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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
雨のにおい

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23/44

新品の折り畳み傘

 翌朝、雨は上がっていた。

 昨日の豪雨が嘘みたいに空が高い。雲はまだ残っているが、白と灰色が混ざっていて、重さはなかった。道路の水たまりは、通勤時間の車に踏まれて少しずつ減っていく。

 鞄が普段より少しだけ軽い。折り畳み傘を貸したぶん、確かに軽い。物理的には数百グラムの話だ。精神的には別の話だが、精神の重さの話をするには朝8時は早すぎる。

 昨日、秋月(あきづき)があの紺の傘をちゃんと差して帰れたのかどうかは、わからない。無事じゃなかったら何かメッセージが来たはずだとは思うが、秋月(あきづき)は「迷いました」「遭難しました」と素直に送ってくるタイプでもない。


「おはよ」


 教室のドアを開けて、自分の席に向かいながら挨拶する。秋月(あきづき)はもう席にいた。今日も早い。


「......おはよう」


 声はいつも通り小さい。ただ、今日は俺の方を一瞬だけ見てから、またすぐ窓の外に視線を戻した。その「一瞬」が、普段より少しだけ長い気がした。気のせいでなければ。


 俺が鞄を置いて座ろうとした時、秋月(あきづき)の手が机の下から何かを持ち上げた。

 紙袋だった。

 小さめの、茶色い紙袋。


「......これ」

「え?」

「......はい」


 秋月(あきづき)はそれ以上言葉を継がずに、紙袋を俺の机の上に置いた。

 俺は紙袋を覗き込む。

 折り畳み傘だった。

 紺色の。

 ただし、昨日貸したやつではなかった。袋に入ったまま、ラベルがついている。どう見ても新品だ。


「......待て」

「......うん」

「これ、新品だろ」

「......うん」

「俺が貸した傘は」

「......家に、ある」

「じゃあそっちを返せよ」

「......嫌」

「嫌じゃねえだろ。なんで新品を買ってきてるんだ」


 秋月(あきづき)は、窓の外を見ながら答えた。


「......汚したかもしれないから」

「汚れてないだろ、たぶん」

「......たぶんじゃ、困る」

「傘は元々汚れるためのものだ」

「......それでも、困る」


 押し問答になった。俺はもう一度紙袋の中を見る。ラベルも値札もしっかり貼ってあった。自分が普段買うのよりワングレードは上の商品だ。


「......これ、もらえない」

「......もらって」

「俺の貸したやつ、ちゃんと返してくれればそれでいいって」

「......困る」


 秋月(あきづき)は少しだけ頑なだった。何が困るのかがわからない。傘一本のやりとりで困ることがあるとは思えないのだが、秋月(あきづき)の困り方の基準は、俺の基準とは別にあるらしい。


 前の席のつぐみが、タイミングよく振り返った。

 にや、ではなく、どこか呆れた顔だった。


藤宮(ふじみや)くん、諦めた方が早いよ」

「え?」

(りん)は借りたもの以上にして返すタイプだから。これもう、そういう性格だと思って受け取っときな」


 つぐみは俺に向かって喋りながら、視線はちらっと秋月(あきづき)の方を見た。秋月(あきづき)はまだ窓の外を向いている。


「......そういうことじゃない」

「あるでしょ。あたしが前に消しゴム貸した時だってさ、翌日ミニサイズの新品を2個返してきたからね。しかもキャラクター物」

「......2個あれば、便利」

「便利じゃない。元の消しゴム返してほしかったの、あたしは」


 秋月(あきづき)はそれ以上反論しなかった。反論しないのは、つぐみの言い分が概ね合っているからだ。

 俺は紙袋から折り畳み傘を取り出した。袋のラベルを指先で確かめる。紺。

 昨日自分の鞄から引っ張り出したやつと、ほぼ同じ色だった。

 ......偶然、か。

 思ってから、いや違う、と自分で打ち消す。傘の紺色なんて売り場に溢れている。秋月(あきづき)が手近なのを選んだとしても、紺が混じる可能性は十分にある。

 そういうことにしておいた。そういうことにしておかないと、朝8時から処理しきれない情報量になりそうだった。


 * * *


 昼休み。

 弁当箱を机の上に出す。今日の卵焼きも5切れ。昨日の結論は据え置きにした。

 椅子が引かれる音がして、秋月(あきづき)がこちらに向き直る。今日の昼食はコンビニのおにぎりと、パック入りのサラダだ。

 いつも通りの配置で、いつも通りの距離だった。

 箸を取る前に、俺は机の端に置いた紺の折り畳み傘を顎で示した。


「この傘、俺の好きな色だな」


 何気なく言ったつもりだった。つもり、というのは、言ってから自分でも「なんで今これを言ったんだ?」と思ったからだ。言う必要はなかった。

 秋月(あきづき)の箸が、卵焼きに伸びかけた位置でほんの少しだけ止まった。

 1秒。

 止まった後、卵焼きを一切れ取りながら、秋月(あきづき)は答えた。


「......売り場に、それしかなかった」

「へえ」

「......他の色は、売り切れ」

「そうなのか」

「......そう」


 秋月(あきづき)は卵焼きを咀嚼し始めた。会話が終わった体だ。

 俺は「へえ」以上の感想を持てなかった。持ったら負けな気がした。何に負けるのかは、いつも通りわからない。

 つぐみが割り込んできたのは、その時だ。


「嘘」


 一言だけだった。

 秋月(あきづき)の咀嚼が止まる。


(りん)、昨日の夜、駅前のデパート行って、30分くらい傘売り場で迷ってたよね」

「......白河(しらかわ)さん」

「しかもあたし、LINEの通話で付き合わされたからね。『どっちがいい?』って紺と黒の写真送ってきて。で、こっちの紺でしょ、って言ったら『......うん』って」

「......白河(しらかわ)さん」


 秋月(あきづき)の声が、段々低くなっていた。

 俺は口に運びかけたご飯を箸の上で止めたまま、どう反応していいかわからずにいた。


「紺と黒で30分迷うの、傘の選び方として普通じゃないよ」

「......白河(しらかわ)さん」

「3回目の『......白河(しらかわ)さん』、だいぶ本気で睨んでるね」


 つぐみは肩をすくめて、自分の弁当に戻った。楽しそうだった。

 秋月(あきづき)はつぐみを2秒ほど睨んでから、何も言わずに卵焼きの二切れ目に箸を伸ばした。

 俺は何か言おうとして、結局何も言えずに、プチトマトを一つ口に入れた。

 紺と黒で30分。

 売り場にそれしかなかった、じゃなかったらしい。

 ......いや、だから何だよ。たまたま迷っただけかもしれないだろ。秋月(あきづき)は優柔不断なところがある。傘一本で30分迷っても、そこまで不自然ではない。

 自分に言い聞かせながら、卵焼きの残りを箸で数える。

 3切れあるはずだった。

 2切れになっていた。

 いつの間に。

 顔を上げる。秋月(あきづき)は窓の外を向いて、二切れ目を口に運んでいた。横顔がほんの少しだけ柔らかく見えたのは、たぶん雨上がりの光のせいだ。

 たぶん、そういうことにしておく。

 机の端の紺の折り畳み傘が、光を受けて静かに置かれていた。


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