梅雨入り宣言
朝のニュースで、気象庁が関東の梅雨入りを発表していた。
平年より2日早いらしい。母さんが出勤前に「洗濯物、しばらく乾かないじゃない」とテレビに向かってぼやいていた。
ただ、今朝の空は曇ってはいるものの、雨は降っていなかった。折り畳み傘を鞄に入れるか迷って、結局入れた。紺の、どこにでもある安物。何年か前に母さんが「これ一本持っとけ」と押し付けてきた物で、それ以来ずっと鞄の底にいる。
通学路の途中で、ひなたが「そうくん、傘ある?」と走り寄ってきた。
「ある」
「さすがー」
「さすがじゃない。天気予報見ただけだ」
ひなたは自分の鞄をぽんと叩いて「ひなたも持ってきた!」と胸を張る。この幼馴染は朝から元気だ。
教室に着くころには、空がだいぶ低くなっていた。雲が黒くて、今にも降り出しそうな色だった。
* * *
午後2時過ぎ、体育の授業から教室に戻る途中で、空が裂けた。
比喩ではなく、本当に裂けた音がした。
廊下の窓が一気に白くなって、次の瞬間にはゴウ、という音を立てて雨が降り出した。豪雨。土砂降り。6時間目が始まってからも、窓枠を叩く雨音はずっと続いていた。
「梅雨入り宣言、仕事早すぎだろ」
と桐生が隣で呟いた。俺もそう思う。
* * *
放課後。
昇降口に降りると、生徒たちがぎゅうぎゅうに詰まっていた。
傘を持ってきていない組が軒先で空を見上げている。持ってきていた組が意気揚々と傘を広げている。見るからに二層構造だ。
俺は鞄から折り畳み傘を取り出そうとして、ふと、人波の端に見慣れた後ろ姿を見つけた。
秋月だ。
傘を持っていない側の、しかも人の輪からさらに少し離れた位置に立っている。背筋が伸びて、相変わらず姿勢だけは完璧にいい。空を見上げた横顔は、雨雲と同じくらい何を考えているのか読めない。
俺はため息を一つついて、そちらに向かった。
「秋月」
「......」
「傘は?」
「......」
秋月は空を見上げたまま、答えない。
答えないのは答えだ。持ってきていない。
俺は鞄の中から折り畳み傘を引っ張り出した。紺の安物。ボタンを押すとバネの力で開くタイプの、特筆すべきところのない傘だ。
「これ、貸す」
「......」
「使えよ。当分止みそうにないぞ」
「......タクシー、呼ぶ」
秋月が初めて俺の方を見た。
真顔だった。
「タクシー?」
「......家まで、1,500円くらい」
「見積もり早すぎだろ」
「......事前に調べてある」
「何のために」
「......万が一のため」
「その万が一、今日だろ」
秋月は視線をまた空に戻した。タクシー呼ぶの一点張りで押し切る気らしい。
俺は折り畳み傘を押し付けるように差し出した。
「貸すって言ってるだろ。使え」
「......返すタイミングが、難しい」
「明日でいい」
「......濡らしたら、申し訳ない」
「傘は濡れるためにあるんだよ」
秋月は、3秒、黙った。
3秒というのは、人が黙るには長い方だと思う。短いと言えば短いが、沈黙を秒数で数え始める程度には長い。その3秒の間、秋月は俺の手にある紺の柄をじっと見ていた。昇降口の周りが騒がしくて、誰かが笑い声を上げて、誰かが「やっぱ降ってきた」と声を張り上げていた。そういう騒音の真ん中で、秋月のいる場所だけが、音を落としたみたいに静かに見えた。
3秒経ってから、秋月はゆっくりと手を伸ばしてきた。
柄を受け取る動作が、やけに慎重だった。壊れ物でも渡されたみたいに。ただの折り畳み傘なのに。受け取った後、一度だけ柄を握り直した。握る力を確かめるような動きだった。
「......ありがとう、は言わない」
「聞こえてるようなもんだろ、それ」
秋月は返事をしなかった。代わりに、紺の折り畳み傘をぽんと開いた。バネが跳ねて、小さな丸い空が頭の上にできる。
昇降口から雨の中に出ていく背中は、空を見上げていた時より少しだけ俯き加減だった。
傘が濡れるのを気にしているのか、それとも別の理由なのか、俺の位置からはわからなかった。
* * *
「蒼太、お前なに女神みたいなことしてんの」
後ろから肩を叩かれた。桐生だった。赤いビニール傘を持っている。
「お前、秋月さんに傘貸したのか」
「見てたのかよ」
「一部始終を」
「趣味悪いな」
「人助けを見るのが趣味なんだ、俺は」
桐生はにやにやしながら、赤いビニール傘を広げた。
「入れてやるよ」
「助かる」
傘は小さめで、俺の左肩が半分くらいはみ出した。濡れない側と濡れる側の中途半端な位置に立つ羽目になる。
「しかしお前、さらっと折り畳み差し出してたな。かっこよかったぜ」
「お前に言われても嬉しくないから黙れ」
「秋月さんのタクシー発言、俺笑いそうだったぞ。1,500円って」
「なんなんだあの細かい金額は」
「調査済みってのがまた」
桐生は楽しそうだった。俺は楽しくなかった。赤いビニールの中は雨の匂いがこもって、なぜか落ち着かない。
住宅街に入るころには、道路を流れる水の勢いが増していた。通学路のマンホールが小さな噴水みたいになっている。
秋月はもう家に着いただろうか。
あの紺の折り畳みでちゃんと帰れただろうか。方向音痴の秋月のことだから、GPSを見ながら歩いたとしても、どこかで曲がり角を一つくらい間違えている可能性がある。その時、傘の下で立ち尽くして、雨を見上げていたりしないだろうか。
考え込んでいたら、隣を歩く桐生がふと肩を小突いてきた。
「蒼太」
「ん?」
「お前、考えごと多すぎ」
「別に」
「秋月さんが無事に帰れるか心配か?」
「......まあ、一応」
桐生は返事をしなかった。ただ、にやにやしていた口元が、ほんの少しだけ柔らかい笑い方に変わっていた気がする。
分かれ道で桐生と別れて、俺は一人で残りの道を歩いた。雨はまだ降っている。
家に着くころには、シャツの左肩が重たく濡れていた。桐生のビニール傘から半分はみ出していた分だ。肩から背中にかけて生地が張り付いて、歩くたびにひんやりする。母さんが見たら絶対に怒るやつだ。
玄関で靴を脱ぎながら、ふと思う。
明日、秋月はあの紺の折り畳みをどんな顔で返しに来るんだろう。いつもの無表情で机に置いていくのか、それとも昇降口で渡される「......ありがとう、は言わない」の別バージョンが用意されているのか。どちらにしても、予想はたぶん外れる気がする。秋月は俺の予想をいつも微妙に外してくる。
......いや、なんで明日の顔を先取りして考えてるんだ俺は。
濡れたシャツを脱ぎながら、自分にツッコむ声が情けなかった。
雨音だけが、まだ外で続いていた。




