洗い物と、近すぎる距離
食後。
テーブルの上の皿は、5人分。フォークもコップもサラダの小皿も合わせて、けっこうな数になった。ひなたがパスタ皿を山のように積み上げて、「ごちそうさまでしたー!」と両手を合わせたところまでは元気だった。そこから動かなくなった。
桐生はソファに半分寝そべって、スマホをいじり始めた。つぐみは座卓から離れて、ソファの反対側の端に移動し、クッションに頬を預けていた。この家の戦力は、食後に一斉に低下していた。
俺は皿を集めてキッチンに運び始めた。
二往復目の時、立ち上がる気配が、ソファからではなく、座卓の端から、聞こえた。
「......手伝う」
「秋月、二度目な」
「......今日のは、片付け」
「じゃあ訂正しなくていい」
秋月は短く頷いて、座卓の上の皿を重ねはじめた。重ね方が、重さの順に下から積むという、妙に物理的に正しい積み方だった。皿の角を合わせて、輪郭をきれいに揃える。皿がピサの斜塔にならない運び方だった。
* * *
キッチンに戻って、皿を流しに下ろす。
シンクは、二人で並ぶには、少し狭かった。
狭いことを知っていたので、俺はシンクの右側に立った。右利きの俺が左のスポンジを取りに行くのは遠回りになるが、その代わり、左側に立つ人間に、洗い物の動線を譲ることができる。
秋月がシンクの左側に立った。
立ち方が、真っ直ぐ、だった。身長162センチが、規律正しく、垂直に立っていた。足の位置が、シンクの端から、ぴったり等距離だった。
肩と肩のあいだに、握りこぶし一個分くらいの、狭い空間があった。
「......」
「......」
無言で、役割分担が決まった。
俺が洗って、秋月が拭く。それだけのことだった。それだけのことだが、こっちの皿を渡す時に手が届く範囲に、秋月の指が来る。それだけの、物理的な事実だった。
* * *
俺はスポンジに洗剤を垂らして、最初の皿を洗った。
パスタソースが残った皿は、指の腹でこすると、油膜が薄くなっていくのがわかる。泡を立てて、流水で流して、脇の水切りトレイに立てかけるのではなく、秋月に差し出す。
秋月は、布巾を両手で受け止めるみたいに、皿の下側から、受け取った。
俺の手と、秋月の手のあいだに、皿があった。
最初の皿で、指先は、触れなかった。
秋月は慎重に皿の底を持って、俺の指を避けていた。避けている、と気づく程度には、避けていた。
「秋月」
「......なに」
「皿、もっと上の方持って大丈夫だぞ」
「......持てる」
「持ってるけど、底は俺が渡す側が持ってる」
「......大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ」
「......仕様」
仕様、と言った。
仕様、という単語の使い方として、たぶん、間違っていた。
* * *
5枚目の皿だった。
コップだったかもしれない。今となっては、どれだったかの記憶が、微妙にブレている。
俺が差し出した皿が、いつもより、少しだけ、斜めだった。秋月が受け取ろうとして、ちょっと、タイミングがずれた。ずれたタイミングを取り戻そうとして、秋月の手が、いつもの避線から、1センチだけ、外側に出た。
俺の右手の、親指の横の、いちばん端の関節と。
秋月の左手の、中指の腹の、先端と。
それが、触れた。
触れた、と書くほどの、面積も、時間も、なかった。
一瞬だった。
でも、一瞬あった。
「......」
「......」
秋月の手が、止まった。
完全に、止まった。
皿はまだ、俺と秋月の、二人で、両手で、支えていた。
皿の表面が、水で濡れていた。
俺の手も濡れていた。秋月の手も、布巾越しではあるが、拭くために濡れ気味になっていた。
水で濡れた皿は、滑る。
滑るんだよ、この、陶器の皿ってやつは。
滑るから、渡す時に、指先が、どうしても、触れる、ことが、ある。
そういう、物理的な、問題だ。
俺は頭の中で、「皿が濡れてて、滑った」と、三回、繰り返した。
繰り返すだけ繰り返してから、皿を、秋月の手に、完全に、預けた。
秋月は、皿を受け取ってから、布巾でその皿を拭き始めた。
拭く動作は、いつもと、ほぼ、同じだった。
ほぼ、の、部分が、前と違った。
「......」
どちらも、何も言わなかった。
水音と、皿を布巾で撫でる音と、冷蔵庫のコンプレッサーの低い唸りだけが、台所に残った。
沈黙があった。
沈黙の形が、少し、重たかった。重たいが、嫌な重たさではなかった。
嫌な重たさではない、というところまでを、俺は、確認した。確認してから、次の皿を、取った。
* * *
リビングの方で、小さな声がした。
ひなたの声だった。
聞き取れないくらいの、小声だった。
でも、つぐみに向かって話している、というのは、わかった。
俺はキッチンから、ほんの少しだけ、首を傾けて、視界にリビングを入れた。
ひなたが、ソファのつぐみの隣に、座り直していた。膝を抱えていた。クッションの上で、顎を、膝の上に、乗せていた。
視線は、キッチンに向いていた。
もっと正確に言うと、俺と秋月が並んで立っている、シンクの前の光景に、向いていた。
ひなたの口が、動いた。
小声すぎて、言葉としては、ほとんど届かなかった。
でも、「......そうくんと、秋月さん」の次に続いた数文字分くらいの形が、口元から、読めた。
「......なんか、お似合いだね」
そう読めた。
そう読めた、ことにしておいた。
ひなたの声には、いつもの元気さが、一段だけ、足りなかった。
つぐみが、何も言わずに、ひなたの頭を、ぽんと、軽く叩いた。
口角が、上がっていなかった。
今日、初めて、つぐみの口角が、平行線だった。
桐生は、スマホから顔を上げなかった。上げなかったが、指の動きが、少しだけ、ゆっくりになっていた。
俺は、スポンジを握り直して、次の皿を洗い始めた。
ひなたの声のことは、聞こえなかったことに、した。
聞こえなかったことにする、というやり方が、今日の俺には、いちばん、うまく、できることだった。
* * *
片付けが終わって、9時を過ぎた。
桐生が「そろそろ」とソファから起き上がり、つぐみがひなたを連れて立ち上がった。ひなたは玄関で「そうくん、ごちそうさま! 楽しかった!」といつもの声に戻っていた。戻っていたが、最後の「楽しかった!」の語尾が、普段よりほんのわずかに、ゆっくりだった。気のせい、かもしれない。今日も気のせいの確率は、やけに高い。
三人が玄関を出ていく。
リビングには、俺と、秋月が残った。
秋月は、座卓の上のシャープペンシルを、一つずつ、筆箱に、戻していた。戻しながら、ノートのページを、順番に閉じていた。閉じる順番が、正しかった。正しい順番を守る意味が、筆箱の中では、たぶん、そこまで大きくない。
片付ける手は、急いでいなかった。
急いでいない、というよりは、手放すのが少し遅い、という速度だった。
俺は、自分の右手の、親指の横の、いちばん端の関節を、もう一度、見た。
何もついていなかった。
何もついていないのに、なぜか、少しだけ、まだ、濡れている気がした。
濡れている気がする理由は、たぶん、皿の水のせいだ、ということにしておきたかった。




