......助けてくれて、ありがとう
野菜は、なんとかなった。
秋月が切った玉ねぎの半分は俺が切り直し、ピーラーで削られた人参はつぐみが小さめの乱切りに加工した。厳密にはレシピ通りではないが、食べられない形状ではない。
鍋の前では、桐生が肉を炒めている。玉ねぎを投入し、人参とジャガイモを加え、水を注ぐ。ここまでは俺が工程表を口頭で指示した通りに進んだ。ここから先、カレールーを溶かすだけだ。
失敗のしようがない。俺はそう思っていた。
秋月の担当を、ルー投入に割り振った時点で、一抹の不安はあった。でも、鍋の中身を混ぜるくらいならできるだろうと判断した。判断したこと自体が甘かったと、数分後にわかる。
* * *
「秋月、そろそろルー入れていいぞ」
俺は自分の手を洗いながら、秋月に声をかけた。
火を止めて、ルーを半分に割って、鍋に沈めて、完全に溶かしてから火を再点火する――そういう手順を、さっき口頭で伝えてあった。
伝えてあった、はずだった。
振り向いた時、秋月は鍋の前に立っていた。手にはカレールーの箱。
火は、ついたままだった。
秋月は箱から銀色の包みを取り出し、ビニールを剥がし、中身を――固形のルーを、塊のまま、沸騰している鍋にドボンと投入した。
「おい!」
俺の声が、半テンポ遅れた。
ルーが鍋の表面で浮いて、周りの沸騰した液体に一瞬だけ溶けかけて、すぐに表面が固まり始めた。熱で外側だけが溶けて、中は塊のまま。
そして底で何かが焦げる音。
秋月がもう一塊、投入しようとしていた。
「待て待て待て。まず火を止めろ」
「......え」
「止める! 今すぐ!」
秋月は反射的にコンロのつまみを回した。火が消える。
鍋を覗き込むと、半分だけ溶けたルーの塊が、具材の間でぷかぷか浮いていた。まだダマになる前の、ぎりぎりのタイミング。セーフか、アウトか、半々だ。
「秋月、レシピ読んだか」
「......読んだ」
「火を止めろって書いてあっただろ」
「......書いてあった」
「なんで入れた」
「......沸騰してたから、溶けやすいかと思った」
「......」
秋月の理屈には、一貫性はあった。沸騰している液体の方が物を溶かしやすいのは、化学的には正しい。でもカレールーは、そういうわけにいかない。それだけのことだ。
「レシピ通りにやらないと、失敗するんだ」
「......レシピ通りに、やった」
「どのレシピだよ」
秋月は黙った。
つぐみが後ろで「凛、創作料理は応用編になってから挑戦しよ?」と優しい声で言った。桐生が「創作......」と小さく呟いていた。
* * *
リカバリーに回った。
お玉でルーの塊を一つずつ砕き、具材ごとかき混ぜて、弱火で温度を戻しながら溶かしていく。底が焦げていないかを確認し、焦げの匂いが立つ前にもう一度火を落とす。
10分かけて、なんとか均一にとろみがついた。見た目は普通のカレーだ。色も悪くない。具材の乱切りが微妙に小さすぎるのと、人参が細いのを除けば、ほぼ教科書通りの仕上がりになった。
「よし、完成だ」
「おお〜、普通にカレーじゃん」
つぐみが安堵した声を出した。桐生は「奇跡だな」と呟きながら皿にご飯を盛っている。
秋月は、鍋の横で無言で立っていた。自分が火を止めずにルーを投入したことを、たぶん、反省している。反省しているが、謝らない。謝り方を知らないのかもしれない。
試食の時間が来た。
4人で家庭科室の隅のテーブルに着き、それぞれの皿にカレーが配られる。
秋月はスプーンを持ったまま、少しの間、皿を見下ろしていた。それから、慎重に一口運んだ。口に入れて、咀嚼して、飲み込んで、もう一口。
「......美味しい」
声は小さかったが、はっきり言った。
俺は笑った。
「ほとんど俺が作ったからな」
軽口のつもりだった。
秋月は箸を――いや、スプーンを、一瞬止めた。
止めてから、少しだけ間を置いて、窓の方を向きながら呟いた。
「......次は、私も」
続きを聞き返さなかった。
聞き返すと、秋月は「......何でもない」と撤回するだろう。そういう仕様の人間だ。
ただ、その「次は、私も」の短い一文に、料理を覚えたいという意思が乗っていることは、俺にもわかった。昨日のクッキーのレシピ検索と、今日の手元を見る目と、今の呟きが、一本の線でつながっている。
つぐみがカレーを頬張りながら、ちらっと秋月を見た。何か言いたそうにして、何も言わなかった。
* * *
片付け。
鍋を洗い、皿を洗い、まな板と包丁を水切りに並べる。
他の班はもう家庭科室を出て行き、俺たちの班は最後になった。桐生とつぐみが先に、「俺たちは教室戻るわ」と荷物を持って出て行った。家庭科室に残ったのは、俺と秋月の2人だけだ。
秋月はフキンでまな板を拭いていた。丁寧だった。切るのは壊滅的だが、拭くのは丁寧。この人の手先の器用さは、工程ごとに極端な差がある。
「秋月、そっちのボウル、俺が洗うから置いといていい」
「......自分で洗う」
「いいから。水切りに載せるだけで済む」
秋月は従わなかった。ボウルを自分の手で洗って、水気を切って、水切りに置いた。
全部の片付けが終わった後、秋月はエプロンを外しかけて、手を止めた。
何か言いたそうな間があった。
俺は待った。
「......藤宮」
「ん?」
「......助けてくれて、ありがとう」
秋月は、俺の方を見ていなかった。視線は水切りに置かれたボウルの方に向いていた。
でも、声ははっきり聞こえた。
「......」は頭についていたが、その後に続いたのは否定でも合理化でもなく、ただ真っ直ぐな感謝だった。
俺は、思わず構えた。何か気の利いたことを返すべきだろうか、と一瞬考えた。考えて、やめた。構えて返したら、秋月は「......やっぱり何でもない」と引っ込めるような気がした。
だから、軽く返した。
「おう」
一文字だった。
秋月は、それを受け取って、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。抜いたように見えた。
エプロンを外して、畳んで、棚に戻す。その一連の動作の手つきが、いつもよりほんの少しだけ緩やかだった。
俺はそれ以上何も言わず、自分のエプロンを外した。
「ありがとう」を言えたこと。
「おう」で済んだこと。
たぶん、どっちも秋月にとっては意味のあることだったのだろう。俺には深いところまではわからない。わからないが、わからないままで、今日はよかったのだと思う。
家庭科室の窓から、梅雨の合間の薄い光が差していた。




