エプロン姿の藤宮くん
勉強会は、数学・英語・古文と進み、18時を回ったあたりで、全員の集中力が目に見えて落ちた。
古文の助動詞活用表のあたりで桐生が完全に戦力外になり、ひなたが「そうくーん、お腹すいたー」と座卓にぐにゃりと倒れ込んだのが、18時12分の出来事だった。
つぐみが俺を見た。
「藤宮くん」
「ああ」
「作って」
「作る」
話が1秒で決まった。我が家で勉強会が開かれると決まった時点で、夕食担当が俺になるのは確定路線だった。材料は母さんが「みんなでパスタでもしなさい」と買い置きしておいてくれている。段取りは既に頭の中にあった。
俺は立ち上がって、キッチンに向かった。
エプロンを頭からかぶって、後ろ紐を腰で結んだ。母さんの紺色のエプロンだ。男物は持っていない。サイズは合っているし、紺なので、そこまで不自然でもない。
鍋に水を張って、火にかけた。パスタを茹でる湯を沸かす、そのあいだに具材の下ごしらえをする。手順は、いつもの平日の夜と、ほぼ同じだった。
* * *
キッチンの入口に、人の気配がした。
振り返ると、秋月が、ドア枠のあたりに、半身で立っていた。
台所には入っていない。手前で、微妙な位置に、留まっていた。
「どうした」
「......手伝う」
短かった。
秋月は、台所の床に、最後の一歩を、踏み込まなかった。
「いいよ、座ってて」
「......」
「ほぼ段取り決まってるから」
「......手伝いたい」
訂正された。
「手伝う」と「手伝いたい」は、日本語として一文字違い程度の差だが、発言者の位置取りとしては、けっこうな距離があった。後者は、俺にも、同じくらいはっきり、伝わった。
俺はまな板の前で、数秒、手を止めた。
「......サラダ、盛り付け頼んでいいか?」
「......いい」
「洗ったトマト、そこ。レタスは冷蔵庫の下段」
「......はい」
秋月は、キッチンに、一歩、踏み込んだ。
踏み込む時、シンクの方をちらりと見た。シンクは狭い。俺が野菜を切っている場所と、秋月が立とうとしている場所の距離は、50センチあるか、ないか、くらいだった。
秋月はその距離を、とても真剣に測っていた。
50センチを測るのに、あんなに真剣になる人間は、世の中にあまりいない。
* * *
秋月はサラダの皿に、レタスを敷いた。
敷き方が、丁寧だった。過剰に、丁寧だった。
葉っぱ一枚ずつ、角度を変えて、重ね方を整えて、空洞を作らないように、でも潰さないように、気を配っていた。料理学校の実習時間か。
そこにトマトを並べ始めた。
問題は、並べ始めてからだった。
秋月の手が、トマトを一切れ、皿の右上に置いて、少し離して眺めた。眺めて、もう1ミリ左に寄せた。また眺めた。今度は上に1ミリ寄せた。
3回目で、秋月は、トマトの角度まで、微調整し始めた。
俺は玉ねぎのみじん切りをしながら、視界の端でその光景を見ていた。
「秋月」
「......」
「それ、盛り付けじゃなくて製図だな」
「......」
「食うんだぞ、すぐ」
「......食べやすいように、配置してる」
「食べやすさの文脈で、その対称性は要求されない」
「......美しさも、食欲に、影響する」
「言い訳の方向性が、急に学術的になったな」
「......事実」
秋月はもう一枚のトマトを、皿に置いた。今度は、左上、4時間くらい向きを考えて悩むほど丁寧だった。
不器用なのか、丁寧なのか、見分けがつかなくなる人間が、世の中にはいる。秋月は、その人種の一人だった。
* * *
フライパンでベーコンと玉ねぎを炒める。茹で上がったパスタを入れて、ソースを絡める。皿に盛る。粉チーズと黒胡椒。
5人分を、3分で仕上げた。
リビングに運ぶと、ひなたが「世界一!」と叫んだ。
「今日もか」
「そうくんのごはんいつも世界一!」
「ひなたの『世界一』、インフレしてるぞ」
「インフレしない! 世界一にインフレはない!」
横から桐生が深く頷いた。
「料理男子、最強」
「お前も便乗するな」
「最強だろ、料理できる男って。モテるし、死なない」
「後半重い」
「人生設計の話」
座卓の端に、秋月のサラダが置かれた。
トマトは、きれいに、左右対称に、配置されていた。
皿の上で、トマトが光ってすらいた。
これだけ撮ればインスタに上げられそうなクオリティだった。誰もやらないが。
秋月は、自分の席に戻って、座った。戻る時、エプロンを外してキッチンに戻している俺の方を、一度だけ、ちらっと、見た。見た視線の角度が、「意外と、綺麗」と言った時の、部屋の見回し方と、ほぼ同じだった気がした。
* * *
食事が始まった。
ひなたが口いっぱいにパスタを頬張って、幸せそうに目を閉じた。桐生が「うまい」と低く唸った。つぐみが「さすが料理男子」と笑った。
秋月は、フォークにパスタを、3本だけ、巻いた。
少ない。相変わらずの、発表会的な量だった。
口に入れて、ゆっくり、噛んだ。
「......美味しい」
声に出していた。
自分で、ちゃんと、俺にも、ひなたにも、つぐみにも、桐生にも、聞こえる音量で、声に出していた。
秋月はその事実に気づいたのか、言った直後、フォークの先のパスタを、もう3本だけ巻き直していた。
つぐみが、すかさず、反応した。
「凛、今日はっきり言ったね」
「......」
「いつもは小声なのに」
「......事実を述べただけ」
「事実を述べる音量を2段階上げたよね今」
「......」
「あたしの気のせいかな?」
「......気のせい」
「気のせいだとしたらあたしの耳、完治したわ」
秋月は「......完治」と小さく呟いて、つぐみから視線を逃がした。
ひなたがフォークを持ち上げて、話題を変えに来てくれた。
「そうくんの卵焼き、今日は入ってなかったの、残念ー」
「お前の要望が卵焼きなのかよ」
「だって、そうくんの卵焼き、甘くておいしい」
「まあな」
「前よりも甘い気がする」
俺はフライパンを洗いに立とうとして、その手が、一瞬、止まった。
前よりも甘い。
気のせいではなかった。
4月に秋月が隣の席に来てから、秋月が俺の弁当から卵焼きを、当初は一つ、途中から二つ取るようになって、俺は、砂糖を、少しずつ、足していた。足していた記憶はあるが、自覚として目的までは結びついていなかった。
ひなたの指摘で、それが、初めて、一本の線で、つながった。
甘くなったのは、秋月が取るようになってからだ。
俺は、蛇口の下でフライパンを濡らしながら、自分の頭の中に、その一行を、静かに書き込んだ。
書き込んでから、書き込んだ事実を、自分で見ないふりをした。
見ないふりをしたが、視界の端で、秋月が、パスタをフォークで、また3本だけ巻いていた。静かで、丁寧な、3本だった。
つぐみがその3本を見ていた。見ながら、もう何も言わなかった。
つぐみの口角は、もう、勝ったあとの顔になっていた。




