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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
雨のにおい

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26/45

クッキーの匂い

 6月の半ば。梅雨は続いている。

 今日は珍しく朝から晴れていて、教室の空気も少しだけ軽い。窓を開けると風が通る。湿気は残っているが、雨よりはましだ。


 4時間目が終わって昼休みになった時、教室のドアが勢いよく開いた。


「そうくん! 食べて!」


 ひなたが走ってきた。隣のクラスからの昼休み訪問は毎日のことだが、今日はいつもより声が弾んでいる。

 両手で紙の箱を抱えていた。蓋を開けると、クッキーが並んでいる。丸い型で抜いてあって、一枚一枚に砂糖のアイシングが載っている。形も大きさも綺麗に揃っていて、どこかの洋菓子店の商品と言われても通用しそうだ。


「料理部で作ったの! 上手にできたでしょ?」


 ひなたが箱を俺の目の前に差し出す。甘いバターの匂いが鼻に届いた。


「もらっていいのか」

「うん! そうくんに食べてほしくて!」


 一枚つまんで口に運ぶ。サクッと砕けて、バターの風味が広がる。甘すぎない。生地の焼き加減もちょうどいい。

 素直に感心した。


「うまいな、ひなた」

「ほんと!? やったあ!」


 ひなたが満面の笑みで跳ねた。俺の褒め言葉一つでここまで喜べるのが、この幼馴染の良いところだ。桐生(きりゅう)が「俺にもくれよー」と手を伸ばし、ひなたが「はいはい、桐生(きりゅう)くんも」と一枚渡す。桐生(きりゅう)が食べて「うっま」と唸った。

 教室のあちこちからも視線が集まっている。ひなたのクッキーは見た目が良い。注目を集めるのは仕方ない。


 その時、ふと気配を感じた。

 教室の隅、窓際の席。


 秋月(あきづき)がいた。


 いつもの場所に座って、手元のコンビニサンドイッチを見下ろしている。

 視線は俺たちの方に向いていない。少なくとも、今は向いていない。ただ、さっきまでは向いていた気がする。ひなたが箱を開けた瞬間あたりに、ちらっと視線が流れたような――そんな感覚が残っていた。

 俺はクッキーの箱を持って、秋月(あきづき)の方に歩いた。


秋月(あきづき)、クッキー食うか? ひなたが作ったやつ」


 秋月(あきづき)は窓の外を向いたまま、一拍置いて答えた。


「......別に、いらない」


 声は平坦だった。でも、視線がほんの一瞬だけ箱の方に流れたのを、俺は見逃さなかった。見逃さなかったが、追い込んでも秋月(あきづき)は首を縦に振らない。それはわかっている。


「そうか。じゃあ置いとくな、一枚」


 俺は秋月(あきづき)の机の端にクッキーを一枚置いた。秋月(あきづき)は何も言わなかった。何も言わなかったが、帰り際にその一枚が消えていたことを、俺は知っている。

 秋月(あきづき)はコンビニサンドの袋を、まだ開けていなかった。透明なフィルムの向こうに、卵サンドの黄色が見えている。その黄色を、秋月(あきづき)はじっと見ていた。

 ひなたの手作りクッキーと、コンビニの卵サンド。

 比べるようなものではないだろう。そもそも比べる理由がない。でも、秋月(あきづき)の視線の落とし方が、いつもよりほんの少しだけ低い気がした。


 * * *


 つぐみが動いたのは、ひなたが隣のクラスに戻った後だった。

 自分の席から立ち上がって、秋月(あきづき)の横に歩いていく。俺からは3メートルくらいの距離だ。声が聞こえる位置。


(りん)も料理やってみたら?」


 つぐみが軽い声で言った。世間話の延長のような、自然な口調だった。

 秋月(あきづき)は窓の外を向いたまま答えた。


「......興味ない」


 声は平坦だった。いつもの秋月(あきづき)だ。

 ただ、つぐみには見えているはずだ。秋月(あきづき)の目が「興味ない」とは全く違うことを言っていることが。目は窓の外に向いているが、焦点が合っていない。窓の外を見ているのではなく、窓に映った自分の顔を見ているような、そんな目だった。


「ふーん」


 つぐみは深追いしなかった。肩をすくめて、自分の席に戻っていく。途中、俺の横を通る時に、つぐみが小声で言った。


藤宮(ふじみや)くん、(りん)の目、見た?」

「......見た」

「興味ないの顔じゃなかったよね」

「......だな」


 つぐみは何も付け足さなかった。ただ、ほんの少しだけ口元を引き締めて、自分の弁当に戻った。


 * * *


 放課後。

 帰りの支度をしていたら、前の方の席で秋月(あきづき)がまだ座っているのが見えた。帰る素振りがない。鞄も開けていない。

 代わりに、スマホを見ていた。

 秋月(あきづき)が教室でスマホを見ること自体は珍しくない。ただ、画面を覗き込む角度がいつもと違う。少し前のめりで、指先で画面をスクロールしている。何かを読んでいる、というより、何かを探している指の動き方だった。

 俺は鞄を持って、秋月(あきづき)の後ろ側を通り過ぎようとした。

 その時、一瞬だけ画面が見えた。

 クッキーの写真。レシピサイトの、型抜きクッキーのページ。材料の一覧が表示されていて、「薄力粉 100g」「バター 50g」という文字が見える。

 俺が後ろを通ったのに気づいたのか、秋月(あきづき)の手が動いた。スマホを裏返しにして、画面を机に伏せる。速かった。反射的だった。

 俺は何も見ていないふりをして、そのまま歩いた。


秋月(あきづき)、帰らないのか」

「......もう少し、いる」

「そうか。じゃあな」

「......うん」


 教室を出て、廊下を歩きながら、俺は今見たものについて考えた。

 クッキーのレシピ。

 興味がない、と昼に言った秋月(あきづき)が、放課後にクッキーのレシピを検索している。

 ......興味、あるじゃないか。

 あるのに「ない」と言う。秋月(あきづき)はいつもそうだ。あるのにない、好きなのに好きじゃない、嬉しいのに嬉しくない。否定形でしか肯定を表現できない不器用さが、あいつの言葉にはいつも混ざっている。

 ひなたのクッキーを見た時の、視線の落とし方。コンビニサンドを見下ろした横顔。そして放課後のレシピ検索。

 俺にはわかる。秋月(あきづき)は、作りたいのだ。たぶん、誰かに食べてもらいたいのだ。

 ひなたがクッキーを差し出した時の、あの弾けるような笑顔。俺が「うまいな」と言った時の、満面の笑み。あの光景を教室の端から見ていた秋月(あきづき)が、放課後にレシピを検索している。

 その「誰かに食べてもらいたい」の「誰か」が誰なのかは、俺が考える話じゃない。考える話じゃないから、考えない。考えないことにする。

 ......にしても、薄力粉100gとバター50gか。秋月(あきづき)がバターを計量している姿を想像してみた。ピーラーで人参を半分の太さにする手つきの持ち主が、50gのバターを正確に切り出せるだろうか。

 ......いや。想像するな。考えるなと言ったばかりだろ。

 帰り道の空は、久しぶりに晴れていた。


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