期末テスト一週間前
プール開きから数日。
教室のホワイトボードの端に、担任の花園先生が朝の時点で「期末テスト一週間前」と赤いマーカーで書き込んでいた。赤字の下に、小さな文字で「逃げないこと」と書き添えてあるのが、花園先生らしかった。
俺は朝のホームルームで、自分の成績手帳を開いて、中間テストの結果を眺めていた。
数学 58点。学年50位。
決して誇れる数字ではない。むしろ、見るたびに胃の上の方が少し重くなる。中間テストの時、秋月に数学の公式を途中まで教わっていなければ、たぶん平均点を割っていた。つまりこの58点には、秋月の指導料が含まれている。借りは、ある。
気が重い。重いが、逃げてもテストは来る。
花園先生の言うことは、こういう時だけ、正しい。
* * *
昼休み。
弁当を広げて、卵焼きを一つ口に入れたタイミングで、隣の席の秋月が、ぽつりと言った。
「......数学、教えようか」
箸が止まった。
口の中の卵焼きも止まった。
秋月は自分の弁当箱に目を落としたまま、俺の方を見ずに続けた。
「......前回、途中までだった」
「ああ、中間の」
「......期末は、範囲が、続き」
「だよな」
「......放課後、図書室」
「今日?」
「......嫌なら、いい」
「嫌じゃない。助かる」
「......そう」
秋月は、それだけ言って、また自分の弁当に戻った。
会話としては、たった7往復程度の、ごく短いものだった。
でも、秋月から「放課後、図書室」と場所を指定する形で誘ってきたことは、たぶん、俺と秋月の関係の中では、けっこう新しい種類の出来事だった。
俺はそれ以上何も言わないで、卵焼きをもう一口だけ味わった。今日の卵焼きは、砂糖の比率が、いつもよりほんの少しだけ多い気がした。気のせい、かもしれない。
* * *
放課後の図書室。
期末テスト一週間前の図書室は、静かに混んでいた。窓際の席は参考書を広げた3年生で埋まっていて、俺と秋月は壁際の四人掛けの角に並んで座った。
秋月は鞄から、数学の教科書、問題集、ノート、そして、もう一冊、何か、わりと分厚い、クリアファイルに挟まったプリントの束を出した。
プリントの束は、見るからに、手作りだった。
「......これ」
「なんだよ、それ」
「......期末の範囲、全部、要点整理した」
「は?」
「......まず、関数の三分野から」
秋月はプリントの束を、俺の前に置いた。
一枚目をめくると、出題頻度の高い公式が上段に、その下に小問の解法の流れが、短い矢印でつないで書かれていた。次のページをめくると、中間テストで俺が間違えた範囲――二次関数の最大最小――について、もう一段深い解説が入っていた。
書いてある量は、そう多くなかった。
多くないのに、情報の密度が、高かった。
削りに削った上で、残した、という書き方だった。
「秋月」
「......」
「お前、これ、いつ作った」
「......昨日と、一昨日」
「2日かけた?」
「......合計で、3時間」
「3時間」
「......そんなに、手間じゃない」
「手間じゃない範囲を超えてるぞ、これ」
秋月はプリントの端を、人差し指でそろえた。
「......別の話」
「別の話って」
「......自分の勉強のついでに、作った」
「ついでの成果物が、これか」
「......効率のいい復習」
「お前の復習、俺向けに特化されてるだろ」
「......そうでもない」
秋月の視線は、プリントの角の方に向いていた。プリントの角を揃えるのに、人間はそんなに真剣にならなくていい。
俺は、プリントの一枚目を、もう一度、頭から読み直した。
公式の並び方が、中間テストで俺が詰まった順に、並んでいた。
偶然、ということに、しておきたかった。しておきたかったが、プリントの三枚目が俺の名前の漢字の練習みたいに丁寧な字で書かれているのを見て、それ以上は、偶然と言い張る胆力が、俺にはなかった。
「......秋月の教え方、わかりやすい」
「......当然」
「当然か」
「......準備してきたから」
「準備って」
「......あなたが、間違えそうな箇所を、予想して、解説を、用意した」
秋月の声は、いつもより、ほんのわずかに、早かった。早口、というほどではない。だいたい一音分、早かった。
秋月は言い切ってから、「......以上」と付け加えた。
以上、ってなんだ。
会議か。
「......秋月、お前」
「......解説、始める。1ページ目」
「いや、それ、もう一回ちゃんと」
「......始める」
秋月はプリントの1ページ目を、指で、とんとん、と叩いた。こうなった秋月は、もう話題を戻さない。話題を戻さない秋月を説得するのは、俺の装備では不可能なことを、この2ヶ月で、俺はよく学んでいた。
俺は、ノートを広げた。
秋月のプリントの1ページ目、関数の定義の話から、解説が始まった。
* * *
「お、デート?」
静かな図書室に、爆発音みたいな声が、斜め横から割り込んできた。
桐生だった。
参考書を数冊小脇に抱えて、俺たちの机に近づきながら、わざとらしくにやにや笑っていた。
「違う」
「違わなくない?」
「違うんだよ」
「図書室で隣並んで二人きりって、デートのど真ん中の定義じゃん」
「定義を自作するな」
秋月が、プリントから顔を上げずに、短く言った。
「......勉強」
「ですよね、秋月さん」
「......帰って」
「え、俺も混ぜてよ」
「......混ざると、集中できない」
「俺の集中力貢献度、ゼロってこと?」
「......マイナス」
「辛辣!」
秋月は手で、しっ、しっ、と軽く追い払う仕草をした。猫を追い払う時の仕草にそっくりだった。
桐生は両手を上げて降参のポーズを取り、退散するふりをしながら、俺の耳元に近づいて小声で一言置いていった。
「蒼太、これ、デートだぞ」
「勉強だ」
「デートだ」
「勉強だ」
「まあ、世の中の多くのデートは勉強から始まる」
「締めが謎だな」
桐生はにやりと笑って、参考書を抱えたまま、窓際の席の方に消えていった。
秋月は桐生の退場を確認してから、プリントのページを一枚、静かにめくった。
* * *
解説が一区切りついた頃、図書室の入口から、つぐみが顔を出した。
参考書を胸に抱えて、俺たちを見つけるなり、軽く片手を上げた。
「藤宮くーん、凛、ここにいたんだ」
「......白河さん」
「いいとこ並んで座ってんね」
「......詰めてるだけ」
「詰めなくてもこの机四人掛けだよ」
つぐみは笑いながら、俺の向かいの席に座った。参考書を机に置いて、組んだ両手を顎の下に置き、ちょっと、悪そうな顔で、言った。
「ねえ、提案」
「なんだ」
「勉強会やるなら、みんなで藤宮くんの家でやらない?」
「......え」
秋月のシャープペンシルの芯が、ぱきっ、と、軽い音を立てて折れた。
プリントの余白にちょうど書き込もうとしていた記号の最後の一画が、そこで、途切れた。
秋月は、折れた芯を、指で、そっと、払った。
「......藤宮の、家?」
「うちは部屋が狭いし、凛の家はお母さんいるし、図書室はこれ桐生みたいのが定期的に湧く。藤宮くんの家、日中お母さんいないでしょ?」
「夜勤だからな」
「じゃあ決定」
「決定されるような文脈じゃなかったぞ今のは」
「凛、いいよね?」
「......」
秋月は、しばらく、プリントの折れた芯の跡を見つめていた。
そして、プリントから顔を上げずに、ほんの、一言だけ、短く、答えた。
「......場所は、どこでも」
場所は、どこでも、というのは、一番、どこでもよくない人の言い方だ、という気が、した。
つぐみが、こちらを見て、わずかに口角を上げた。
昨日のプールサイドの「あー、これは」と、ほぼ同じ口角の角度だった。
俺は「勉強、続きな」とだけ言って、ノートの次のページを、開いた。
夏休み前に、我が家に、四人か五人が押しかけてくることが、ほぼ、決まった。




