七夕の短冊
7月7日、七夕。
朝、教室に入ると、黒板の横に、妙にでかい笹が立っていた。
根本はプラスチックのバケツで、バケツの中には砂と水、倒れないように床にガムテープで補強してある。花園先生、本気だ。
「なにこれ」
「七夕。生徒会が各クラスに配布したんだってさ」
隣の席に鞄を置きながら、桐生が教えてくれた。机の上には、色とりどりの短冊が束で置かれている。桃、黄、水色、白。マジックペンも添えてある。
「高校で短冊書くのか」
「書くらしいぞ。朝のうちに書いて、放課後までに結べだとさ」
「昭和の小学校か」
「お前も一緒に昭和の小学校に行け」
桐生は水色の短冊を一枚つまみ上げて、マジックをくるくる回し始めた。
「で、お前何書くんだよ」
「......『毎日美味い飯が食えますように』」
「夢ちっさ!」
桐生が机を叩いた。
「おまえ、自分で弁当作ってんだろ! 母さんの分まで作ってんだろ! もう叶ってんだろその願い!」
「だから『毎日』って部分が続くように願うのが大事なんだよ。食卓が平和ってのは結構大事だぞ。世界平和のミニチュア版だ」
「急にスケール大きくすんな」
桐生は笑いながら、自分の短冊に何か書き始めた。盗み見したら「推しが卒業しませんように」と書かれていて、俺は黙ってもう一度自分の短冊に視線を戻した。
俺の左隣、窓際の席。
秋月がマジックを持ったまま、手を止めていた。短冊には、まだ何も書かれていない。黄色の短冊だ。
「秋月は書かないのか」
「......まだ」
「まだ、か」
「......まだ」
それ以上は突っ込まないことにした。考え中、の顔だ。これは長い。
* * *
昼休み。
弁当を広げていると、隣のクラスからひなたが飛び込んできた。
「そうくーん! 短冊書いた?」
「書いたぞ」
「見せて!」
俺は裏返しに置いてあった短冊を、とっさに手のひらで隠した。
「見せない」
「なんで!」
「夢ちっさって言われたからだ」
「見たい!」
ひなたが身を乗り出して取ろうとした勢いで、俺の指の間から、短冊が一瞬だけ見えてしまった。
「......『毎日美味い飯が食えますように』」
「......」
「そうくん、夢ちっさ!」
ひなたまで。
「お前もか」
「だって毎日おいしいごはん作ってるじゃん!」
「それが続くようにって意味な!」
ひなたはぷっと吹き出してから、自分の桃色の短冊をぺたりと机に置いた。
元気のいい、でかい字で、こう書かれていた。
『そうくんとずっと一緒にいられますように』
「......」
「どう?」
「......ひなた、それ、小学校の時に書いた作文と一字も変わってねえな」
「だってほんとにそう思ってるもん!」
ひなたは、にっこり笑った。
小学1年の最初の授業参観の作文。ひなたが書いたタイトルが「そうくんとずーっといっしょ」だった。読み上げた時、俺の母さんとひなたの母さんが、教室の後ろで吹き出した。あの日と同じ字だった。大きさも、勢いも、迷いのなさも。
幼馴染、というやつだ。
友情だ。ひなたの中のひなたらしさだ。
俺はそう受け取って、弁当の卵焼きを一つ、ひなたの口に放り込んでやった。ひなたが「あまい!」と嬉しそうに言う。
視界の端で、窓際の席の方、秋月がこちらを見ていた、気がした。
視線が合いそうになって、合わなかった。秋月は机の上の自分の短冊に視線を落としていた。マジックのキャップはまだ閉まったままで、手元の短冊は朝とまったく同じ、白紙の黄色のままだった。
合わなかっただけなのか、合わせなかったのか。そこまでは、俺にはわからなかった。
* * *
5時間目が始まる直前。
笹の前に、秋月が立っていた。
手にはまだ、白紙の黄色い短冊と、マジックペン。
廊下から水を買って戻ってきた俺は、棒立ちになっているその背中を見かけて、近づいた。
「まだ書いてないのか」
「......願い事が、ない」
「嘘つけ」
「......嘘じゃない」
「目、泳いでるぞ」
「......泳いでない」
泳いでいた。だいぶ泳いでいた。水族館レベルで泳いでいた。
「無理に書かなくてもいいけどな」
「......別に、書かないわけじゃない」
「じゃあ書けよ」
「......考え中」
「朝からずっと考えてるだろお前」
「......考える時間は、人それぞれ」
正論っぽいことを言って逃げる時の秋月の顔を、俺は覚え始めていた。
秋月はもう一度笹を見上げて、マジックのキャップを、かちりと外した。
何か書こうとして、止まって、また書こうとして、止まる。
結局、何を書いたのかは、俺には見えなかった。秋月が短冊を自分の体で隠したからだ。
書き終わると、秋月は笹の下の方の枝に、細い糸で結びつけた。結び目が少し歪んだ。それを見て「......結び方が、雑」と小さく呟いて、結び直しはせずに、そのまま立ち去った。
「おい、何書いたんだよ」
「......内緒」
「内緒か」
「......見たら、消す」
消すって、どうやって。マジックで書いてあるのに。
俺は何も言わずに、秋月の背中を見送った。
* * *
放課後。
桐生はゲー研、ひなたは料理部、つぐみはバドミントン部。みんな散らばった後の、静かな教室。
俺は、鞄を持って、ドアに手をかけた。
そのまま帰るつもりだった。
なのに足が、ドアじゃなくて、笹の方に向いた。
そういうことにしておきたい。
秋月が結んだ短冊は、笹の下の方で、風もないのに、わずかに揺れていた。
黄色い短冊。細い字で、小さく、一行だけ書かれていた。
『迷わないように』
俺は、吹き出した。
声を出して、一人で笑った。
教室にもう誰もいなくてよかったと、心の底から思った。
迷わないように。
七夕で、短冊で、笹にぶら下げる願い事で、真顔で、まじめに、迷わないように、って書くやつ。
世界で一人しかいないだろ、そんなやつ。
方向感覚の話なのか、人生の話なのか。たぶん、本人の中では区別がついていない。どっちの意味でもあって、どっちの意味でもないのだろう。避難訓練で遭難する女が書くにしては、あまりに切実で、あまりに秋月だった。
小学校から中学校まで5回転校した、と秋月は以前言っていた。迷子になるのは校内の話だけじゃないのかもしれない、と少しだけ思った。思ってすぐ、深入りしそうになった自分を引き止めた。そこは、短冊一枚で踏み込んでいい場所じゃない。
俺はしばらく、笹の前で一人で笑っていた。
笑いながら、どこかで、ちょっとだけ、胸の奥のあたりが温かくなっていた。
たぶんその温かさは、笑いの余波だ。
そういうことにしておきたい。
帰り道、俺はずっと、頭の中で「迷わないように」を反芻していた。
隣を見ても、秋月はいなかった。先に帰ったのだろう。分岐点まで一人で歩きながら、俺はふと、自分の短冊の文字を思い出した。毎日美味い飯が食えますように。
秋月の短冊と並べたら、どう見ても俺の方が夢ちっさだ。
認めたくないが、事実だ。




