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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
雨のにおい

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28/45

......助けてくれて、ありがとう

 野菜は、なんとかなった。

 秋月(あきづき)が切った玉ねぎの半分は俺が切り直し、ピーラーで削られた人参はつぐみが小さめの乱切りに加工した。厳密にはレシピ通りではないが、食べられない形状ではない。

 鍋の前では、桐生(きりゅう)が肉を炒めている。玉ねぎを投入し、人参とジャガイモを加え、水を注ぐ。ここまでは俺が工程表を口頭で指示した通りに進んだ。ここから先、カレールーを溶かすだけだ。

 失敗のしようがない。俺はそう思っていた。

 秋月(あきづき)の担当を、ルー投入に割り振った時点で、一抹の不安はあった。でも、鍋の中身を混ぜるくらいならできるだろうと判断した。判断したこと自体が甘かったと、数分後にわかる。


 * * *


秋月(あきづき)、そろそろルー入れていいぞ」


 俺は自分の手を洗いながら、秋月(あきづき)に声をかけた。

 火を止めて、ルーを半分に割って、鍋に沈めて、完全に溶かしてから火を再点火する――そういう手順を、さっき口頭で伝えてあった。

 伝えてあった、はずだった。


 振り向いた時、秋月(あきづき)は鍋の前に立っていた。手にはカレールーの箱。

 火は、ついたままだった。

 秋月(あきづき)は箱から銀色の包みを取り出し、ビニールを剥がし、中身を――固形のルーを、塊のまま、沸騰している鍋にドボンと投入した。


「おい!」


 俺の声が、半テンポ遅れた。

 ルーが鍋の表面で浮いて、周りの沸騰した液体に一瞬だけ溶けかけて、すぐに表面が固まり始めた。熱で外側だけが溶けて、中は塊のまま。

 そして底で何かが焦げる音。

 秋月(あきづき)がもう一塊、投入しようとしていた。


「待て待て待て。まず火を止めろ」

「......え」

「止める! 今すぐ!」


 秋月(あきづき)は反射的にコンロのつまみを回した。火が消える。

 鍋を覗き込むと、半分だけ溶けたルーの塊が、具材の間でぷかぷか浮いていた。まだダマになる前の、ぎりぎりのタイミング。セーフか、アウトか、半々だ。


秋月(あきづき)、レシピ読んだか」

「......読んだ」

「火を止めろって書いてあっただろ」

「......書いてあった」

「なんで入れた」

「......沸騰してたから、溶けやすいかと思った」

「......」


 秋月(あきづき)の理屈には、一貫性はあった。沸騰している液体の方が物を溶かしやすいのは、化学的には正しい。でもカレールーは、そういうわけにいかない。それだけのことだ。


「レシピ通りにやらないと、失敗するんだ」

「......レシピ通りに、やった」

「どのレシピだよ」


 秋月(あきづき)は黙った。

 つぐみが後ろで「(りん)、創作料理は応用編になってから挑戦しよ?」と優しい声で言った。桐生(きりゅう)が「創作......」と小さく呟いていた。


 * * *


 リカバリーに回った。

 お玉でルーの塊を一つずつ砕き、具材ごとかき混ぜて、弱火で温度を戻しながら溶かしていく。底が焦げていないかを確認し、焦げの匂いが立つ前にもう一度火を落とす。

 10分かけて、なんとか均一にとろみがついた。見た目は普通のカレーだ。色も悪くない。具材の乱切りが微妙に小さすぎるのと、人参が細いのを除けば、ほぼ教科書通りの仕上がりになった。


「よし、完成だ」

「おお〜、普通にカレーじゃん」


 つぐみが安堵した声を出した。桐生(きりゅう)は「奇跡だな」と呟きながら皿にご飯を盛っている。

 秋月(あきづき)は、鍋の横で無言で立っていた。自分が火を止めずにルーを投入したことを、たぶん、反省している。反省しているが、謝らない。謝り方を知らないのかもしれない。


 試食の時間が来た。

 4人で家庭科室の隅のテーブルに着き、それぞれの皿にカレーが配られる。

 秋月(あきづき)はスプーンを持ったまま、少しの間、皿を見下ろしていた。それから、慎重に一口運んだ。口に入れて、咀嚼して、飲み込んで、もう一口。


「......美味しい」


 声は小さかったが、はっきり言った。

 俺は笑った。


「ほとんど俺が作ったからな」


 軽口のつもりだった。

 秋月(あきづき)は箸を――いや、スプーンを、一瞬止めた。

 止めてから、少しだけ間を置いて、窓の方を向きながら呟いた。


「......次は、私も」


 続きを聞き返さなかった。

 聞き返すと、秋月(あきづき)は「......何でもない」と撤回するだろう。そういう仕様の人間だ。

 ただ、その「次は、私も」の短い一文に、料理を覚えたいという意思が乗っていることは、俺にもわかった。昨日のクッキーのレシピ検索と、今日の手元を見る目と、今の呟きが、一本の線でつながっている。

 つぐみがカレーを頬張りながら、ちらっと秋月(あきづき)を見た。何か言いたそうにして、何も言わなかった。


 * * *


 片付け。

 鍋を洗い、皿を洗い、まな板と包丁を水切りに並べる。

 他の班はもう家庭科室を出て行き、俺たちの班は最後になった。桐生(きりゅう)とつぐみが先に、「俺たちは教室戻るわ」と荷物を持って出て行った。家庭科室に残ったのは、俺と秋月(あきづき)の2人だけだ。

 秋月(あきづき)はフキンでまな板を拭いていた。丁寧だった。切るのは壊滅的だが、拭くのは丁寧。この人の手先の器用さは、工程ごとに極端な差がある。


秋月(あきづき)、そっちのボウル、俺が洗うから置いといていい」

「......自分で洗う」

「いいから。水切りに載せるだけで済む」


 秋月(あきづき)は従わなかった。ボウルを自分の手で洗って、水気を切って、水切りに置いた。

 全部の片付けが終わった後、秋月(あきづき)はエプロンを外しかけて、手を止めた。

 何か言いたそうな間があった。

 俺は待った。


「......藤宮(ふじみや)

「ん?」

「......助けてくれて、ありがとう」


 秋月(あきづき)は、俺の方を見ていなかった。視線は水切りに置かれたボウルの方に向いていた。

 でも、声ははっきり聞こえた。

 「......」は頭についていたが、その後に続いたのは否定でも合理化でもなく、ただ真っ直ぐな感謝だった。

 俺は、思わず構えた。何か気の利いたことを返すべきだろうか、と一瞬考えた。考えて、やめた。構えて返したら、秋月(あきづき)は「......やっぱり何でもない」と引っ込めるような気がした。

 だから、軽く返した。


「おう」


 一文字だった。

 秋月(あきづき)は、それを受け取って、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。抜いたように見えた。

 エプロンを外して、畳んで、棚に戻す。その一連の動作の手つきが、いつもよりほんの少しだけ緩やかだった。

 俺はそれ以上何も言わず、自分のエプロンを外した。

 「ありがとう」を言えたこと。

 「おう」で済んだこと。

 たぶん、どっちも秋月(あきづき)にとっては意味のあることだったのだろう。俺には深いところまではわからない。わからないが、わからないままで、今日はよかったのだと思う。

 家庭科室の窓から、梅雨の合間の薄い光が差していた。


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