お邪魔します
期末テスト勉強会、初日。
場所は我が家。強制的に。
朝、母さんは「夜勤明けで今から寝るから、騒ぎすぎないでね」と寝室のドアを閉めていった。正確には朝9時に寝るタイプの夜勤明けの人間なので、騒音レベルを適度に保てば、母さんは寝息の底で何も気にしない。それが我が家のリズムだ。
リビングのテーブルを端に寄せて、四人掛けの座卓を出した。座布団を数えて、4枚しかないことに気づいて、クッションを一つ追加した。麦茶のポットを冷蔵庫から取り出して、氷を作り直して、コップを5つ並べた。
これで、準備は終わりだった。
終わったのに、俺は、妙に何回も部屋の中を見回していた。見回しながら、自分の部屋のドアの位置を、何度も視界に入れていた。
秋月が、この家に来る。
その事実を、頭の中で、3回、繰り返した。
3回繰り返しても、特に、何も変わらなかったことにした。
* * *
最初に来たのは桐生だった。
インターホンを連打した。
「やっほー、蒼太の家ー!」
「押しすぎだ」
「テンションに比例してボタン押す回数増えるだろ」
「増えない」
「増える」
次にひなた。ひなたは隣の家なので、サンダルでやってきた。
「そうくーん、お邪魔しまーす!」
「お邪魔します」を叫ぶ子は、たぶん、お邪魔している自覚はない。ひなたは勝手知ったる顔で、リビングに入って、クッションを抱えて座った。こいつが家に来るときの導線は、小学校の頃から変わらない。
次につぐみ。つぐみはインターホンを一回だけ鳴らして、ドアを開けた俺に、にっと笑った。
「こんにちは、藤宮くん。お邪魔します」
「ああ」
「凛、さっき下で会ったよ。マンションの一階で止まってた」
「......止まってた?」
「地図アプリ見ながら、『ここ、五丁目じゃなくて四丁目だと思う』って呟いてた」
「四丁目だ」
「教えてあげたら『......そう』って言って、歩き出した」
「誘導ありがとう」
「いいえ」
つぐみはにやにやしながら、リビングに進んだ。
玄関を閉めようとして、やめた。
あと一人、来る。
その一人は、玄関の前で、たぶん、息を整えている時間が、必要な、一人だった。
* * *
一分ほど経って、インターホンが、静かに、一回だけ鳴った。
押し方に、自信がなかった。
押した指が、長押ししてしまう前に、指がすぐ離された、という押し方だった。
俺はドアを開けた。
秋月が、立っていた。
白いシャツに、膝下の紺のスカート。普段より、少しだけ、丁寧にまとめた髪。手に持っているのは、いつもの学校鞄に、もう一つ、小さな紙袋。
「......お邪魔、します」
小声だった。
俺がこれまで聞いたうちで、一番、小声だった。
声を出す、というより、空気を押し出した、という感じの音だった。
俺は「どうぞ」と短く答えた。
秋月は靴を脱いだ。
脱ぐ手が、ほんの少し、震えていた。微細な震えだった。揃える時に、右足の靴を置き直した。さらにもう一度、1センチだけ、右に寄せた。ぴったり揃えないと気が済まない性格なのかもしれないし、手が震えていたから一度で揃えられなかったのかもしれない。
秋月は自分の鞄を片手に、紙袋のほうを、俺に、小さく差し出した。
「......これ」
「なんだ」
「......さっきの、タオル」
「ああ」
「......洗って、アイロンかけた」
「アイロンまでかけたのか」
「......うん」
「そりゃありがとう」
「......別に、普通」
「普通ではない」
「......普通」
タオル1枚にアイロンをかける普通は、たぶん、世の中の普通のレンジを踏み外している。俺はそれ以上何も言わずに紙袋を受け取った。
秋月はそれで一つ儀式を終えたみたいに、短く息を吐いて、リビングの方に目を向けた。
* * *
リビングでは既に桐生がひなたのクッションを奪い合って、つぐみに「低レベルな争いすぎ」と呆れられていた。
俺は秋月に「こっち」と短く声をかけて、自分の部屋の方を指した。座卓はリビングだが、鞄を置く場所として俺の部屋のドアを開けた。
ドアの向こうは、ごく普通の、高2男子の部屋だった。
本棚が一つ。
壁に、中学サッカー部の時の小さなトロフィーが一個。
机の上に、料理本が2冊。『家庭の基本和食』と、『パパッと作れる朝の一品』。後者はタイトルが恥ずかしいので、普段は背を表に出さないようにしているのだが、今日に限って背が立っていた。片付けの時に俺が裏返すのを忘れた。
秋月は、部屋の入り口で、立ち止まった。
目線が、本棚、トロフィー、料理本、の順に、ゆっくり動いた。
「......意外と」
「なんだよ」
「......綺麗」
「意外って何だ」
「......もっと、散らかってると、思ってた」
「何の前提だよ」
「......男子の、部屋」
「偏見がすぎる」
「......偏見じゃない、傾向」
「お前が見た男子の部屋、何人分だよ」
「......」
「サンプル数ゼロだろ」
「......推測」
秋月は「推測」と言ったあと、もう一度、部屋の中を、ゆっくり見渡した。
視線が、一瞬だけ、ベッドの方に、向いた。
本当に、一瞬だった。
視線は、ベッドの枕元のあたりで、ピントが合う前に、引き返してきた。
秋月は机の上の料理本の方に視線を据え直した。据え直し方が、自然に見せようとして、かえって不自然だった。
俺はそっち方向を見ないふりをした。見ないふりをしたが、ドアの隙間から、つぐみの頭だけが覗いていて、つぐみの口角は、プールサイドで見たのと同じ角度に、きっちり、上がっていた。
* * *
勉強会は、一応、始まった。
座卓に5人、肘がぶつかる密度で並んで、数学の問題集を開いた。15分くらいまでは、みんな真面目だった。
桐生が、16分目に脱線した。
「お前ら、期末終わったら何する? 夏休みの計画」
「話戻せ」
「戻らない」
「戻せ」
「海」
桐生は「海」と言いながら、俺と秋月の方を、交互に見た。意図がもう隠れる気もないレベルで露骨だった。
つぐみが即座に引き取った。
「それ、終業式の話で決めるから今は黙って」
「はい」
桐生が一瞬で黙った。つぐみの圧に勝てる男は、この家にはいない。
ひなたが、秋月の方に、身を寄せた。
「凛ちゃん」
「......」
「ここ、教えて!」
ひなたは自分のノートを、秋月の前に広げた。
三平方の定理の応用問題だった。
秋月は、ほんのわずかに、戸惑った顔をした。戸惑ったが、ペンを手に取った。ひなたの問題の、最初の補助線の引き方を、指でゆっくりなぞった。
「......ここから、垂線」
「うん!」
「......直角三角形が、二つ、できる」
「ほんとだ!」
「......あとは、それぞれ、三平方」
「わかった! なるほど!」
ひなたは両手で頭を叩いて「わかったー!」と叫んだ。
秋月は叫ばれた音量にわずかに仰け反った。
ひなたは仰け反られたことに気づかないで、秋月に、ぱっと笑った。
「凛ちゃん、教え方上手!」
「......そう?」
「うん! 凛ちゃん、塾の先生より、わかりやすい!」
「......そう」
秋月の「......そう?」の語尾は、微かに、上がっていた。
それから、「......そう」の語尾は、微かに、下がっていた。
下がっていた方の「......そう」には、たぶん、普段出さないトーンの、何か、が、一滴だけ、混ざっていた。
気のせい、かもしれない。
でも、つぐみの口角が、もう一段、深く、上がった。
気のせいの精度を補正するには、つぐみの口角は、信頼できすぎる指標だった。




