また来いよ
時計の針が、9時20分を指していた。
ひなたとつぐみと桐生が玄関を出ていってから、もう、20分以上が経っていた。
リビングには、俺と、秋月だけが残っていた。
秋月は、座卓の上を、まだ、片付けていた。
もう、ほとんど、片付けるものは、残っていなかった。
残っていないのに、秋月は、座卓の表面を布巾で軽く拭いていた。一度拭いて、もう一度、同じ場所を、拭き直していた。布巾の動きは、丁寧で、遅かった。
「秋月」
「......」
「もういいぞ」
「......」
「片付け、ほぼ終わってるだろ」
「......もう少しだけ」
「もう少しだけ、何が残ってる?」
「......端の、ペンの跡」
秋月は、座卓の角の、3ミリくらいの薄い線を、布巾で擦った。
その3ミリは、たぶん、母さんが半年前に油性ペンで書いたメモ書きの、消し損ねた一部だった。布巾でこする程度では落ちない。落ちないことを秋月は、たぶん、知っていた。知っていて、まだ、こすっていた。
布巾を持つ手の動きが、いつもよりゆっくりだった。
帰り際の人間の動きとして、明らかに、遅かった。
俺はそれ以上、急かさなかった。
急かさないのが、たぶん、今、俺にできる、いちばん近い、優しさ、というやつだった。
* * *
布巾を、秋月が、丁寧に折りたたんで、シンクの脇のフックにかけた。
今度こそ、片付けるものが、なくなった。
秋月は、自分の鞄を、肩にかけた。
肩にかけてから、2秒、その場で、立ち止まった。
立ち止まる必要はなかった。
ないのに、止まっていた。
俺は何も言わずに、玄関の方に歩き出した。秋月は、半歩遅れて、ついてきた。
玄関で、秋月は、靴を履いた。
履きながら、また、靴の位置を、1センチだけ、右に寄せた。
なんで右なんだ、と少しだけ思った。秋月の中には、たぶん、靴の位置の正解の座標が、頭の中に、ぴったり、決まっているのだろう。
「秋月」
「......」
「送ろうか。暗いし」
「......」
「9時半過ぎてるぞ」
「......一人で、帰れる」
「お前の方向感覚、夜道、心配だ」
「......GPS、見るから」
「GPS信じてるのか、お前」
「......使い方は、覚えた」
「使い方覚えてもお前のGPS赤い丸、現在地から3キロずれてた前科がある」
「......前科、と言うほどでは」
「言うほどだ」
「......」
秋月は、答えに詰まって、靴紐を、もう一度、結び直した。
元から結ばれていた靴紐だった。一度ほどいて、結び直す動作は、純粋に、時間稼ぎだった。
時間を稼ぎたい、という気持ちが、靴紐の動きから、何となく、伝わってきた。
* * *
玄関の扉の前で、向かい合った。
秋月の方が、半歩、低い位置にいた。三和土の段差の分だった。
俺は、ドアノブに、半分だけ、手をかけた。開ける気配を、少しだけ作った。
でも、開けなかった。
「秋月」
「......なに」
「また来いよ。勉強会」
秋月の手が、自分の鞄の取手の上で、止まった。
1秒、止まった。
2秒、止まった。
3秒、止まった。
たぶん、止まりすぎていた。
即答する気持ちと、即答してはいけない自分のキャラ設定みたいな防衛反応とが、どこかで、せめぎ合っているのが、見ていてわかった。
「......考えておく」
秋月は、3秒分の沈黙の後、そう言った。
考えなくても答えが「行く」になる即答を、たぶん、3秒で、わざわざ「考えておく」に変換していた。変換のコストが、声の少しの揺れに、漏れ出ていた。
俺は何も指摘しなかった。
指摘しなくても、伝わっている方が、たぶん、お互い、楽だった。
「考えとけ」
「......考える」
「考える、考えておく、どっちでもいい」
「......考えておく」
秋月は同じ語尾を選んだ。
たぶん、二回目の方が、本人としては、ちゃんと、確定したかったのだと思う。
俺はドアノブを、最後まで、押した。
扉が、ゆっくり、開いた。
* * *
夜の空気が、開いた扉から、すっと、入ってきた。
昼の熱気が薄く残った、湿った空気だった。
秋月は、玄関を出た。
外の通路は、廊下灯がオレンジに光っていた。
歩き始めた。
数歩、進んだ。
2歩、3歩、4歩。
4歩目の手前で、秋月は、立ち止まった。
今度は、こちらを、振り返った。
通路灯の光の下で、秋月の輪郭だけが、薄くオレンジになった。
目は、合わなかった。
目は、合わせない、まま、口だけが、動いた。
「......おやすみなさい」
いつもの「......じゃあ」では、なかった。
いつもの「......また」でも、なかった。
一段、柔らかい、別れの言葉だった。
秋月はそれだけ言って、もう振り返らずに、通路を歩いていった。
オレンジの光の下で、髪の毛先が、少しだけ揺れた。
角を曲がって、見えなくなった。
俺は、扉の枠に、片手をかけたまま、しばらく、立っていた。
* * *
扉を閉めた。
鍵をかけた。
チェーンをかけた。
いつもの動作だった。
いつもの動作なのに、3つとも、いつもより少しだけ、遅かった。
俺は玄関に立ったまま、上を向いた。
天井の、白い壁紙の継ぎ目が、目に入った。
継ぎ目は、まっすぐ、天井を、横切っていた。
まっすぐで、何の感情もなくて、ただの天井だった。
ただの天井を、しばらく、見ていた。
胸のあたりが、何かが、落ち着かなかった。
落ち着かない理由は、勉強会で5人分の片付けをした疲れだ、と、自分に、言い聞かせた。
言い聞かせたが、疲れは、たぶん、シンクの前で、皿を渡す時の、あの一瞬の沈黙とは、別の場所に、溜まっていた。
胸のざわつきは、疲れと、別の場所に、あった。
俺は、玄関の壁にもたれて、もう一度、天井を見た。
白い継ぎ目が、相変わらず、まっすぐだった。
その下で、俺だけが、まっすぐじゃ、なかった。
......おやすみなさい、という、秋月の声が、まだ、耳の奥のあたりに、ぼんやり、残っていた。
そっちの方の処分の仕方を、俺は、まだ、知らなかった。




