プール開き
7月上旬。梅雨の合間の、貴重な晴れの日だった。
空は抜けるような青で、雲の白がほとんどない。体育の授業で、2年3組はプール開きを迎えることになった。
うちの高校は水泳部がほぼ名ばかりで、プール開きは毎年男女合同で行う。プールの端から端を自由に泳いでくれ、という、ざっくりした授業だ。着替えの動線も、男子は北側、女子は南側の更衣室で、出てきたらそのままプールサイドに集合、という流れになる。
「いよっしゃ夏!」
更衣室で桐生が叫んだ。声がタイル張りの壁に反響して、他のクラスメイトが一斉に顔をしかめた。
「お前声でかい」
「プール開きは盛り上がるべきイベントだろ」
「盛り上がりは自分の中でやれ」
俺は自分の紺のスクール水着を腰のあたりで結び直しながら、先に更衣室を出た。
タイルが日差しを吸って、素足の裏が少し熱かった。プールサイドの白いラインに沿って並ぼうとした時、南側の更衣室から女子が出てきた。
意識するな、と自分に言い聞かせたが、視界は自動で位置を探してしまう。
先頭にひなた。ひなたはずっと「そうくーん!」と手を振りながら近づいてきた。ひなたの水着姿は小学校の頃から何度も見ているので、何の動揺もなかった。むしろ安心する。
問題は、その後ろだった。
秋月がいた。
列の少し後ろの方、他の女子に混ざるような位置で、プールサイドの方をじっと見ながら歩いていた。
紺のスクール水着。ストレートの長い黒髪を後ろで一つに束ねている。普段、制服の下に隠れていた首筋から鎖骨のあたりまでのラインが、完全に、視界に入った。
「......」
俺は視線を2秒で逸らした。
逸らして、プールの向こう側、緑のフェンスの方を見た。フェンスの向こうにはグラウンドがあって、何も面白くはない。何も面白くはないのに、3秒くらい真剣にフェンスを見つめた。
桐生が横から肘で小突いてきた。
「お前」
「フェンスを見てた」
「フェンスから遠ざかれ」
「遠ざかる」
俺はフェンスから視線を切り離して、プールの水面を見ることにした。水面ならどのクラスメイトも平等に映らない。最大限の中立地帯だった。
視界の端で、秋月がプールサイドに並ぶのがわかった。こちらを見ていなかった。見ていないことに、少しだけ安心した。
* * *
体育の先生による短いガイダンスが終わり、自由練習の時間になった。
コースは4つ。男女別に分かれているわけではなく、泳ぎたい人が好きなコースに並んで順番に泳ぐ、という、ゆるい運用だった。
桐生は平泳ぎを得意げに披露してすぐ力尽き、ビート板を抱えて浮いていた。ひなたは水の中で跳ねてはしゃいでいた。
秋月は、第2コース。クロール、らしかった。
水に入って、一度、ゴーグルの位置を直して、すっと泳ぎ始めた。フォームは綺麗だった。意外と、というのは失礼だが、意外と綺麗だった。息継ぎのタイミングが一定で、腕の振りに迷いがなかった。
迷いがなかった。
腕の振りには。
方向には、迷いがあった。
25メートルのプールを、まっすぐ泳ぐ人間は、折り返し地点で壁を蹴ってターンする。蹴った後、同じコースを逆向きに戻る。これは地球上のどこでも共通の、プールのルールだ。
秋月はターンした。
そして、隣の第3コースに、斜めに進入し始めた。
「......」
俺は自分のコース――第3コースで、自分の順番を待っていた。
その第3コースに、向こうから秋月が泳いでくる。まっすぐ、綺麗なフォームで、確信を持って、俺の方に。
これは、衝突する。
俺は即座に水に入って、秋月の進行方向から斜めに潜り込んだ。水中で、秋月の腕の振りの軌道に手を入れて、軽く肩の方を押し戻した。向きを、本来の第2コースに戻す。
秋月が水中で目を開けた。
ゴーグル越しに、視線が合った。
短い沈黙があった。水中だから音はない。でも沈黙がそこにあったのは、わかった。
俺は指で、第2コースの方を指さした。
秋月は、ゆっくり、頷いた。
水面に頭を出して、二人で同時に息を吸った。
「......ありがと」
小さな声だった。
水音に紛れて、俺にしか聞こえない音量だった。
秋月はそのまま、第2コースに戻って、何事もなかったような綺麗なフォームでクロールを再開した。水中のお礼以外、何も起きなかったみたいな背中だった。
プールサイドで、つぐみが笑いを堪えているのが見えた。目が合ったので、俺は視線を切った。
* * *
「そうくん!」
俺が第3コースから上がったタイミングで、ひなたが水の中から近づいてきた。
「クロールのフォーム、どうやるの? ひなた、息継ぎで水飲んじゃう」
「そりゃ顔の角度だな」
「教えて!」
ひなたは両手で俺の腕を掴んだ。
ひなたのこの距離感は、小学校の頃から何も変わっていない。手を繋ぐのも、腕を掴むのも、自然な重力のレベルで行われる。俺の方も、何も特別なものだと思っていない。
ただ、今日の、この、プールサイドで、ひなたが俺の腕を掴んだ瞬間に、第2コースのクロールが、少し、速くなった。
気のせい、かもしれない。
気のせいでない、かもしれない。
秋月の腕の振りのテンポが、明らかに上がっていた。息継ぎの間隔が短くなって、水の跳ね方も大きくなっていた。
あの綺麗な一定フォームが、今、何かに追い立てられるみたいに、少しだけ乱れていた。
「そうくん、どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「教えて!」
「肘を立てろ肘を」
俺はひなたにフォームを雑に教えながら、視界の端で、第2コースのクロールを、追った。
秋月はターンを一回して――今度は正しい方向にターンして――二度目の25メートルに入っていた。さっきよりもさらにペースが上がっていた。他のコースの女子を置いていく勢いだった。
桐生が俺の隣で、ビート板に顎を乗せたまま、低く言った。
「お前ほんとに......」
桐生はそこで語尾を切った。
何を言いかけたのかは、たぶん、聞かない方がお互いのためだった。桐生はため息を一つついて、そのまま水に潜った。頭が丸ごと水の下に消えて、しばらく上がってこなかった。
* * *
「秋月、今日やけに飛ばしてるな」
休憩時間。
プールサイドの縁に座った秋月に、俺はタオルを差し出しながら、そう言った。
秋月は、濡れた髪から水を絞る手を止めて、こちらを見ずに、短く答えた。
「......別に」
「ほんとか?」
「......気温のせい」
「気温が高いと、クロールのペースって上がるのか」
「......たぶん」
「たぶんかよ」
「......体の仕組み」
「体の仕組みは曖昧だな、今日」
秋月は答えなかった。
タオルの端で髪の毛先をつまみながら、プールの水面を見ていた。水面が波打って、日差しを反射して、目に入ると眩しかった。俺も同じ水面を見ていた。二人で同じ水面を見ている間は、お互いの顔を見なくていいので、気が楽だった。
秋月が、ぽつり、と呟いた。
「......水中の、さっきのは、ありがとう」
「さっきも聞いたぞ」
「......聞こえてた?」
「はっきり」
「......じゃあ、もう言わない」
「いや、言えよ。せっかく二度目なんだから」
「......二度、言う、必要、ない」
「必要は俺が決める」
「......勝手」
秋月は小さく舌打ちみたいな音を出してから、タオルで顔の半分を隠した。タオルから出ている目だけが、プールの水面の方を見ていた。
ひなたが遠くから「そうくーん、次のコース入っていい?!」と叫んだ。
俺は「ああ」と返事をしてから、タオルの奥の秋月の顔を、見ないことにした。
見ないでおきたい、という言い方の方が、正しい気がした。
プールの水面は、相変わらず眩しかった。
眩しさのせいで、俺は、いくつかのものに、目のやり場を失っていた。
目のやり場を失った理由を、「プールの眩しさのせい」にしておける間は、きっと、まだ、俺は何も自覚していないことにして、過ごせる。




