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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
雨のにおい

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凛の独白 ―― なんでだろう

 帰り道。

 一人だった。

 藤宮(ふじみや)は、家庭科の先生に何か聞かれて、職員室に寄ると言った。先に帰ってていいよ、と言った。いつもなら、分岐点まで一緒に歩く。今日は、一人で歩いている。

 一人の帰り道は、静かだった。

 アスファルトを踏む自分の靴の音が、いつもより大きく聞こえる。普段は藤宮(ふじみや)の足音と混ざっている音が、今日は私の分だけだ。

 ちょうどよかった、と思った。

 一人でいる時の方が、考え事がしやすい。

 空は曇っていた。梅雨の空だ。けれど雨は落ちてこなかった。住宅街の塀の向こうで、誰かの家の犬が鳴いていた。2回、短く、それから黙った。

 いつも通りの道のはずだった。

 いつも通りのはずなのに、藤宮(ふじみや)がいないだけで、景色の角度が少し違って見えた。


 * * *


 今日、言えた。

 「......助けてくれて、ありがとう」。

 声は小さかった。でも、言えた。頭につけた「......」は、いつもの癖で、消せなかった。でも、その後に続いた言葉は、否定形ではなかった。

 ありがとう、と言えた。

 転校のたびに、言えなくなっていった言葉だ。

 最初は言えていた。小学校1年の時。友達に何かをしてもらったら、普通に「ありがとう」と言えた。

 2回目の転校の後、言う回数が減った。友達にならなければ、ありがとうを言う機会もない。どうせいなくなる人に、感謝を伝える必要もない。

 3回目の転校の後、もっと減った。

 4回目で、ほぼゼロになった。

 5回目で、私はもう誰にも「ありがとう」を言わない人間になっていた。


 でも、今日、言えた。

 なんでだろう。


 * * *


 家に着いた。

 玄関で靴を脱ぐ。お母さんは買い物に出ていて、まだ帰っていない。

 階段を上がって、自分の部屋に入る。

 鞄を床に置いて、制服のままベッドに倒れ込んだ。

 天井が見える。

 白い天井。染み一つない。この天井を見上げるのも、まだ慣れない。それ以前の家の天井は、もう思い出せない。

 目を閉じた。


 藤宮(ふじみや)の手が、浮かんだ。


 包丁を握る手。

 人差し指を刃の背に添えて、残りの指で柄を包む。玉ねぎが音もなく薄切りになっていった。刃が入る角度が、毎回同じだった。迷いがなかった。

 料理をする人の手だった。

 綺麗だった。

 指がすらっとしていて、爪が短く切ってあって、皮膚に料理の跡が少しだけついていた。油で荒れている部分もあった。でも、その荒れ方が、丁寧に手入れされた荒れ方だった。


 私は、自分の右手を天井の方に持ち上げた。


 爪は短い。ピアノを弾いていた頃の名残だ。小学校3年までやっていた。転校で先生が変わって、変わって、変わって、気づいたら弾かなくなっていた。

 爪は短いが、指は細かった。細すぎて、力が入らない。包丁を握っても、握る場所が定まらない。

 私の手は、何も作れない。

 野菜を切れない。ルーを正しいタイミングで入れられない。クッキーは、たぶん、焼けない。

 ......でも、練習すれば、できるようになるのかもしれない。

 ふと、そう思った。

 思ってから、少し驚いた。こんなことを思ったのは初めてだ。

 「できるようになりたい」なんて、前は思ったこともなかった。

 できなくても、困らない。

 困らないように、生きてきた。

 できるようになりたいと思うこと自体が、いなくならない前提の感情だ、と、いつからか気づいていた。転校が決まれば、練習は無駄になる。だから、練習しない。できるようにならなくても、諦めれば済む。

 諦めることに、私は慣れていた。

 それなのに、今日、私は「できるようになるのかもしれない」と思った。

 どうして、そう思ったんだろう。


 * * *


 枕元のスマホが震えた。

 つぐみからのLINE。


 『今日の(りん)、めずらしくかわいかったよ』


 短い一文だった。

 私は少し考えて、返信した。


 『......意味がわからない』


 本当は、少しだけ、わかった。

 つぐみが何を言っているかは、なんとなくわかった。でも、認めると負けな気がした。何に負けるのかは、わからない。

 すぐに返信が来た。


 『(りん)、認めるのが遅いよ』


 私は短く返した。


 『......別に、認めてない』


 またすぐ返信。


 『それそれ。その「別に」が今日何回出たか、あたし数えてるからね』


 私はスマホを伏せた。

 つぐみは、たぶん、私のことを見抜いている。前からそうだった。初めて話した日から、つぐみは私の壁を、壁として扱ってくれなかった。

 「壁、ある人って、だいたい壁の向こうで寂しがってるんだよ」

 つぐみが、いつだったか、そう言った。

 その時、私は否定した。否定したことを、覚えている。

 今日、私は、壁の向こうで寂しがっていたのだろうか。


 * * *


 スマホを裏返したまま、胸の上に載せた。

 息を吸って、吐いた。

 目を閉じた。

 藤宮(ふじみや)の「おう」が、耳の奥で繰り返された。

 軽かった。

 軽すぎて、逆に優しかった。

 重い返事をされたら、私はきっと「......やっぱり何でもない」と撤回していた。そういう性格だから、自分でわかる。藤宮(ふじみや)は、たぶん、それを知っていた。だから、「おう」だった。

 藤宮(ふじみや)は、私の壁を、無理に壊そうとしない。

 ただ、壁の近くに立っていて、私が壁の向こうから何か言うのを、待っている。

 ......なんでだろう。

 なんで、藤宮(ふじみや)の前だと、壁が薄くなるんだろう。

 なんで、ありがとうが、言えるんだろう。

 なんで、今日、「次は、私も」と口にしたんだろう。

 「私も」の続きを、藤宮(ふじみや)は聞き返さなかった。聞き返されていたら、私は答えられなかった。答えは、私の中にもまだ、なかった。

 でも、たぶん、あるのだと思う。答えは、私の中のどこかに、ある。

 見つけるのが、怖い。

 見つけてしまったら、もう、転校してもいなくならない何かを、持ってしまう。

 持ってしまったら、いつか、失う日が来る。

 その日を、想像してしまう。

 ......それが、怖い。

 ......でも、たぶん、もう、遅い。

 目を開けた。

 白い天井が、まだそこにあった。

 今日の帰り道の、藤宮(ふじみや)のいない足音が、まだ耳の中で残っていた。

 一人の帰り道は、静かだった。

 ......静かすぎた。

 ベッドの端に座り直して、窓の外を見た。

 まだ明るい。梅雨の曇り空は、夕方になるとかえって白く見える。どこかの家の屋根の向こうで、カラスが鳴いていた。

 私はスマホを手に取って、画面を点けた。

 藤宮(ふじみや)とのトーク画面を開いた。

 最後のメッセージは昨日の「......体育館」。私から送った、地名だけの一言。

 少し考えて、画面を閉じた。

 今、送る言葉はない。

 ないのに、指が画面の上でさまよっていた。

 ......なんでだろう。

 窓の外の光が、少しだけ弱くなっていた。


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