世界一のケーキ
七夕の笹は、まだ教室の黒板の横に立っていた。
短冊を結び終えた生徒のほとんどが帰って、教室には数人しか残っていない。桐生はゲー研に、つぐみはバドミントン部に、それぞれ流れていった。
残ったのは、俺と、窓際の席でまだ鞄を開いたまま文庫本を読んでいる秋月と、あと一人――廊下の遠くから、勢いよく近づいてくる足音の主だった。
「そうくーん!」
ドアが勢いよく開いた。
柚木ひなたが、肩で息をしながら、俺の机の前に滑り込んできた。
「お待たせ! 料理部、終わった!」
「催促すんなよ」
「催促してないもん! 時間通りだもん!」
「走り込んできた時点で催促だろ」
ひなたは反論を諦めて、机の横に立てかけてあった俺の保冷バッグに、目を輝かせた。
「それ!」
「これな」
「開けて!」
秋月の視線が、文庫本から、わずかに上がった。一瞬だけこちらを見て、すぐまた文字の上に戻る。ページをめくらない。同じ行を、さっきから何度か読み直している気がした。
俺は保冷バッグのジッパーを開けて、中の白い箱を机の上に出した。
「開けていい?」
「お前の誕生日だろ、お前が開けろよ」
「うん!」
ひなたが両手で箱のふたを開ける。
中には、小ぶりなショートケーキが2切れ、保冷剤と一緒に並んでいた。赤いイチゴが三粒ずつ、白いクリームの上に綺麗に並んでいる。
「いちご!」
「去年ブルーベリーだったからな」
「覚えてたの!?」
「覚えてたから作り替えた」
「世界一!」
ひなたが両手を頬に当てた。
毎年、この一言を言う。小学校の時からずっと言う。元気のよさもテンションも、全部、あの頃と同じだ。幼馴染というやつだ。
照れくさいので俺は視線を逸らした。逸らした先に、秋月の席があった。
秋月は、本を閉じていた。
指で栞を挟む動作が、やけに丁寧だった。
「秋月」
「......」
「ケーキ、2切れあるんだけど」
「......2切れ」
「1つはひなた。もう1つは、持ち帰るつもりだったけど、ここで食うか?」
秋月は、視線を本の表紙に落としたまま、数秒黙った。
「......別に、頼んでない」
「頼まれてもないけど、用意した」
「......私の分じゃない」
「誰の分でもないのがここにある。食う、食わないだけだ」
秋月は、もう一度数秒黙って、それから鞄の取手から手を離した。
「......いただく」
* * *
ひなたがプラスチックのフォークを3本、俺の机の上に並べた。料理部で余ったのをもらってきた、らしい。
秋月が静かに近づいてきて、俺の隣の席――つぐみの席に、そっと座った。
ひなたが、反対側から、身を乗り出すようにして座る。俺を挟んで、右にひなた、左に秋月。構図としては賑やかな方と静かな方に挟まれて、俺だけがその両方を受け止める中央みたいな位置になった。
「いただきます!」
「......いただきます」
ひなたの声は明るく、秋月の声は小さかった。
ひなたがフォークで大きくケーキを削って、一口で頬張った。目を閉じて、頬を両手で押さえた。
「世界一!」
「2回目だぞ」
「何回でも言う!」
秋月は、フォークでスポンジの端を小さく削っていた。あまりに小さく削るので、フォークに乗っているクリームの方が多い。一口、と呼ぶには繊細すぎる量だった。
それを、口に運んだ。
噛むというより、確かめる動作だった。
目を、ほんの少しだけ閉じた。
「......美味しい」
静かな声だった。
ひなたの「世界一」とは別方向の、ひそやかな肯定。俺はなぜかそっちの方が、より深く、耳の奥に落ちてきた気がした。気がしただけだ。気がしただけにしておきたい。
「......これ、藤宮が、作ったの?」
「俺が作った」
「......どのくらい、時間がかかる」
「スポンジから焼くから、まあ3時間くらいか」
「......3時間」
「ケーキは待ち時間が長いんだ。焼いてる間と冷ましてる間」
「......」
秋月は、ひなたの頬を見た。
口いっぱいにクリームを詰め込んで、幸せそうに目を閉じているひなたを。
そして、言った。
「......毎年、作ってるの?」
小さな、静かな問いだった。
俺は少し考えてから、頷いた。
「ああ。ひなたの誕生日は毎年作ってる」
「......毎年」
「家が隣だからな。うちのおかんとひなたのおかんがママ友で、幼稚園の頃からの付き合いだ。一回作り始めたら、流れでずっとやってるだけだ」
「......そう」
秋月の「......そう」は、ほとんど相槌だった。
でも、語尾のどこかが、普段の「......そう」よりわずかに平たかった。何かを聞いてから、自分の中で一度畳んで、それから吐き出したような、そういう「......そう」だった。
気のせいかもしれない。今日も気のせいの確率は、やけに高い。
「来年もよろしくね、そうくん!」
「来年まで俺に作り続けさせる前提かよ」
「当たり前じゃん! 世界一なんだから!」
「ハードル上げすぎだろ」
「上げる!」
ひなたが笑う。
秋月はフォークを止めて、もう一度、静かにスポンジを削っていた。
「......凛ちゃんも食べよう! ケーキ!」
「......食べてる」
「もっと! 大きく!」
「......これで、いい」
「遠慮しないで!」
「......遠慮じゃない」
「じゃあなんで!」
「......お行儀」
ひなたは完全に納得できない顔で秋月を見た。
秋月はそれ以上何も言わずに、もう一口、相変わらず小さなスポンジの欠片を口に運んだ。
確かに、秋月の食べ方には、どこかピアノの発表会みたいな丁寧さがあった。ひなたの食べ方を発表会と呼ぶ人間はいない。
* * *
「あ! そうだ!」
ひなたが急に思い出したみたいに、秋月の方に身を乗り出した。
「凛ちゃんの誕生日っていつ?! ひなたも何かあげる!」
「......教えない」
「なんで!」
「......教えたくない」
「ひなたにも?!」
「......特に、藤宮に」
「俺名指しかよ」
「......あなたには、知られたら、困る」
「何が困るんだよ」
「......」
秋月は答えなかった。
代わりに、文庫本の栞の位置を指で確認するふりをして、視線を逸らした。
「ねえねえ、ひなたには教えていい?」
「......柚木さんになら、いい」
「やった! いつ?」
「......聞いても、言わない」
「ずるーい!」
ひなたがテーブルに突っ伏した。
秋月は、その突っ伏したひなたの後頭部を、少しだけ長めに見つめていた。
気のせいかもしれないが、表情がほんのわずかだけ、緩んだ気がした。
俺はどちらの味方もしないことにした。どちらの味方についても、何かを失う気がしたからだ。
* * *
ケーキを食べ終わって、箱とフォークを片付ける。
箱は俺が保冷バッグに戻し、フォークはひなたが料理部の袋にまとめてくれた。秋月は教室のゴミ箱の位置を確認してから、紙ナプキンを一枚ずつ、丁寧にたたんでまとめていた。
帰り支度をして、三人で下駄箱へ向かう。
ひなたが「ありがとそうくん、世界一!」と通算3回目の世界一を叫んで、俺を叩いた。ひなたの「叩く」は、ほぼパントマイムだ。
下駄箱を出て、校門を抜けた。ひなたの家は俺の家の隣、秋月の家は分岐を反対方向。
分岐点で、秋月は立ち止まった。
「......じゃあ」
「おう」
「......ケーキ、ありがとう」
秋月はひなたの方をちらりと見て、それからもう一度、こちらには視線を合わせず、短く付け足した。
「......柚木さん、誕生日おめでとう」
「うん! ありがとう凛ちゃん!」
「......」
秋月は頷いて、反対側の道へ歩き出した。
数歩進んだところで、一度、立ち止まった。
振り返りはしなかった。
そのまま、また歩き出した。
夕方の光が、秋月の背中に薄く伸びて、そのまま角を曲がって見えなくなった。
俺は少しの間、その方向を見ていた。
なぜ見ていたのかは、自分でもよくわからない。
「そうくん」
「ん」
「凛ちゃん、今日ちょっと静かだったね」
「......そうか?」
「静かだったよ」
「秋月はいつも静かだろ」
「いつもと違う静かだった」
ひなたは、そう言って、くるっと俺の方を向いた。
目が、真っ直ぐだった。
「ひなた、わかるよ。そういうの」
ひなたはそう言って、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「でもまあ、いっか! ケーキ美味しかったし!」
「話戻ったな」
「戻った! 世界一!」
ひなたが先に歩き始める。
俺は、角の向こうに消えた秋月の残像を、もう一度だけ視界の端で探した。見つからなくて、そのまま歩き出した。
「毎年」の二文字が、なぜか頭の中で小さく反響している。ひなたの誕生日のケーキを、俺は毎年作ってきた。それだけの話のはずだ。
なのに、秋月がその一語を拾い上げた時の声の平たさが、夕方の空気と一緒に、耳の奥にまだ残っている。
気のせい、だと思う。
思うことに、した。




