夏服の破壊力
6月1日。衣替えの日だ。
教室のドアを開けた瞬間、空気の質が変わっていた。
先週までクラスを占めていた黒い学ランと灰色のブレザーが消えて、代わりに白い半袖シャツと白いブラウスが並んでいる。色数が減った分、教室全体が明るくなったように見える。窓から入る日差しも、白い生地に反射してやけに眩しい。
まあ、ただの衣替えだ。カレンダーがそうなっているだけだ。
そう思いながら自分の席に向かった途中で、足がふっと止まった。
秋月がもう席にいた。
普段より少しだけ早い登校だったらしい。
半袖のブラウスで、頬杖をついて窓の外を見ている。肘から先が、白い。
......いや、肘から先が白いのは当たり前だろ。秋月は色白だ。4月からわかっていたことだ。これまでもブレザーの袖口から手首は見えていた。今はそれが20センチほど手前に移動しただけで、面積が増えたとも言えるが、劇的な増加ではない。
......20センチは劇的では?
頭の中で謎の議論が始まっている。朝8時にやることじゃない。
「おはよ、秋月」
「......おはよう」
秋月はこちらを見ずに頷いた。声はいつも通り小さい。
鞄を置いて、自分の席に座る。隣を直視しないように教科書を出す。直視すると何かに負ける気がする。何に負けるのかはわからないが、何かに負ける。
「うおおお!!」
背後からいきなり絶叫が飛んできた。桐生だ。
桐生は俺の机に両手をついて、教室全体を見回している。
「蒼太、見たか? 夏服の秋月さん。ヤバい。ヤバすぎる」
「声がでかい」
「いや聞け。これは学年単位の事案だ。俺たちには見守る義務がある」
「何の義務だよ」
「目の保養を分かち合う義務」
「分かち合うな」
俺は桐生の背中を押して、机から引き剥がす。肩の力で一押ししたら、思った以上に素直に退いた。
退きながら、桐生は「ちぇっ」と口を尖らせる。
隣の席の秋月は、窓の外を見たままだ。反応はない。反応はないが、聞こえていないわけはない。
「......うるさい」
窓に向かって、秋月が低く呟いた。
桐生が「すんません」と肩をすくめて自分の席に戻っていく。俺はその背中を見送りながら、今日はもう桐生を俺の机に近寄らせないと決めた。
1時間目の数学が始まる直前、シャープペンのノックがうまく行かなくて、無意識に袖をまくった。暑い。半袖なのに暑い。教室の扇風機が天井でゆっくり回っているが、風はぬるい。
ふと、視線を感じた。
隣からだ。
顔を上げる。秋月はもう窓の外を向いていた。あまりに自然に向き直っていたので、俺の気のせいだったのかもしれない。
まあ、気のせいだろう。
前の席のつぐみが振り返った。にや、と笑っている。
「藤宮くん、今見られてたよ」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃない方に賭ける」
「賭け事はよくないぞ」
「あんたに言われたくないわ」
つぐみは肩をすくめて前を向いた。何が言いたかったんだ、今のは。
チャイムが鳴って、数学の先生が教室に入ってきた。
* * *
午前中の授業は正直、ほぼ頭に入らなかった。
ノートには公式らしきものがいくつか書いてあるが、どれも前後の繋がりが怪しい。後で誰かに見せてもらうことになるだろう。
授業中、隣は一度も見なかった。見なかったつもりだ。見なかったと信じたい。
......いや、一度くらいは見たかもしれない。一度は見た気がする。二度の可能性もある。三度はない。たぶん。
昼休みのチャイムが鳴った時、正直ほっとした。
午前中を乗り切った。偉いぞ俺。何に対して偉いのかはわからないが、偉い。
* * *
弁当箱を机の上に出す。今日の中身は卵焼き5切れ、唐揚げ2個、ほうれん草のおひたし、プチトマト、ご飯。
卵焼きは、いつもの甘い方だ。砂糖を小さじ半分多めに入れる味付けは、5月の半ばに決めて、それ以来据え置きになっている。味を変えた理由は特にない。強いて言うなら気分だ。気分ということにしておかないと話がややこしくなる。
切れ数を5切れにしたのは、昨日の夜に決めたことだ。4切れだと2つ取られて俺の取り分が2つになる。だから5切れにして3つ残す――そういう、誰に見せるわけでもない防衛策だ。我ながら情けない計算だと思う。
蓋を開けた瞬間、隣の席の椅子が引かれる音がした。
秋月が、自分の昼食――今日はコンビニのサンドイッチだ――を持って、こちらに向き直る。
いつも通りだ。いつも通りの昼休みだ。
ただ、いつもより距離が近い気がする。
机の広さは変わっていないから物理的な距離も変わっていないはずだ。それでも近く感じるのは、たぶん半袖のせいだ。白い腕が視界の端に入るから、近く見えるだけだ。気のせいだ。気のせいの精度が今日はやけに高い。
「......暑いから、食欲ない」
秋月が呟いた。
呟いた直後、箸が俺の弁当箱に伸びてきた。
卵焼き。一切れ目。
「食欲ないんじゃなかったのか」
「......これは、別腹」
「別腹っていうのは、デザートのことを言うんだよ」
「......卵焼き、デザート」
「造語するな」
秋月は無視して卵焼きを口に運んだ。一瞬だけ目を細める。いつもの「美味しい」の合図だ。
俺がそれを見届けるのを待っていたかのように、二切れ目に箸が伸びた。
「おい」
「......一切れ目と、同じ味か確認する」
「その理論だとあと三切れ全部確認することになるだろ」
「......全部違う味の可能性もある」
「同じ卵だ。同じ鍋で焼いた。断言する」
秋月は2秒だけ俺を見てから、二切れ目を食べた。
結局、卵焼きは5切れ中3切れが俺の取り分となった。計算通りだ。計算通りなのに、計算通りに取っていかれたことにどうも納得がいかない。なんだろうこの敗北感は。
「やっぱり、暑いから食欲ない」
秋月はそう繰り返して、サンドイッチの袋を開けた。
暑いから、か。
俺も、きっと暑いせいで変なことを考えているのだろう。半袖が眩しいとか、距離が近いとか、視線を感じたとか、そういうのは全部、6月1日の気温のせいだ。夏が来たから感覚が少し狂っているだけだ。
そういうことにしておく。
そういうことにしておかないと、この先の昼休みが落ち着いて迎えられない。
秋月がサンドイッチを齧りながら、窓の外を見ている。
午前中と同じ横顔だ。ただ、午前中より少しだけ肩の力が抜けている気がする。それも気のせいかもしれない。
気のせい、が今日の俺のキーワードだ。
午後もたぶん、気のせいで乗り切る。




