梅雨空の放課後
雨が続いている。
梅雨入りからもう2週間を超えた。降ったり止んだりを繰り返しているが、傘なしで過ごせる日はほとんどない。教室の窓の外は、灰色のグラデーションが朝から夕方まで途切れずに続いていた。
今日は、その梅雨の中でも特に強い日だった。
6時間目が始まる頃から雨脚が強くなって、終わる頃にはバケツを引っ繰り返したような勢いになった。
* * *
放課後。
ホームルームが終わって、生徒たちが教室を出始めた頃には、雨はピーク手前くらいの強さに到達していた。傘を持ってきている生徒も、廊下の窓から空を見上げて躊躇していた。
俺は今日、紺の折り畳みを鞄に入れていた。秋月からもらった新品を、本格的に投入する日が来たということだ。家を出る時に「今日はさすがに降る」と母さんに念を押されたから、忘れずに持ってきた。
しかし、傘を開いて外に出る勇気は、今の雨脚の前では砕けた。視界が霞むレベルだ。傘ごとびしょ濡れになる未来しか見えない。
止むのを待つことにした。
教室の窓際の席に、秋月がいた。鞄を肩にかけた状態で、もう一度椅子に座り直していた。秋月も同じ判断をしたらしい。
「秋月、これ無理だろ」
「......無理」
「止むまで待つか」
「......そうする」
他のクラスメイトはほぼ全員教室を出ていた。残ったのは、俺と秋月の二人だけ。
俺は秋月の前の席――つぐみの席に、逆向きに座った。机を挟んで、二人の視線が外の雨を共有する角度になる。
窓の外の雨音だけが、教室を満たしていた。
* * *
しばらく沈黙が続いた。気まずい沈黙ではなかった。雨音があれば、人は意外と黙っていられる。
俺は鞄から財布を取り出して、立ち上がった。
「自販機行ってくる。何か飲む?」
「......いい」
「待ってる時間、長くなるかもしれないぞ」
「......じゃあ、何でも」
何でも、と言われたら俺の判断だ。秋月の好みはまだ完全にはわかっていない。雨で少し肌寒いことを考えると、温かい方が無難だろう。
廊下の自販機で、ホットの缶ミルクティーを2本買った。
教室に戻って、1本を秋月に差し出した。
秋月は受け取りながら、缶のラベルを見て、少しだけ眉を寄せた。
「......ミルクティー?」
「ああ。それでよかったか?」
「......別に、ブラック派だけど」
ブラック派。
唐突な自己申告だった。
高校2年生がブラック派を主張するのは少し背伸びな気もしたが、秋月ならまあ、ありそうな気もする。クールキャラで通っているし。
「......ミルクは飲む?」
「......飲まないわけじゃない」
「飲むんだな」
「......」
秋月はそれ以上反論せずに、缶のプルタブを開けた。一口飲んで、何か言いたそうな顔をして、結局何も言わなかった。俺も自分の缶を開けて、一口飲んだ。
窓の外の雨音と、缶を開ける音と、二人分の小さな飲み込む音だけが、教室にあった。
* * *
二人きりの教室は、不思議と気まずくなかった。
いつもなら俺の周りには桐生やつぐみがいて、誰かが何かを話している。今日はその誰もいなくて、雨音だけが背景音だった。
秋月が、ふと口を開いた。
「......最近、何か本読んだ?」
「読んでない。料理本は時々読むけど」
「......料理本」
「母さんの本棚の。煮物の下味とかの」
「......それ、本?」
「本だろ。紙で綴じてあれば本だ」
「......定義が、雑」
「お前の薄切りの定義よりはマシだろ」
「......話、逸らした?」
「お前が逸らした」
秋月は反論しようとして、少し考えて、反論を諦めた。
「お前は、何か読んだのか」
「......最近は、短編集を一冊」
「タイトルは」
「......言わない」
「なんで」
「......恥ずかしい」
「恥ずかしいって、どんなジャンルだよ」
「......恋愛じゃない」
「恋愛じゃないなら何で恥ずかしいんだ」
「......言わないって言ったから、もう言わない」
秋月は短編集のタイトルを最後まで言わなかった。
でも、本の話をしている秋月は、いつもより少しだけ饒舌だった。短文の応酬だが、応酬がちゃんと続いている。
秋月とこんなに長く会話したのは、たぶん、初めてに近い気がした。
「秋月って、結構話すんだな。二人の時」
俺はそう言った。
軽く言ったつもりだった。
秋月の缶を握る手が、ぴたりと止まった。
窓の外を見ていた視線が、缶の側面に落ちた。
返事がなかった。
沈黙が、雨音より重くなった。
俺は焦った。たぶん言い方を間違えた。
「......悪い意味じゃない」
「......」
「嬉しいって意味だ。話してくれて」
秋月は、まだ缶を握ったまま、視線を窓の外に戻した。
耳のあたりが、いつもより少しだけ赤い気がした。気のせいかもしれない。今日も気のせいの確率は、やけに高い。
「......そう」
短い返事だった。
でも、否定はしなかった。
* * *
その時、教室のドアが勢いよく開いた。
「蒼太! 助けてくれ! 傘忘れた!」
桐生だった。
既にずぶ濡れで、シャツの肩から水が滴っていた。靴下も水を含んでいて、歩くたびにきゅっと音を立てている。
「お前、どこまで行って戻ってきたんだよ」
「校門まで行って引き返した! 半分以上濡れた!」
「半分以上って、もう全身じゃねえかその姿」
「全身の手前だ! 入れてくれ!」
秋月が、ゆっくり立ち上がった。
飲みかけの缶を机に置いて、鞄の取手を握る。
「......私、行く」
「え、まだ降ってるぞ」
「......バスに乗る」
「......そうか」
秋月は鞄を肩にかけて、教室を出ていった。出ていく直前、俺の方を振り返らずに、ほんの少しだけ頭を下げた、気がした。気がしただけかもしれない。
残された俺と桐生は、しばらく沈黙した。
桐生が、滴る前髪を絞りながら呟いた。
「......俺、今、めちゃくちゃ空気壊した?」
「うん」
「......悪い」
「いや、いい」
いいわけなかった。
でも、いや、ということもないのかもしれない。
窓の外の雨は、まだ続いていた。秋月の飲みかけの缶ミルクティーが、机の上に半分残っていた。
ブラック派の癖に、半分はちゃんと飲まれていた。
その事実が、なぜか、少しだけ、可笑しかった。
桐生の前では笑わないでおいた。また何か余計なことを言われる気がしたからだ。




