また雨、降るといい
梅雨入りから数日経った。
雨が降ったり止んだりを繰り返して、洗濯物が乾かない日が続いている。母さんが夜勤明けで帰ってくるたびにぼやいているが、天気に文句を言っても天気は変わらない。
今朝は曇ってはいたが、雨は降っていなかった。天気予報も午前中は曇りのち晴れ、午後から崩れる「かも」、という曖昧な予報だった。
......「かも」という予報ほど信用ならないものはない。
俺は朝の段階で一度、紺の新品折り畳みを鞄に入れようとして、母さんが「昨日も結局降らなかったじゃない」と呟いたのを聞いて、入れるのをやめた。新品をいきなり雨の日に投入するのもなんとなく気が引けて、そのまま玄関に置いてきた、というのが本音に近い。秋月から新品をもらった翌日に、それをずぶ濡れで持ち帰るのは何か違う気がしたのだ。
結論から言うと、午後2時くらいから降り出した。
予報の「かも」が正解だった日は、だいたい傘を持ってきていない。
* * *
6時間目が終わる頃には、雨は本降りになっていた。
昇降口は、ここ数日ですっかり見慣れた風景になっていた。傘を持っていた組と持っていなかった組が二層構造で溜まっている、あの光景だ。
今日、俺は持っていない側にいる。
空を見上げてもしょうがないのはわかっていたが、他にやることもなくてつい見上げてしまう。雨は空からちゃんと降っていた。当たり前だが。
「......藤宮」
背後から声がした。
振り返ると、秋月が立っていた。
手に、折り畳み傘を一本持っている。黒い方の、彼女らしい色だ。紺ではないのは、たぶん、あの30分売り場では最後まで二択だった黒の方を自分用にしたからだろう。勝手な推測だが。
「秋月」
「......一緒に、帰らない?」
秋月はそう言った。
言ってから、視線を少しだけ下げた。
俺は、一瞬、言葉の意味を理解するのが遅れた。
一緒に、帰らない。疑問形の「帰らない?」だ。否定ではなくて、誘いだ。誘い、だよな。たぶん。
「......傘、持ってきてないのか?」
「......今日は、一本しかないから」
一本しかない、というのは、そのままの意味だとすれば「傘が一本しかないからあなたを入れてあげる」という話だ。
......つまり、相合傘、というやつだ、それは。
頭の中で単語がゆっくり浮かんできて、ゆっくり沈んだ。ゆっくり、というのは、一度に認識しようとすると処理が追いつかないからだ。
「......入る、けど」
「......どうぞ」
秋月は折り畳みをぽんと開いた。
* * *
昇降口から雨の中に一歩踏み出した瞬間、世界の音が変わった。
傘の上を叩く雨音。
足元の水たまりを踏む、自分たちの靴の音。
それ以外の音が、急に薄くなった。
秋月の傘は小さめだった。二人で入ると肩と肩の距離が詰まる。触れるほどではないが、普段の帰り道より確実に近い。半歩ずつ、くらい近い。半歩の違いというのは、数値にすれば30センチ足らずなんだろうが、空気の密度は30センチ以上に変わっていた。
秋月は何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
雨音だけが続いていた。
気がついたら、俺は傘を秋月の側にほんの少し傾けていた。
意識してやったのではなかった。身長が秋月の方が少し低いから、真ん中で差すと頭上の余裕が均等にならない気がして、勝手に手が動いた――という解釈で通そうとした。
右肩が、しばらく歩いたところでひんやりしてきた。
傘の端から外に出ていたらしい。
「......傘、こっちに寄りすぎ」
「そうか?」
「......藤宮の右肩、濡れてる」
「風向きのせいだろ」
「......風、ない」
秋月は、傘を俺の方に少しだけ押し戻した。俺はそれを受けて、傘の中心が自分たちの間に戻るように手を添え直す。
添え直したのに、1分も経たないうちに、また自然と秋月の側に傾いていた。身体は口より正直だ、というのは誰が言った言葉だったか。
今度は秋月は何も言わなかった。
何も言わずに、傘の柄の位置を見た。俺の手と、秋月の手は、柄の上で近いところに置かれている。触れてはいないが、互いの指の位置がわかる距離だった。
住宅街に入る頃には、道路を流れる水の音も加わっていた。
マンホールの上で雨が跳ねる音。水が排水口に吸い込まれていく音。傘を叩く音。それから、二人分の足音。
会話は、ない。
いつもの帰り道でも会話は少ない方だが、今日は特に少なかった。ゼロと言っても差し支えないくらいだ。
それなのに、息苦しくなかった。
雨の日の空気は水分が多いから呼吸は重くなるはずなのに、なぜか、普段よりも呼吸が深くなっている気がした。
ふと、秋月の髪から雨の匂いがした。
雨の匂いというのは、実際には雨の匂いではなくて、地面に雨が落ちた時に出る土の匂いなんだとどこかで読んだ覚えがある。でも、秋月の髪から漂ってきたのは、土の匂いではなかった。もっと柔らかくて、もっと遠くて、雨がそのまま匂いを持っているような、そういう匂いだった。
匂いを嗅いだ自覚が、自分にはある。それが一番ヤバいと思った。
......なんで俺は今、髪の匂いを分析してるんだ。
普通に歩け。普通に。
* * *
分かれ道が近づいてきた。
右に曲がれば秋月の家。直進すれば俺の家。いつもの位置。
秋月は分かれ道の手前で、ふっと足を止めた。
俺もつられて止まる。
「......藤宮」
「ん?」
「......傘」
「ああ、そうだな。ここからは別々だ」
俺は傘の柄を秋月に渡そうとした。秋月は受け取る前に、少しだけ顔を上げた。傘の下、雨の音の中で、秋月の目が俺を見ていた。まっすぐではない、少しだけ斜めの、いつもの読みづらい角度の視線だった。
「......また雨、降るといい」
秋月は小さな声でそう言った。
言った瞬間、自分の言葉が自分でも意外だったみたいに、眉がわずかに動いた。
動いたのと同時に、秋月は傘の柄を俺の手から抜き取って、踵を返した。早歩きだった。普段の秋月の歩幅より一段階大きい歩幅で、右の道を進んでいく。
背中を呼び止める言葉が出てこなかった。
傘を叩く雨音が、秋月の足音と一緒に遠ざかっていった。
俺は分かれ道に一人で立ち尽くしていた。
雨が、シャツの肩にまた当たり始めていた。右肩が先に濡れて、それから左肩も少し濡れて、最後に頭の天辺が濡れてきて、そこでようやく自分が傘の下から出ていることを思い出した。
また雨、降るといい。
秋月は、雨が好きなわけじゃない。濡れるのが嫌いで、昨日の豪雨もタクシーで帰ろうとしていた。雨そのものが好きなわけがない。
雨が好きなんじゃなくて、雨の日が好きなんだ。
......いや、違う。そんなロマンチックな話じゃない。秋月はたぶん、傘を一緒にさした帰り道のことを言っていて、それがたまたま雨の日にしかできないから「また雨、降るといい」と言っただけで、そこに特別な意味はなくて、ないはずで、ないと思いたくて、ないと言い切るには材料が足りなくて――
一度、目を閉じた。
頭を一瞬、空白にしてから、もう一度目を開けた。
雨が降っていた。
濡れながら、残りの道を歩く。
家に着く頃には、シャツも髪も完全に濡れていた。鏡を見ないでもわかるくらい、情けない姿だった。
母さんがいたら絶対に怒る。幸い、今日は夜勤だ。
タオルで頭を拭きながら、俺はさっきの秋月の横顔と、傘を叩く雨音と、髪の匂いと、あの一言を、順番に頭の中で再生した。
再生してから、また、目を閉じた。
......また雨、降るといい、か。
口に出して呟いてみたら、自分の声なのに、やけに遠く聞こえた。
雨は、まだ降っていた。




