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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
雨のにおい

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タオルの匂い

 プール授業が終わった。

 自由練習の50分は、無制限に自由ではなく、最後の10分でクールダウンと後片付けが挟まる。体育の先生が笛を鳴らして、生徒たちはプールから上がり始めた。

 俺はプールサイドに上がって、ベンチに置いていたタオルで髪を雑に拭きながら、第2コースの方を見た。

 秋月(あきづき)が、プールから上がっていた。

 髪の先から水が滴って、首筋を伝って、肩を濡らしていた。自分のタオルを広げて使おうとして、手を止めていた。

 タオルが、びしょ濡れだった。

 どうやら、プールサイドに置いたまま使っていない間に、誰かが隣で水しぶきを盛大に跳ね飛ばしたらしい。桐生(きりゅう)が飛び込んだ跡が、ベンチの周辺に残っていた。犯人の目星は、ついた。

 秋月(あきづき)は濡れたタオルで髪を拭こうとして、拭き返さずに、手で髪を軽く絞るに留めていた。


秋月(あきづき)

「......」

「使えよ」


 俺は自分のタオルを差し出した。

 自分で髪を2回拭いた程度で、そこまで水を吸っていない。秋月(あきづき)の今の状態よりは、遥かに使い物になるはずだった。


「......自分のがある」

「濡れてんだろ、それ」

「......大丈夫」

「大丈夫のタオルがそんなに垂れてるのは初めて見た」


 秋月(あきづき)は、垂れている自分のタオルの端を見た。ぽたりと、水がタイルに落ちた。これで「大丈夫」を押し通すのは、さすがに無理な顔だった。

 秋月(あきづき)は、3秒くらい、俺の差し出したタオルを見ていた。


「......借りる」

「おう」

「......洗って返す」

「別に、いいけど」

「......洗って、返す」

「二回言わなくていい」

「......二回言う必要がある案件」

「案件とか言うな」


 秋月(あきづき)は俺のタオルを受け取って、髪の先から順番に水気を取り始めた。

 拭く動作が、妙に丁寧だった。タオルを髪に当てる間が、一回ごとに少し長かった。気のせい、かもしれない。

 俺は「男子更衣室行ってくる」とだけ言って、ベンチから離れた。

 離れ際、プールサイドの日よけの下に、見学席があるのが視界に入った。

 つぐみが、そこに座っていた。クラス全員分の見学バッグを膝の上にまとめていた。今日は見学の日らしい。女子の中で、そういう日は誰にでもある。

 つぐみは、俺の方ではなく、秋月(あきづき)の方を、じっと見ていた。

 つぐみの観察眼は、プールサイドでも、まったく休まないらしかった。


 * * *


 ――つぐみの席から見えていたもの。

 あたしは見学席の日陰で、クラス全員のバッグの上に顎を乗せていた。プールサイドのタイルが日差しを吸い込んで、湯気みたいな光が空気の下の方に溜まっていた。

 第2コースの端で、凛が藤宮からタオルを受け取っていた。

 ここからだと会話は聞こえない。でも二人の距離感と、凛の手の動きの遅さで、だいたい何が起きているかはわかる。藤宮は無造作に「使えよ」くらいのことを言って、凛は無意味に1往復くらい遠慮して、結局受け取った。そんなやり取り。

 藤宮が男子更衣室の方に歩いていった。

 ベンチには、凛が一人、残った。

 凛は、藤宮のタオルを、髪に当てていた。

 丁寧に、拭いていた。

 最初の数回は、普通の、ただの、髪の水気を吸わせる動作だった。

 問題は、途中からだった。

 凛は、髪を拭く手を、一度、止めた。

 タオルの端を、指でつまんだ。

 そして、それを、顔の――鼻先より少しだけ下、くらいの位置に、引き寄せた。

 ほんの、一瞬だった。

 本当に、一秒あったかどうか、という、短さだった。

 でも、あたしの目は、それを、完全に、捉えた。


 凛は、タオルの匂いを嗅いだ。

 そして、嗅いだことに自分で気づいて、ぎょっとしたように手を離した。


「......」


 凛は、あたしの方を見た。

 視線が、完全に、合った。

 凛は、あたしの口の形を、読んだ。

 あたしが何か言う前に、口が「あー」の形に一瞬だけ開いていた、ということに。

 凛は、タオルを頭の上からすとんと被って、視線をそらした。

 あたしはそのまま、見学席から立ち上がって、凛のベンチの隣に移動した。タオルの下の凛の耳が、薄く赤くなっていた。プールの直射日光のせいだ、と言いたいところだが、ここは日よけの内側だった。


「凛」

「......なに」

「今、嗅いだでしょ」

「......嗅いでない」

「嗅いだ」

「......別に、嗅いでない」

「凛の『嗅いでない』は、嗅いだ人の『嗅いでない』だよ」

「......意味がわからない」

「ごまかし方がへたくそなの」


 凛は、タオルを頭の上からさらに深く引き下ろした。タオルの奥から、ぼそりと声がした。


「......柔軟剤の種類が、気になっただけ」

「出た。柔軟剤」

「......嘘じゃない」

「嘘じゃないかもしれないけど、柔軟剤の種類が気になる相手、人類の何パーセントだと思ってる?」

「......個人差がある」

「個人差の範囲を超えてるの、今の動き」


 凛は反論しなかった。タオルで顔の下半分を覆ったまま、海の底の魚みたいに、ぱくぱく口だけ動いていた。でも言葉は出てこなかった。

 あたしは軽く笑ってから、見学席に戻った。

 戻りながら、一人で、頷いた。

 あー、これは。

 これは、もう、そうとしか言いようがない。

 あたしの観察眼が、結論を、出した。半年くらい迷ってやっと出した、というよりは、証拠を積み上げてついに確定判決、という感じだった。

 ベンチを振り返ると、凛はタオルを被ったまま動かなかった。タオルの端を、指でぎゅっと握っていた。その握り方は、もはや、返すための握り方じゃなかった。


 * * *


 更衣室から出てきたときには、プールサイドはほとんど片付けが終わっていた。

 ベンチの端に、秋月(あきづき)が、まだ座っていた。

 髪はもう、ほぼ乾いていた。

 乾いているのに、秋月(あきづき)の手には、俺が貸したタオルが、まだ握られていた。


秋月(あきづき)

「......」

「それ」


 俺はタオルを指差した。

 秋月(あきづき)は、指差されたタオルを見て、それから、ちょっと慌てたように、畳み始めた。三つ折りにして、また広げて、四つ折りにして、もう一度三つ折りにして、結局、小さな、綺麗な、四角にまとまった。


「......返す」

「おう」

「......洗って、返すのと、今返すの、どっちがいい?」

「どっちでも」

「......じゃあ、洗って、返す」

「はいよ」


 秋月(あきづき)はタオルをもう一度、自分の鞄の上に、そっと乗せた。タオルは鞄の上で、まるで大事な引き換え券みたいに、静かに置かれていた。

 俺は、それ以上、何も言わなかった。

 何も言わないのに、なぜか、タオルの置き方だけが、やけに目に残った。

 見学席の方で、つぐみが、ペットボトルの水を一口飲みながら、俺の方を、じっと、見ていた。

 目が合ったので、俺は小さく頷いた。

 つぐみは何も言わずに、もう一口、水を飲んだ。

 頷きの意味は、たぶん、お互い、別々だった。

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