 動いた視線は、5教科の合計の一番下の行、「学年順位」のあたりで、止まった。


「......前回より」

「ん?」

「......上がった」

「5つな」

「......」

「中間からだと、5つ」

「......うん」


 秋月(あきづき)は、それ以上何も言わずに、紙をまた封筒に戻した。

 戻す時の指の動きが、わずかに、ゆっくりだった。安心した時の秋月(あきづき)の、指の動きの速度だった。


「......数学、上がった」

「ああ」

「......7点」

「よく見てるな」

「......見えた」

「俺の紙、覗いたろ」

「......」

「覗いたな」

「......視界に、入ってきた」

「被害者ヅラするな」


 秋月(あきづき)は反論せずに、封筒を鞄の中に戻した。反論しない時の秋月(あきづき)は、たぶん、指摘されたことを、否定する気のない秋月(あきづき)だった。


「数学は、秋月のおかげだな」


 俺が、できるだけ軽く、そう言った。

 軽く言ったつもりだったが、秋月(あきづき)の視線は、窓の外の蝉の方に、ひゅっと、逃げた。


「......別に」

「別にじゃないだろ」

「......自分で、解いた」

「解法、全部、お前が教えたやつだけどな」

「......それは、前提」

「前提の話を入れると、秋月のおかげ、は成立するぞ」

「......」


 秋月(あきづき)はそれ以上答えなかった。答えない代わりに、封筒をしまった鞄の取手を、少しだけ、強く握っていた。握った力の分、たぶん、秋月(あきづき)の中では、「教えたのが役に立ってよかった」という気持ちが、ちゃんと、溜まっていた。溜まっていることを、俺は、本人より先に、察する程度には、見慣れていた。


 * * *


 通知表の回収が一通り終わり、花園先生が「はい、夏休み前の最後のホームルーム」と手を叩いた。規則や課題の連絡が短く告げられ、教室はあとは自由解散に近い状態になった。

 つぐみが俺たちの席の前に、椅子を逆向きにして座った。


「ねえねえ、提案」

「また提案か」

「また提案」

「前回の提案の精度を覚えてるか」

「勉強会、成功したじゃん」

「物理的には」

「夏休み、みんなで海、行こうよ!」


 つぐみが両手を広げた。

 桐生(きりゅう)がすぐに反応した。


「賛成! 海! 海だろ、夏は!」

「すぐ賛成するな、お前」

「即答が俺の誠意」

「誠意の定義を訂正しろ」


 つぐみは俺たちの掛け合いを無視して、秋月(あきづき)の方を見た。


「凛は?」

「......海?」

「海。海水浴」

「......」


 秋月(あきづき)の反応が、一拍、遅れた。

 返事を考えているというより、頭の中で「海」という単語を、いつもとは別の棚から取り出そうとしている、という遅れ方だった。


「秋月、行ったことないのか? 海」

「......ある」

「あるのか」

「......小さい頃に、家族で」

「じゃあ普通に行くだろ」

「......」


 秋月(あきづき)の視線が、机の木目の節の方に、落ちた。

 そして、机の木目に向かって、短く、答えた。


「......友達と行ったことは、ない」


 教室の音が、一拍だけ、薄くなった気がした。

 気のせい、かもしれない。

 秋月(あきづき)はそれ以上、何も説明しなかった。

 説明しなくても、秋月(あきづき)が小学校を3回、中学校を2回転校していることは、前に本人から聞いていた。転校するたびに、友達は、誰かを「置いてくる」側になる。置いていった友達と、夏休みに海に行くのは、難しい。それが、5回、繰り返された人生の、たぶん、ちょっとした、一滴だった。

 教室の音が戻ってきた時に、俺は、できるだけ、普通の声で、言った。


「じゃあ、行こう」


 即答だった。

 考えずに、言った。

 考えなくても、答えが、ちゃんと、出ていた。


「......」

「海。今年の夏」

「......」

「行こう」


 秋月(あきづき)は、机の木目から、視線を上げた。

 上げたが、俺の顔の、少しだけ横の、窓枠の方を見ていた。真正面からは、見られない感じだった。

 返事はなかった。

 返事はなかったが、首を、少しだけ、下に、動かした。

 首を振ったわけでも、頷いたわけでもなかった。

 でも、断ってはいなかった。


「ひなたも行く!」


 教室のドアから、叫び声がした。

 いつの間にか隣のクラスから流れてきたひなたが、勝手に参加表明を終えていた。


「聞き耳立ててたな、お前」

「通りすがりー!」

「通りすがりが海の計画を正確に拾い上げるな」

「ひなたも行く! 絶対行く!」


 ひなたが両手を挙げて、教室の中に入ってきた。つぐみが笑って、桐生(きりゅう)がガッツポーズをした。教室の空気が、一気に、浮かれた方向に、振り切れた。

 振り切れた空気の中で、秋月(あきづき)は、何も言わずに、鞄のジッパーを閉めていた。

 閉めた指の動きは、通知表を鞄にしまった時と、同じ、ゆっくりだった。

 目の端で、秋月(あきづき)の口角が、ほんのわずかに、下には、動いていなかった。

 下に動いていない、ということだけが、読み取れた。

 読み取れたものを、そのまま、俺は、胸の奥に、しまった。

 ひなたとつぐみが「水着どうするー?」「あたし新調する」と、もう買い物の話を始めていた。

 夏が、本格的に、始まろうとしていた。

 秋月(あきづき)の「友達と行ったことは、ない」の一行を、夏の始まりに、そっと、持ち込んでいくのは、たぶん、俺の担当になる。そういう気が、した。

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