新品の折り畳み傘
翌朝、雨は上がっていた。
昨日の豪雨が嘘みたいに空が高い。雲はまだ残っているが、白と灰色が混ざっていて、重さはなかった。道路の水たまりは、通勤時間の車に踏まれて少しずつ減っていく。
鞄が普段より少しだけ軽い。折り畳み傘を貸したぶん、確かに軽い。物理的には数百グラムの話だ。精神的には別の話だが、精神の重さの話をするには朝8時は早すぎる。
昨日、秋月があの紺の傘をちゃんと差して帰れたのかどうかは、わからない。無事じゃなかったら何かメッセージが来たはずだとは思うが、秋月は「迷いました」「遭難しました」と素直に送ってくるタイプでもない。
「おはよ」
教室のドアを開けて、自分の席に向かいながら挨拶する。秋月はもう席にいた。今日も早い。
「......おはよう」
声はいつも通り小さい。ただ、今日は俺の方を一瞬だけ見てから、またすぐ窓の外に視線を戻した。その「一瞬」が、普段より少しだけ長い気がした。気のせいでなければ。
俺が鞄を置いて座ろうとした時、秋月の手が机の下から何かを持ち上げた。
紙袋だった。
小さめの、茶色い紙袋。
「......これ」
「え?」
「......はい」
秋月はそれ以上言葉を継がずに、紙袋を俺の机の上に置いた。
俺は紙袋を覗き込む。
折り畳み傘だった。
紺色の。
ただし、昨日貸したやつではなかった。袋に入ったまま、ラベルがついている。どう見ても新品だ。
「......待て」
「......うん」
「これ、新品だろ」
「......うん」
「俺が貸した傘は」
「......家に、ある」
「じゃあそっちを返せよ」
「......嫌」
「嫌じゃねえだろ。なんで新品を買ってきてるんだ」
秋月は、窓の外を見ながら答えた。
「......汚したかもしれないから」
「汚れてないだろ、たぶん」
「......たぶんじゃ、困る」
「傘は元々汚れるためのものだ」
「......それでも、困る」
押し問答になった。俺はもう一度紙袋の中を見る。ラベルも値札もしっかり貼ってあった。自分が普段買うのよりワングレードは上の商品だ。
「......これ、もらえない」
「......もらって」
「俺の貸したやつ、ちゃんと返してくれればそれでいいって」
「......困る」
秋月は少しだけ頑なだった。何が困るのかがわからない。傘一本のやりとりで困ることがあるとは思えないのだが、秋月の困り方の基準は、俺の基準とは別にあるらしい。
前の席のつぐみが、タイミングよく振り返った。
にや、ではなく、どこか呆れた顔だった。
「藤宮くん、諦めた方が早いよ」
「え?」
「凛は借りたもの以上にして返すタイプだから。これもう、そういう性格だと思って受け取っときな」
つぐみは俺に向かって喋りながら、視線はちらっと秋月の方を見た。秋月はまだ窓の外を向いている。
「......そういうことじゃない」
「あるでしょ。あたしが前に消しゴム貸した時だってさ、翌日ミニサイズの新品を2個返してきたからね。しかもキャラクター物」
「......2個あれば、便利」
「便利じゃない。元の消しゴム返してほしかったの、あたしは」
秋月はそれ以上反論しなかった。反論しないのは、つぐみの言い分が概ね合っているからだ。
俺は紙袋から折り畳み傘を取り出した。袋のラベルを指先で確かめる。紺。
昨日自分の鞄から引っ張り出したやつと、ほぼ同じ色だった。
......偶然、か。
思ってから、いや違う、と自分で打ち消す。傘の紺色なんて売り場に溢れている。秋月が手近なのを選んだとしても、紺が混じる可能性は十分にある。
そういうことにしておいた。そういうことにしておかないと、朝8時から処理しきれない情報量になりそうだった。
* * *
昼休み。
弁当箱を机の上に出す。今日の卵焼きも5切れ。昨日の結論は据え置きにした。
椅子が引かれる音がして、秋月がこちらに向き直る。今日の昼食はコンビニのおにぎりと、パック入りのサラダだ。
いつも通りの配置で、いつも通りの距離だった。
箸を取る前に、俺は机の端に置いた紺の折り畳み傘を顎で示した。
「この傘、俺の好きな色だな」
何気なく言ったつもりだった。つもり、というのは、言ってから自分でも「なんで今これを言ったんだ?」と思ったからだ。言う必要はなかった。
秋月の箸が、卵焼きに伸びかけた位置でほんの少しだけ止まった。
1秒。
止まった後、卵焼きを一切れ取りながら、秋月は答えた。
「......売り場に、それしかなかった」
「へえ」
「......他の色は、売り切れ」
「そうなのか」
「......そう」
秋月は卵焼きを咀嚼し始めた。会話が終わった体だ。
俺は「へえ」以上の感想を持てなかった。持ったら負けな気がした。何に負けるのかは、いつも通りわからない。
つぐみが割り込んできたのは、その時だ。
「嘘」
一言だけだった。
秋月の咀嚼が止まる。
「凛、昨日の夜、駅前のデパート行って、30分くらい傘売り場で迷ってたよね」
「......白河さん」
「しかもあたし、LINEの通話で付き合わされたからね。『どっちがいい?』って紺と黒の写真送ってきて。で、こっちの紺でしょ、って言ったら『......うん』って」
「......白河さん」
秋月の声が、段々低くなっていた。
俺は口に運びかけたご飯を箸の上で止めたまま、どう反応していいかわからずにいた。
「紺と黒で30分迷うの、傘の選び方として普通じゃないよ」
「......白河さん」
「3回目の『......白河さん』、だいぶ本気で睨んでるね」
つぐみは肩をすくめて、自分の弁当に戻った。楽しそうだった。
秋月はつぐみを2秒ほど睨んでから、何も言わずに卵焼きの二切れ目に箸を伸ばした。
俺は何か言おうとして、結局何も言えずに、プチトマトを一つ口に入れた。
紺と黒で30分。
売り場にそれしかなかった、じゃなかったらしい。
......いや、だから何だよ。たまたま迷っただけかもしれないだろ。秋月は優柔不断なところがある。傘一本で30分迷っても、そこまで不自然ではない。
自分に言い聞かせながら、卵焼きの残りを箸で数える。
3切れあるはずだった。
2切れになっていた。
いつの間に。
顔を上げる。秋月は窓の外を向いて、二切れ目を口に運んでいた。横顔がほんの少しだけ柔らかく見えたのは、たぶん雨上がりの光のせいだ。
たぶん、そういうことにしておく。
机の端の紺の折り畳み傘が、光を受けて静かに置かれていた。




