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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
雨のにおい

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22/45

梅雨入り宣言

朝のニュースで、気象庁が関東の梅雨入りを発表していた。

 平年より2日早いらしい。母さんが出勤前に「洗濯物、しばらく乾かないじゃない」とテレビに向かってぼやいていた。

 ただ、今朝の空は曇ってはいるものの、雨は降っていなかった。折り畳み傘を鞄に入れるか迷って、結局入れた。紺の、どこにでもある安物。何年か前に母さんが「これ一本持っとけ」と押し付けてきた物で、それ以来ずっと鞄の底にいる。

 通学路の途中で、ひなたが「そうくん、傘ある?」と走り寄ってきた。


「ある」

「さすがー」

「さすがじゃない。天気予報見ただけだ」


 ひなたは自分の鞄をぽんと叩いて「ひなたも持ってきた!」と胸を張る。この幼馴染は朝から元気だ。

 教室に着くころには、空がだいぶ低くなっていた。雲が黒くて、今にも降り出しそうな色だった。


 * * *


 午後2時過ぎ、体育の授業から教室に戻る途中で、空が裂けた。

 比喩ではなく、本当に裂けた音がした。

 廊下の窓が一気に白くなって、次の瞬間にはゴウ、という音を立てて雨が降り出した。豪雨。土砂降り。6時間目が始まってからも、窓枠を叩く雨音はずっと続いていた。


「梅雨入り宣言、仕事早すぎだろ」


 と桐生(きりゅう)が隣で呟いた。俺もそう思う。


 * * *


 放課後。

 昇降口に降りると、生徒たちがぎゅうぎゅうに詰まっていた。

 傘を持ってきていない組が軒先で空を見上げている。持ってきていた組が意気揚々と傘を広げている。見るからに二層構造だ。

 俺は鞄から折り畳み傘を取り出そうとして、ふと、人波の端に見慣れた後ろ姿を見つけた。

 秋月(あきづき)だ。

 傘を持っていない側の、しかも人の輪からさらに少し離れた位置に立っている。背筋が伸びて、相変わらず姿勢だけは完璧にいい。空を見上げた横顔は、雨雲と同じくらい何を考えているのか読めない。

 俺はため息を一つついて、そちらに向かった。


秋月(あきづき)

「......」

「傘は?」

「......」


 秋月(あきづき)は空を見上げたまま、答えない。

 答えないのは答えだ。持ってきていない。

 俺は鞄の中から折り畳み傘を引っ張り出した。紺の安物。ボタンを押すとバネの力で開くタイプの、特筆すべきところのない傘だ。


「これ、貸す」

「......」

「使えよ。当分止みそうにないぞ」

「......タクシー、呼ぶ」


 秋月(あきづき)が初めて俺の方を見た。

 真顔だった。


「タクシー?」

「......家まで、1,500円くらい」

「見積もり早すぎだろ」

「......事前に調べてある」

「何のために」

「......万が一のため」

「その万が一、今日だろ」


 秋月(あきづき)は視線をまた空に戻した。タクシー呼ぶの一点張りで押し切る気らしい。

 俺は折り畳み傘を押し付けるように差し出した。


「貸すって言ってるだろ。使え」

「......返すタイミングが、難しい」

「明日でいい」

「......濡らしたら、申し訳ない」

「傘は濡れるためにあるんだよ」


 秋月(あきづき)は、3秒、黙った。

 3秒というのは、人が黙るには長い方だと思う。短いと言えば短いが、沈黙を秒数で数え始める程度には長い。その3秒の間、秋月(あきづき)は俺の手にある紺の柄をじっと見ていた。昇降口の周りが騒がしくて、誰かが笑い声を上げて、誰かが「やっぱ降ってきた」と声を張り上げていた。そういう騒音の真ん中で、秋月(あきづき)のいる場所だけが、音を落としたみたいに静かに見えた。

 3秒経ってから、秋月(あきづき)はゆっくりと手を伸ばしてきた。

 柄を受け取る動作が、やけに慎重だった。壊れ物でも渡されたみたいに。ただの折り畳み傘なのに。受け取った後、一度だけ柄を握り直した。握る力を確かめるような動きだった。


「......ありがとう、は言わない」

「聞こえてるようなもんだろ、それ」


 秋月(あきづき)は返事をしなかった。代わりに、紺の折り畳み傘をぽんと開いた。バネが跳ねて、小さな丸い空が頭の上にできる。

 昇降口から雨の中に出ていく背中は、空を見上げていた時より少しだけ俯き加減だった。

 傘が濡れるのを気にしているのか、それとも別の理由なのか、俺の位置からはわからなかった。


 * * *


蒼太(そうた)、お前なに女神みたいなことしてんの」


 後ろから肩を叩かれた。桐生(きりゅう)だった。赤いビニール傘を持っている。


「お前、秋月(あきづき)さんに傘貸したのか」

「見てたのかよ」

「一部始終を」

「趣味悪いな」

「人助けを見るのが趣味なんだ、俺は」


 桐生(きりゅう)はにやにやしながら、赤いビニール傘を広げた。


「入れてやるよ」

「助かる」


 傘は小さめで、俺の左肩が半分くらいはみ出した。濡れない側と濡れる側の中途半端な位置に立つ羽目になる。


「しかしお前、さらっと折り畳み差し出してたな。かっこよかったぜ」

「お前に言われても嬉しくないから黙れ」

秋月(あきづき)さんのタクシー発言、俺笑いそうだったぞ。1,500円って」

「なんなんだあの細かい金額は」

「調査済みってのがまた」


 桐生(きりゅう)は楽しそうだった。俺は楽しくなかった。赤いビニールの中は雨の匂いがこもって、なぜか落ち着かない。

 住宅街に入るころには、道路を流れる水の勢いが増していた。通学路のマンホールが小さな噴水みたいになっている。

 秋月(あきづき)はもう家に着いただろうか。

 あの紺の折り畳みでちゃんと帰れただろうか。方向音痴の秋月(あきづき)のことだから、GPSを見ながら歩いたとしても、どこかで曲がり角を一つくらい間違えている可能性がある。その時、傘の下で立ち尽くして、雨を見上げていたりしないだろうか。

 考え込んでいたら、隣を歩く桐生(きりゅう)がふと肩を小突いてきた。


蒼太(そうた)

「ん?」

「お前、考えごと多すぎ」

「別に」

秋月(あきづき)さんが無事に帰れるか心配か?」

「......まあ、一応」


 桐生(きりゅう)は返事をしなかった。ただ、にやにやしていた口元が、ほんの少しだけ柔らかい笑い方に変わっていた気がする。

 分かれ道で桐生(きりゅう)と別れて、俺は一人で残りの道を歩いた。雨はまだ降っている。

 家に着くころには、シャツの左肩が重たく濡れていた。桐生(きりゅう)のビニール傘から半分はみ出していた分だ。肩から背中にかけて生地が張り付いて、歩くたびにひんやりする。母さんが見たら絶対に怒るやつだ。

 玄関で靴を脱ぎながら、ふと思う。

 明日、秋月(あきづき)はあの紺の折り畳みをどんな顔で返しに来るんだろう。いつもの無表情で机に置いていくのか、それとも昇降口で渡される「......ありがとう、は言わない」の別バージョンが用意されているのか。どちらにしても、予想はたぶん外れる気がする。秋月(あきづき)は俺の予想をいつも微妙に外してくる。

 ......いや、なんで明日の顔を先取りして考えてるんだ俺は。

 濡れたシャツを脱ぎながら、自分にツッコむ声が情けなかった。

 雨音だけが、まだ外で続いていた。

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