夏が来る前に
5月が終わろうとしている。
朝の通学路に、夏の気配が混じり始めた。アスファルトの照り返しが目に痛くて、半袖の腕に日差しが刺さる。梅雨入り前の、短くて眩しい季節だ。
教室の窓を全開にしても風はぬるい。扇風機が天井でゆっくり回っているが、気休めにもならない。
1時間目が始まる前。隣の席の秋月がいつものように窓の外を見ている。先週から、秋月は毎朝「......おはよう」と言ってくる。声は小さいし、こちらを見ないし、聞き逃したら終わりの音量だが、確実に言っている。
「おう、おはよう」と返すと、秋月は小さく頷く。それだけだ。それだけのことが、なぜか日課になっている。
秋月との関係を説明しろと言われたら、たぶん「隣の席のクラスメイト」と答える。弁当のおかずを分ける仲で、方向音痴の秘密を知っている仲で、LINEで「理科室」とか「音楽室」とか送り合う仲。
つまり、何なんだろうな、これは。
よくわからないが、悪くない。悪くないどころか、この日常にずいぶん慣れてしまった気がする。
* * *
昼休み。
俺が弁当箱を開けた瞬間、秋月の箸が伸びてきた。今日は卵焼きだ。「一つだけ」という前置きすらなく、自然な動作で一切れ取っていく。
もはや何も言わない。言う必要がないと判断したのか、それとも言うのが面倒になったのか。どちらにしても、俺の弁当の卵焼きは実質的に秋月との共有物だ。
「凛、それもう二つ目」
向かいの席に座ったつぐみが、呆れた声で指摘した。いつの間にか秋月は卵焼きの二切れ目に手を伸ばしていた。
「......一つ目の続き」
「いや、それ別の個体だから。形も大きさも違うじゃん」
「......切り方の問題」
「切り方の問題じゃないでしょ」
つぐみが俺を見る。「あんた、何か言いなよ」という目だ。
俺は弁当箱の中を見た。卵焼きは元々4切れ入れていた。2つ取られて、残り2つ。
「別にいいだろ。食いたいなら食え」
「藤宮くん、甘すぎ」
つぐみが額に手を当てた。秋月は3切れ目には手を伸ばさなかった。さすがに自制が働いたらしい。
桐生が購買のパンを持ってきて、俺の隣に座った。
「なあなあ、夏休み何する?」
脈絡なく桐生が言い出した。気が早い。まだ6月にもなっていない。
「特に考えてねえけど」
「つまんねーな。海とか行かね?」
「海ー! 行きたいなー」
つぐみが食いついた。
「いいじゃん、みんなで海! 凛も行くでしょ?」
「......」
秋月は答えない。箸で自分の弁当の中身──今日はサンドイッチではなく、コンビニのおにぎりだ──をつついている。
「ひなたも! そうくんと海!」
隣のクラスからひなたが駆けてきた。昼休みのこの時間帯にひなたが来るのはいつものことだが、タイミングが完璧すぎる。どこから聞いていたんだ。
「ひなたちゃんも乗り気じゃん。蒼太、お前も行くだろ?」
「まあ、行けたらな」
曖昧に答えた。夏休みの予定を5月末に決められるほど、俺の生活は計画的じゃない。
桐生が「よし、決まりー!」と勝手に確定させようとしている。つぐみが「水着買わなきゃ」と言い出して、ひなたが「ひなたはどの水着がいいかな?」と俺に聞いてくる。知らんよ。
秋月だけが、黙ったままだ。
おにぎりの海苔を丁寧に剥がしている。集中しているようにも、考え事をしているようにも見える。
「秋月も行くだろ?」
俺が声をかけると、秋月の手が止まった。
ゆっくりとこちらを見る。切れ長の目が俺を捉えて、2秒くらいの沈黙が落ちた。
「......考えておく」
秋月はそれだけ言って、おにぎりに視線を戻した。
拒否ではない。「結構です」でも「行かない」でもない。「考えておく」。
4月の秋月だったら、間違いなく「結構です」の一言だったはずだ。
つぐみが俺の顔をじっと見て、それから秋月の横顔を見て、ニヤッと笑った。何がおかしいのかわからないが、つぐみのこの笑い方は、だいたい碌なことを考えていない。
* * *
帰り道。
5月末の夕方は長い。18時近くなっても空はまだ明るくて、西の空がオレンジ色に染まっている。
秋月と並んで歩いている。いつもの帰り道だ。住宅街に入ると車の音が減って、どこかの家の庭から水やりの音が聞こえる。
秋月は黙っている。いつものことだ。帰り道の秋月は、学校にいる時より少しだけ力が抜けている気がする。肩の位置が低いというか、呼吸が深いというか。
まあ、そんな細かいことを観察してどうするんだって話だが。
「秋月」
「......なに」
「体育祭の時さ、楽しかったって言ってたよな」
言ってから、少し後悔した。あの時、聞こえないフリをしたのに。
秋月の歩みが、ほんの一瞬だけ遅れた。すぐに元に戻ったが、俺は見逃さなかった。
「......言ってない」
「言ってたぞ」
「......言ってない。聞き間違い」
「キャンプファイヤーの時だろ。火の隣で」
「......覚えてない」
覚えてないわけがないだろ。でもまあ、ここで追い込んでも秋月は認めない。それはわかっている。
夕日が眩しくて、俺は目を細めた。秋月の横顔にオレンジ色の光が当たっている。黒い髪が夕日で赤く透けて、普段とは少し違う印象だ。
「まあいいけど」
俺は前を向いた。
「夏も、楽しくしような」
何気なく言った。海の話が出たからか、夕日が綺麗だったからか、理由は自分でもよくわからない。
ただ、この2カ月で秋月と過ごした時間は、間違いなく俺の日常を変えた。最初は「隣の席の美少女」でしかなかったあいつが、今は「迷ったらLINEしてくる方向音痴」で、「弁当の卵焼きを黙って二つ取る大食い」で、「楽しかったって言ったのに言ってないと否定する不器用なやつ」だ。
それが心地いいと思っている自分がいる。
......いや、心地いいって何だ。変な表現だな。
秋月が何か言うのを待ったが、返事はなかった。足音だけが2人分、住宅街に響いている。
分岐点が見えてきた。ここで秋月は右に曲がる。いつもの別れ道だ。
「じゃあな。また明日」
俺が手を上げると、秋月は立ち止まった。
こちらを見ない。前を向いたまま。夕日に照らされた横顔は、相変わらず読みづらい。
「......藤宮」
「ん?」
「......楽しかったとは、言ってない」
まだ否定するのか。
「でも」
秋月の声が、少しだけ小さくなった。
「......夏は、悪くないかも」
それだけ言って、秋月は右に曲がった。背中がどんどん小さくなる。追いかける理由はないから、俺はその場に立ったまま見送った。
夕日が秋月の背中を照らしている。その影が長く伸びて、道路の上を滑っていく。
悪くないかも、か。
秋月にとっての「悪くない」は、たぶん「楽しみにしている」と同義だ。この2カ月で、それくらいはわかるようになった。否定形でしか肯定を表現できない不器用さが、あいつの言葉にはいつも混ざっている。
結構です。知らない。違う。覚えてない。嫌じゃない。悪くない。
全部、裏返すと柔らかい。
秋月の姿が角を曲がって見えなくなった。俺は背中のリュックを背負い直して、真っ直ぐの道を歩き出した。
6月がすぐそこまで来ている。梅雨が来て、それが明けたら夏だ。
今年の夏は、少し違うかもしれない。海の約束がある。桐生がうるさくて、つぐみが呆れて、ひなたが笑って、秋月が黙っている。そんな夏が来る。
悪くない。
......俺まで秋月の口癖がうつったか。
家に着いた。冷蔵庫を開けて食材を確認する。鶏もも肉と、卵と、玉ねぎ。親子丼にしよう。
エプロンを着けて、包丁で玉ねぎを切りながら、ふと思った。
明日の弁当の卵焼きは、何切れにしよう。
4切れだと秋月に2つ取られて俺の分が2つ。5切れにすれば、2つ取られても3つ残る。
......なんで秋月に取られること前提で計算してるんだ。
まあいいか。5切れにしよう。
窓の外は、もう暗い。5月最後の夜だ。
毎朝の「おはよう」と、昼の卵焼きと、放課後のLINEと、帰り道の沈黙。その繰り返しが、いつの間にか俺の日常の一部になっている。
この日常がいつまで続くかはわからない。でも今は、続いていることが心地いい。
親子丼が完成した。一人分を丼に盛って、もう一つはタッパーに入れて冷蔵庫へ。母さんの分だ。
「いただきます」と一人で言って、箸を取る。
うん。味は悪くない。
明日も、悪くないだろう。たぶん。




