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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
雨のにおい

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41/42

また来いよ

 時計の針が、9時20分を指していた。

 ひなたとつぐみと桐生(きりゅう)が玄関を出ていってから、もう、20分以上が経っていた。

 リビングには、俺と、秋月(あきづき)だけが残っていた。

 秋月(あきづき)は、座卓の上を、まだ、片付けていた。

 もう、ほとんど、片付けるものは、残っていなかった。

 残っていないのに、秋月(あきづき)は、座卓の表面を布巾で軽く拭いていた。一度拭いて、もう一度、同じ場所を、拭き直していた。布巾の動きは、丁寧で、遅かった。


「秋月」

「......」

「もういいぞ」

「......」

「片付け、ほぼ終わってるだろ」

「......もう少しだけ」

「もう少しだけ、何が残ってる?」

「......端の、ペンの跡」


 秋月(あきづき)は、座卓の角の、3ミリくらいの薄い線を、布巾で擦った。

 その3ミリは、たぶん、母さんが半年前に油性ペンで書いたメモ書きの、消し損ねた一部だった。布巾でこする程度では落ちない。落ちないことを秋月(あきづき)は、たぶん、知っていた。知っていて、まだ、こすっていた。

 布巾を持つ手の動きが、いつもよりゆっくりだった。

 帰り際の人間の動きとして、明らかに、遅かった。

 俺はそれ以上、急かさなかった。

 急かさないのが、たぶん、今、俺にできる、いちばん近い、優しさ、というやつだった。


 * * *


 布巾を、秋月(あきづき)が、丁寧に折りたたんで、シンクの脇のフックにかけた。

 今度こそ、片付けるものが、なくなった。

 秋月(あきづき)は、自分の鞄を、肩にかけた。

 肩にかけてから、2秒、その場で、立ち止まった。

 立ち止まる必要はなかった。

 ないのに、止まっていた。

 俺は何も言わずに、玄関の方に歩き出した。秋月(あきづき)は、半歩遅れて、ついてきた。

 玄関で、秋月(あきづき)は、靴を履いた。

 履きながら、また、靴の位置を、1センチだけ、右に寄せた。

 なんで右なんだ、と少しだけ思った。秋月(あきづき)の中には、たぶん、靴の位置の正解の座標が、頭の中に、ぴったり、決まっているのだろう。


「秋月」

「......」

「送ろうか。暗いし」

「......」

「9時半過ぎてるぞ」

「......一人で、帰れる」

「お前の方向感覚、夜道、心配だ」

「......GPS、見るから」

「GPS信じてるのか、お前」

「......使い方は、覚えた」

「使い方覚えてもお前のGPS赤い丸、現在地から3キロずれてた前科がある」

「......前科、と言うほどでは」

「言うほどだ」

「......」


 秋月(あきづき)は、答えに詰まって、靴紐を、もう一度、結び直した。

 元から結ばれていた靴紐だった。一度ほどいて、結び直す動作は、純粋に、時間稼ぎだった。

 時間を稼ぎたい、という気持ちが、靴紐の動きから、何となく、伝わってきた。


 * * *


 玄関の扉の前で、向かい合った。

 秋月(あきづき)の方が、半歩、低い位置にいた。三和土の段差の分だった。

 俺は、ドアノブに、半分だけ、手をかけた。開ける気配を、少しだけ作った。

 でも、開けなかった。


「秋月」

「......なに」

「また来いよ。勉強会」


 秋月(あきづき)の手が、自分の鞄の取手の上で、止まった。

 1秒、止まった。

 2秒、止まった。

 3秒、止まった。

 たぶん、止まりすぎていた。

 即答する気持ちと、即答してはいけない自分のキャラ設定みたいな防衛反応とが、どこかで、せめぎ合っているのが、見ていてわかった。


「......考えておく」


 秋月(あきづき)は、3秒分の沈黙の後、そう言った。

 考えなくても答えが「行く」になる即答を、たぶん、3秒で、わざわざ「考えておく」に変換していた。変換のコストが、声の少しの揺れに、漏れ出ていた。

 俺は何も指摘しなかった。

 指摘しなくても、伝わっている方が、たぶん、お互い、楽だった。


「考えとけ」

「......考える」

「考える、考えておく、どっちでもいい」

「......考えておく」


 秋月(あきづき)は同じ語尾を選んだ。

 たぶん、二回目の方が、本人としては、ちゃんと、確定したかったのだと思う。

 俺はドアノブを、最後まで、押した。

 扉が、ゆっくり、開いた。


 * * *


 夜の空気が、開いた扉から、すっと、入ってきた。

 昼の熱気が薄く残った、湿った空気だった。

 秋月(あきづき)は、玄関を出た。

 外の通路は、廊下灯がオレンジに光っていた。

 歩き始めた。

 数歩、進んだ。

 2歩、3歩、4歩。

 4歩目の手前で、秋月(あきづき)は、立ち止まった。

 今度は、こちらを、振り返った。

 通路灯の光の下で、秋月(あきづき)の輪郭だけが、薄くオレンジになった。

 目は、合わなかった。

 目は、合わせない、まま、口だけが、動いた。


「......おやすみなさい」


 いつもの「......じゃあ」では、なかった。

 いつもの「......また」でも、なかった。

 一段、柔らかい、別れの言葉だった。

 秋月(あきづき)はそれだけ言って、もう振り返らずに、通路を歩いていった。

 オレンジの光の下で、髪の毛先が、少しだけ揺れた。

 角を曲がって、見えなくなった。

 俺は、扉の枠に、片手をかけたまま、しばらく、立っていた。


 * * *


 扉を閉めた。

 鍵をかけた。

 チェーンをかけた。

 いつもの動作だった。

 いつもの動作なのに、3つとも、いつもより少しだけ、遅かった。

 俺は玄関に立ったまま、上を向いた。

 天井の、白い壁紙の継ぎ目が、目に入った。

 継ぎ目は、まっすぐ、天井を、横切っていた。

 まっすぐで、何の感情もなくて、ただの天井だった。

 ただの天井を、しばらく、見ていた。

 胸のあたりが、何かが、落ち着かなかった。

 落ち着かない理由は、勉強会で5人分の片付けをした疲れだ、と、自分に、言い聞かせた。

 言い聞かせたが、疲れは、たぶん、シンクの前で、皿を渡す時の、あの一瞬の沈黙とは、別の場所に、溜まっていた。

 胸のざわつきは、疲れと、別の場所に、あった。

 俺は、玄関の壁にもたれて、もう一度、天井を見た。

 白い継ぎ目が、相変わらず、まっすぐだった。

 その下で、俺だけが、まっすぐじゃ、なかった。

 ......おやすみなさい、という、秋月(あきづき)の声が、まだ、耳の奥のあたりに、ぼんやり、残っていた。

 そっちの方の処分の仕方を、俺は、まだ、知らなかった。

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