避難経路で遭難する女
6月の下旬。木曜日の5時間目が、始まってしばらく経った頃だった。
突然、校内放送のチャイムが鳴った。
「これより、避難訓練を実施します。生徒は担任の指示に従い、速やかに校庭へ避難してください」
教頭先生の、事務的な声。
桐生が隣の席で「出た、避難訓練」と呟いた。日程自体は先週のホームルームで告知されていた。時間が告知されていなかっただけで、そのうち来ることはわかっていた。
担任の花園先生が手を叩いて、教室をまとめる。
「はい、机の下に潜る訓練は省きます。そのまま立って、指定の非常階段から校庭に。お喋り厳禁、走らない。忘れ物は後で取りに戻る」
生徒たちが椅子を引いて立ち上がる。教室の空気が一気に動き始めた。
* * *
廊下に出る。
2年3組の避難経路は、教室を出て廊下を左、突き当たりの非常階段を下りて1階、そのまま校庭へ。距離にして100メートルもない。誰が考えても単純な経路だ。
単純な経路のはずだった。
非常階段を下りている途中で、俺は異変に気づいた。
隣にいるはずの秋月の気配が、ない。
「......」
振り返る。
階段の上にも下にも、秋月はいなかった。
前方の列には桐生の後ろ姿が見える。その前にもクラスメイトが続いている。秋月はいつも桐生の後ろあたりを歩いていたはずだ。それが、いない。
同じクラスのつぐみが俺の前にいた。彼女が振り返って、俺の顔を見て、すぐに状況を察した。
「......凛、どっか行った?」
「たぶん」
「あの子、避難訓練でまでやるの?」
「やるんだろうな」
「頼むわ」
つぐみは呆れた顔で前を向いた。彼女から「頼むわ」と言われた以上、探しに行くのは俺の担当だ。もうそういうことに、なっている。
階段を一段飛ばしで降りた。列から外れて、廊下を反対方向に戻り始める。周りの生徒がちらちら見てくるが、気にしている余裕はない。
ポケットのスマホが、震えた。
LINE。
秋月からだ。
『......どっち』
一言だけだった。
一言だけで、十分だった。
入学してからこの2カ月半、俺は秋月のこの一言LINEを何度受け取ったかわからない。「......体育館」「......理科室」「......音楽室」。場所を示す名詞一個。または今回のように、方角を問う疑問詞一個。
秋月は、俺にだけ、こうやって助けを求める。
俺はその場で立ち止まり、返信した。
『お前今どこ』
『......非常階段』
『どこの非常階段だ』
『......階段の踊り場』
『どの階の踊り場だよ』
『......わからない』
お決まりの応答だった。秋月のLINEに具体性を求めてはいけない。これは経験で学んだ。
俺は諦めて、校舎の非常階段を順番に当たることにした。2年3組が使っているのは校舎北側の階段。他にも東と南に階段がある。秋月が本来の経路から外れているなら、東か南に迷い込んでいる可能性が高い。
* * *
東側の非常階段。
踊り場に、秋月が立っていた。
壁に貼られた避難経路の案内図と、手元のスマホの地図アプリを、視線が交互に往復している。真剣な横顔だ。真剣なのが、逆に情けなかった。
「秋月」
「......あ」
秋月が顔を上げた。見つかって安心した、というよりは、見つかってしまって気まずい、という顔だ。
「お前、避難訓練で遭難する気か」
「......遭難は、していない」
「じゃあ何してんだよ」
「......階段が、多すぎる」
秋月は壁の避難経路図を指差した。確かに、案内図には校舎の階段が複数書き込まれている。2年3組の教室から校庭までの経路には、一つしか非常階段を使わないが、その「一つ」が複数ある階段のうちのどれか、というのが秋月には判断できなかったらしい。
「......たまたま、別の階段を使っただけ」
「たまたまじゃ避難訓練で校庭に辿り着けないんだよ」
「......校庭は、行ける。方向は、合ってる」
「方向が合ってても階段を間違えたら到着が遅れるだろ」
「......少しだけ」
少しじゃない。今頃クラスはもう校庭で整列が終わっている頃だ。
俺は秋月の肘のあたりを軽く引いて、階段を下りるよう促した。
「行くぞ。校庭は北側だ。こっちから下りても着くけど、大回りになる」
「......大回り?」
「お前が東の階段にいるからだ」
「......案内に従った」
「従った結果がこれだ」
秋月は反論しなかった。反論できない時の秋月は、黙って俺の半歩後ろをついてくる。
* * *
校庭に出た時、クラスはすでに整列を終えていた。
グラウンドの端に2年3組の列がある。担任の花園先生がクリップボードを持って、人数をチェックしていた。俺たちが現れると、視線が一斉に動いた。
花園先生は俺たちを見ると、クリップボードの数字を一つだけ書き換えて、それから眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「はい、藤宮くんと秋月さん、入りなさい」
俺たちは慌てて列の最後尾に並んだ。
花園先生は何も言わずに点呼を続けている。続けていると見せかけて、俺の方をちらっと見た。
「......秋月さんと藤宮くん、一緒に遅れてきたの? ふーん......」
花園先生の「ふーん」には、他の教師にはない、独特の余韻があった。
秋月が即座に反応した。
「......誤解です」
「あら、何も言ってないわよ?」
花園先生はにっこり笑った。眼鏡の奥の目が、笑っていなかった。
秋月は黙って、視線を地面に落とした。耳のあたりが少しだけ赤くなっている気がしたが、たぶん気のせいだ。校庭の日差しのせいだ。
桐生が列の前方からこっちを振り返って、にやにや笑っていた。
つぐみがその横で「だから言ったでしょ」と桐生に小声で何か言っている。つぐみがいつから桐生に何を言っていたのかは、俺には推測できない。推測したくもない。
点呼が終わり、全校生徒の前で校長先生の長い話が始まった。避難に要した時間、反省点、備蓄品の話。聞いているようで聞いていない生徒が大半で、俺もその大半の中にいた。
隣に立つ秋月は、地面の一点を見つめたまま、動かなかった。時々、靴の先で地面の砂を小さく蹴っている。耳はまだ少しだけ赤い気がした。日差しのせいだと自分に言い聞かせたが、空は相変わらず梅雨の薄曇りで、強い日差しはなかった。
避難訓練が終わる頃には、俺は今日の自分の評判が微妙な方向に確定したことを、はっきりと自覚していた。
避難訓練の意義とは、なんだったのか。
教室に戻る列の中で、桐生が肩を叩いて「ドンマイ」と言ってきた。何にドンマイされたのかは、聞かないことにした。




