クッキーの匂い
6月の半ば。梅雨は続いている。
今日は珍しく朝から晴れていて、教室の空気も少しだけ軽い。窓を開けると風が通る。湿気は残っているが、雨よりはましだ。
4時間目が終わって昼休みになった時、教室のドアが勢いよく開いた。
「そうくん! 食べて!」
ひなたが走ってきた。隣のクラスからの昼休み訪問は毎日のことだが、今日はいつもより声が弾んでいる。
両手で紙の箱を抱えていた。蓋を開けると、クッキーが並んでいる。丸い型で抜いてあって、一枚一枚に砂糖のアイシングが載っている。形も大きさも綺麗に揃っていて、どこかの洋菓子店の商品と言われても通用しそうだ。
「料理部で作ったの! 上手にできたでしょ?」
ひなたが箱を俺の目の前に差し出す。甘いバターの匂いが鼻に届いた。
「もらっていいのか」
「うん! そうくんに食べてほしくて!」
一枚つまんで口に運ぶ。サクッと砕けて、バターの風味が広がる。甘すぎない。生地の焼き加減もちょうどいい。
素直に感心した。
「うまいな、ひなた」
「ほんと!? やったあ!」
ひなたが満面の笑みで跳ねた。俺の褒め言葉一つでここまで喜べるのが、この幼馴染の良いところだ。桐生が「俺にもくれよー」と手を伸ばし、ひなたが「はいはい、桐生くんも」と一枚渡す。桐生が食べて「うっま」と唸った。
教室のあちこちからも視線が集まっている。ひなたのクッキーは見た目が良い。注目を集めるのは仕方ない。
その時、ふと気配を感じた。
教室の隅、窓際の席。
秋月がいた。
いつもの場所に座って、手元のコンビニサンドイッチを見下ろしている。
視線は俺たちの方に向いていない。少なくとも、今は向いていない。ただ、さっきまでは向いていた気がする。ひなたが箱を開けた瞬間あたりに、ちらっと視線が流れたような――そんな感覚が残っていた。
俺はクッキーの箱を持って、秋月の方に歩いた。
「秋月、クッキー食うか? ひなたが作ったやつ」
秋月は窓の外を向いたまま、一拍置いて答えた。
「......別に、いらない」
声は平坦だった。でも、視線がほんの一瞬だけ箱の方に流れたのを、俺は見逃さなかった。見逃さなかったが、追い込んでも秋月は首を縦に振らない。それはわかっている。
「そうか。じゃあ置いとくな、一枚」
俺は秋月の机の端にクッキーを一枚置いた。秋月は何も言わなかった。何も言わなかったが、帰り際にその一枚が消えていたことを、俺は知っている。
秋月はコンビニサンドの袋を、まだ開けていなかった。透明なフィルムの向こうに、卵サンドの黄色が見えている。その黄色を、秋月はじっと見ていた。
ひなたの手作りクッキーと、コンビニの卵サンド。
比べるようなものではないだろう。そもそも比べる理由がない。でも、秋月の視線の落とし方が、いつもよりほんの少しだけ低い気がした。
* * *
つぐみが動いたのは、ひなたが隣のクラスに戻った後だった。
自分の席から立ち上がって、秋月の横に歩いていく。俺からは3メートルくらいの距離だ。声が聞こえる位置。
「凛も料理やってみたら?」
つぐみが軽い声で言った。世間話の延長のような、自然な口調だった。
秋月は窓の外を向いたまま答えた。
「......興味ない」
声は平坦だった。いつもの秋月だ。
ただ、つぐみには見えているはずだ。秋月の目が「興味ない」とは全く違うことを言っていることが。目は窓の外に向いているが、焦点が合っていない。窓の外を見ているのではなく、窓に映った自分の顔を見ているような、そんな目だった。
「ふーん」
つぐみは深追いしなかった。肩をすくめて、自分の席に戻っていく。途中、俺の横を通る時に、つぐみが小声で言った。
「藤宮くん、凛の目、見た?」
「......見た」
「興味ないの顔じゃなかったよね」
「......だな」
つぐみは何も付け足さなかった。ただ、ほんの少しだけ口元を引き締めて、自分の弁当に戻った。
* * *
放課後。
帰りの支度をしていたら、前の方の席で秋月がまだ座っているのが見えた。帰る素振りがない。鞄も開けていない。
代わりに、スマホを見ていた。
秋月が教室でスマホを見ること自体は珍しくない。ただ、画面を覗き込む角度がいつもと違う。少し前のめりで、指先で画面をスクロールしている。何かを読んでいる、というより、何かを探している指の動き方だった。
俺は鞄を持って、秋月の後ろ側を通り過ぎようとした。
その時、一瞬だけ画面が見えた。
クッキーの写真。レシピサイトの、型抜きクッキーのページ。材料の一覧が表示されていて、「薄力粉 100g」「バター 50g」という文字が見える。
俺が後ろを通ったのに気づいたのか、秋月の手が動いた。スマホを裏返しにして、画面を机に伏せる。速かった。反射的だった。
俺は何も見ていないふりをして、そのまま歩いた。
「秋月、帰らないのか」
「......もう少し、いる」
「そうか。じゃあな」
「......うん」
教室を出て、廊下を歩きながら、俺は今見たものについて考えた。
クッキーのレシピ。
興味がない、と昼に言った秋月が、放課後にクッキーのレシピを検索している。
......興味、あるじゃないか。
あるのに「ない」と言う。秋月はいつもそうだ。あるのにない、好きなのに好きじゃない、嬉しいのに嬉しくない。否定形でしか肯定を表現できない不器用さが、あいつの言葉にはいつも混ざっている。
ひなたのクッキーを見た時の、視線の落とし方。コンビニサンドを見下ろした横顔。そして放課後のレシピ検索。
俺にはわかる。秋月は、作りたいのだ。たぶん、誰かに食べてもらいたいのだ。
ひなたがクッキーを差し出した時の、あの弾けるような笑顔。俺が「うまいな」と言った時の、満面の笑み。あの光景を教室の端から見ていた秋月が、放課後にレシピを検索している。
その「誰かに食べてもらいたい」の「誰か」が誰なのかは、俺が考える話じゃない。考える話じゃないから、考えない。考えないことにする。
......にしても、薄力粉100gとバター50gか。秋月がバターを計量している姿を想像してみた。ピーラーで人参を半分の太さにする手つきの持ち主が、50gのバターを正確に切り出せるだろうか。
......いや。想像するな。考えるなと言ったばかりだろ。
帰り道の空は、久しぶりに晴れていた。




