カレーライスと壊滅的な包丁
家庭科の調理実習。
教室を出て家庭科室に移動する途中、桐生が隣で「カレー楽勝だろ」と笑っていた。今日のメニューはカレーライスだ。教科書に載っている基本のレシピを、4人1班で作る。
班分けは先週発表されていた。蒼太、秋月、つぐみ、桐生。くじ引きの結果だが、桐生は「くじ引きで秋月さんと同じ班になれる確率を考えると、俺はかなり運がいい」と騒いでいた。俺は「お前のその確率論は桐生主観だ」と一蹴した。
家庭科室に入って、エプロンをつける。
秋月は白いエプロンを器用に結んでいた。後ろで紐を結ぶ動作だけは不器用じゃないらしい。
つぐみが「あたしたちの班、戦力差やばくない?」と小声で言った。
「藤宮くんが料理得意で、凛が......」
「......得意じゃない」
秋月が先手を打った。つぐみの言葉が終わる前に、自分で認めた。
認めたこと自体が珍しい。普段の秋月なら「......普通」くらいは言い張るところだ。たぶん、昨日のクッキーの件で自覚が進んだのだろう。
「大丈夫だろ。カレーは失敗しにくい」
俺はそう言い切った。言い切った俺を、後で呪うことになる。
* * *
工程を分担した。
俺が肉の下処理と炒め。桐生がジャガイモの皮剥きと乱切り。つぐみが計量と洗い物。そして秋月が玉ねぎと人参を担当する。
玉ねぎは薄切り。人参は皮を剥いて乱切り。どちらも基本的な工程だ。
......基本的な工程のはずだった。
秋月が包丁を握った時点で、嫌な予感がした。
握り方が、違う。
包丁の柄を、握手するみたいに鷲掴みにしている。人差し指が刃の背に乗っていない。力の入れどころが全部間違っている。
だが口を出す前に、秋月は玉ねぎに刃を入れた。
ゴッ、という音がした。
切る音ではなかった。叩き割る音だった。
玉ねぎが包丁の下で横滑りして、半分は切れたが、もう半分は潰れた。断面が繊維ごとぐちゃりと崩れている。
「......切れた」
秋月は満足げだった。
切れてない。割れただけだ。
「秋月、それ切ったっていうか、割ったな」
「......切った」
「断面見ろよ。繊維が潰れてる」
「......繊維は、見えない」
「見えないのは目を瞑ってるからだろ」
「......瞑ってない」
秋月は淡々と否定しながら、二つ目に取りかかった。
今度は力の加減を変えたらしく、刃がゆっくり入っていった。だが、まっすぐ下ろせない。斜めに滑って、玉ねぎが三日月型に切れた。
3枚目はさらに細く、4枚目は分厚い。5枚目はまた三日月。
まな板の上に並んだ玉ねぎの切片は、一つとして同じ厚さのものがなかった。
「......薄切り、完了」
「お前の薄切りの定義は何ミリだ」
「......定義は、ない」
「定義しろ」
隣の班の女子が、ちらっとこちらを見て笑いを堪えていた。秋月は気づいていない。気づいていないフリをしているだけかもしれないが。
* * *
玉ねぎの次は人参だ。
皮剥きはピーラーを使う。包丁よりは安全だろうと思っていた。
甘かった。
秋月は人参を左手で握って、右手のピーラーを上から下に引いた。動作自体は正しい。問題は力の加減だ。
ピーラーの刃が人参の表皮だけでなく、その下の実にまで食い込んでいる。一回引くごとに、皮と一緒に実が3ミリほど削れていく。
3回引いた時点で、人参はすでに最初の太さの4分の3になっていた。
「......剥けた」
「剥けすぎだ」
「......まだ皮が残ってる」
「皮はもうないぞ。お前が剥いてるのは全部実だ」
秋月は人参を持ち上げて、不思議そうに見つめた。確かに、最初より一回り細くなっている。
「壊滅的だな」
桐生がジャガイモの皮を剥きながら呟いた。自分のジャガイモは綺麗に仕上がっている。
「......うるさい」
秋月が桐生を睨んだ。桐生は「すんません」と肩をすくめる。この構図、最近多い。
つぐみがカレールーの箱の裏を読みながら、ため息をついた。
「凛、悪いけどその人参、もう乱切りにしちゃおう」
「......乱切りは、どうやるの」
「ランダムに切ればいいんだよ」
「......ランダムは、得意」
「そういう意味のランダムじゃないんだけどな......」
* * *
見かねて、俺がフォローに回った。
肉の下処理を先に済ませ、手を洗ってから秋月の横に立つ。
「貸してみ」
「......自分でやる」
「やるのはいい。その前にちょっと見てろ」
俺は新しい玉ねぎを一つ取って、まな板に置いた。
包丁の握り方を見せる。人差し指を刃の背に添えて、残りの指で柄を包む。猫の手で玉ねぎを押さえて、刃を前後に引くように切る。
薄切りが並んでいく。均一な厚さで、繊維に沿って切れている。
秋月が、俺の手元を見ていた。
じっと見ていた。
普段の秋月は視線を長く留めない。人の目を見る時も、手元を見る時も、数秒で外す。それが秋月のリズムだった。
でも今、その視線が外れなかった。
俺の右手が包丁を動かすたびに、秋月の目がそれを追っている。刃が玉ねぎに入る角度、力の入れ方、切り終わった後の手首の返し。一つ一つの動作を、記録するように見つめていた。
その視線には、いくつかの感情が混ざっていた。料理の腕前への素直な敬意。それから、自分の手元との差に対する悔しさ。さらにその奥に、名前のつかない何かがあった。名前をつけるなら、たぶん「羨ましい」に近い。手作りのものを、平然と作れる人間への羨望。
「......藤宮は、いつからそんなに上手いの」
「小学生の頃から。母さんに仕込まれた」
「......小学生から」
「うちは母さんの夜勤が多いから、自分で作れないと食いっぱぐれるんだよ」
秋月は何も言わなかった。少しだけ唇を引き結んで、また俺の手元に視線を戻した。
次の人参を切り終えた後、俺は包丁を秋月に返した。
「やってみろ。人差し指を背に添えて、引くように切る」
「......うん」
秋月が包丁を握り直した。
さっきよりは、少しだけ、握り方が変わっていた。人差し指の位置が正しくなっている。切った断面は相変わらずガタガタだったが、さっきの「割れた」音は出なかった。小さな進歩だ。
「......どう」
「さっきよりはマシだ」
「......マシ」
「マシは褒め言葉だぞ」
「......微妙な褒め方」
つぐみが後ろで「あの二人、いちゃつかないでほしいんだけど」と桐生に小声で言っているのが聞こえた。いちゃついてない。料理を教えているだけだ。
ただ、秋月の横に立っていると、エプロンの白と、束ねた髪と、真剣に包丁を握る横顔が、思ったより近い位置にあることに気づいた。
......これは調理実習だ。料理の話だ。
集中しろ。カレーに集中しろ。




