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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
隣の席

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20/44

夏が来る前に

5月が終わろうとしている。

 朝の通学路に、夏の気配が混じり始めた。アスファルトの照り返しが目に痛くて、半袖の腕に日差しが刺さる。梅雨入り前の、短くて眩しい季節だ。

 教室の窓を全開にしても風はぬるい。扇風機が天井でゆっくり回っているが、気休めにもならない。

 1時間目が始まる前。隣の席の秋月(あきづき)がいつものように窓の外を見ている。先週から、秋月(あきづき)は毎朝「......おはよう」と言ってくる。声は小さいし、こちらを見ないし、聞き逃したら終わりの音量だが、確実に言っている。

 「おう、おはよう」と返すと、秋月(あきづき)は小さく頷く。それだけだ。それだけのことが、なぜか日課になっている。

 秋月(あきづき)との関係を説明しろと言われたら、たぶん「隣の席のクラスメイト」と答える。弁当のおかずを分ける仲で、方向音痴の秘密を知っている仲で、LINEで「理科室」とか「音楽室」とか送り合う仲。

 つまり、何なんだろうな、これは。

 よくわからないが、悪くない。悪くないどころか、この日常にずいぶん慣れてしまった気がする。


 * * *


 昼休み。

 俺が弁当箱を開けた瞬間、秋月(あきづき)の箸が伸びてきた。今日は卵焼きだ。「一つだけ」という前置きすらなく、自然な動作で一切れ取っていく。

 もはや何も言わない。言う必要がないと判断したのか、それとも言うのが面倒になったのか。どちらにしても、俺の弁当の卵焼きは実質的に秋月(あきづき)との共有物だ。


(りん)、それもう二つ目」


 向かいの席に座ったつぐみが、呆れた声で指摘した。いつの間にか秋月(あきづき)は卵焼きの二切れ目に手を伸ばしていた。


「......一つ目の続き」

「いや、それ別の個体だから。形も大きさも違うじゃん」

「......切り方の問題」

「切り方の問題じゃないでしょ」


 つぐみが俺を見る。「あんた、何か言いなよ」という目だ。

 俺は弁当箱の中を見た。卵焼きは元々4切れ入れていた。2つ取られて、残り2つ。


「別にいいだろ。食いたいなら食え」

藤宮(ふじみや)くん、甘すぎ」


 つぐみが額に手を当てた。秋月(あきづき)は3切れ目には手を伸ばさなかった。さすがに自制が働いたらしい。

 桐生(きりゅう)が購買のパンを持ってきて、俺の隣に座った。


「なあなあ、夏休み何する?」


 脈絡なく桐生(きりゅう)が言い出した。気が早い。まだ6月にもなっていない。


「特に考えてねえけど」

「つまんねーな。海とか行かね?」

「海ー! 行きたいなー」


 つぐみが食いついた。


「いいじゃん、みんなで海! (りん)も行くでしょ?」

「......」


 秋月(あきづき)は答えない。箸で自分の弁当の中身──今日はサンドイッチではなく、コンビニのおにぎりだ──をつついている。


「ひなたも! そうくんと海!」


 隣のクラスからひなたが駆けてきた。昼休みのこの時間帯にひなたが来るのはいつものことだが、タイミングが完璧すぎる。どこから聞いていたんだ。


「ひなたちゃんも乗り気じゃん。蒼太(そうた)、お前も行くだろ?」

「まあ、行けたらな」


 曖昧に答えた。夏休みの予定を5月末に決められるほど、俺の生活は計画的じゃない。

 桐生(きりゅう)が「よし、決まりー!」と勝手に確定させようとしている。つぐみが「水着買わなきゃ」と言い出して、ひなたが「ひなたはどの水着がいいかな?」と俺に聞いてくる。知らんよ。

 秋月(あきづき)だけが、黙ったままだ。

 おにぎりの海苔を丁寧に剥がしている。集中しているようにも、考え事をしているようにも見える。


秋月(あきづき)も行くだろ?」


 俺が声をかけると、秋月(あきづき)の手が止まった。

 ゆっくりとこちらを見る。切れ長の目が俺を捉えて、2秒くらいの沈黙が落ちた。


「......考えておく」


 秋月(あきづき)はそれだけ言って、おにぎりに視線を戻した。

 拒否ではない。「結構です」でも「行かない」でもない。「考えておく」。

 4月の秋月(あきづき)だったら、間違いなく「結構です」の一言だったはずだ。

 つぐみが俺の顔をじっと見て、それから秋月(あきづき)の横顔を見て、ニヤッと笑った。何がおかしいのかわからないが、つぐみのこの笑い方は、だいたい碌なことを考えていない。


 * * *


 帰り道。

 5月末の夕方は長い。18時近くなっても空はまだ明るくて、西の空がオレンジ色に染まっている。

 秋月(あきづき)と並んで歩いている。いつもの帰り道だ。住宅街に入ると車の音が減って、どこかの家の庭から水やりの音が聞こえる。

 秋月(あきづき)は黙っている。いつものことだ。帰り道の秋月(あきづき)は、学校にいる時より少しだけ力が抜けている気がする。肩の位置が低いというか、呼吸が深いというか。

 まあ、そんな細かいことを観察してどうするんだって話だが。


秋月(あきづき)

「......なに」

「体育祭の時さ、楽しかったって言ってたよな」


 言ってから、少し後悔した。あの時、聞こえないフリをしたのに。

 秋月(あきづき)の歩みが、ほんの一瞬だけ遅れた。すぐに元に戻ったが、俺は見逃さなかった。


「......言ってない」

「言ってたぞ」

「......言ってない。聞き間違い」

「キャンプファイヤーの時だろ。火の隣で」

「......覚えてない」


 覚えてないわけがないだろ。でもまあ、ここで追い込んでも秋月(あきづき)は認めない。それはわかっている。

 夕日が眩しくて、俺は目を細めた。秋月(あきづき)の横顔にオレンジ色の光が当たっている。黒い髪が夕日で赤く透けて、普段とは少し違う印象だ。


「まあいいけど」


 俺は前を向いた。


「夏も、楽しくしような」


 何気なく言った。海の話が出たからか、夕日が綺麗だったからか、理由は自分でもよくわからない。

 ただ、この2カ月で秋月(あきづき)と過ごした時間は、間違いなく俺の日常を変えた。最初は「隣の席の美少女」でしかなかったあいつが、今は「迷ったらLINEしてくる方向音痴」で、「弁当の卵焼きを黙って二つ取る大食い」で、「楽しかったって言ったのに言ってないと否定する不器用なやつ」だ。

 それが心地いいと思っている自分がいる。

 ......いや、心地いいって何だ。変な表現だな。

 秋月(あきづき)が何か言うのを待ったが、返事はなかった。足音だけが2人分、住宅街に響いている。

 分岐点が見えてきた。ここで秋月(あきづき)は右に曲がる。いつもの別れ道だ。


「じゃあな。また明日」


 俺が手を上げると、秋月(あきづき)は立ち止まった。

 こちらを見ない。前を向いたまま。夕日に照らされた横顔は、相変わらず読みづらい。


「......藤宮(ふじみや)

「ん?」

「......楽しかったとは、言ってない」


 まだ否定するのか。


「でも」


 秋月(あきづき)の声が、少しだけ小さくなった。


「......夏は、悪くないかも」


 それだけ言って、秋月(あきづき)は右に曲がった。背中がどんどん小さくなる。追いかける理由はないから、俺はその場に立ったまま見送った。

 夕日が秋月(あきづき)の背中を照らしている。その影が長く伸びて、道路の上を滑っていく。

 悪くないかも、か。

 秋月(あきづき)にとっての「悪くない」は、たぶん「楽しみにしている」と同義だ。この2カ月で、それくらいはわかるようになった。否定形でしか肯定を表現できない不器用さが、あいつの言葉にはいつも混ざっている。

 結構です。知らない。違う。覚えてない。嫌じゃない。悪くない。

 全部、裏返すと柔らかい。

 秋月(あきづき)の姿が角を曲がって見えなくなった。俺は背中のリュックを背負い直して、真っ直ぐの道を歩き出した。


 6月がすぐそこまで来ている。梅雨が来て、それが明けたら夏だ。

 今年の夏は、少し違うかもしれない。海の約束がある。桐生(きりゅう)がうるさくて、つぐみが呆れて、ひなたが笑って、秋月(あきづき)が黙っている。そんな夏が来る。

 悪くない。

 ......俺まで秋月(あきづき)の口癖がうつったか。


 家に着いた。冷蔵庫を開けて食材を確認する。鶏もも肉と、卵と、玉ねぎ。親子丼にしよう。

 エプロンを着けて、包丁で玉ねぎを切りながら、ふと思った。

 明日の弁当の卵焼きは、何切れにしよう。

 4切れだと秋月(あきづき)に2つ取られて俺の分が2つ。5切れにすれば、2つ取られても3つ残る。

 ......なんで秋月(あきづき)に取られること前提で計算してるんだ。

 まあいいか。5切れにしよう。

 窓の外は、もう暗い。5月最後の夜だ。

 毎朝の「おはよう」と、昼の卵焼きと、放課後のLINEと、帰り道の沈黙。その繰り返しが、いつの間にか俺の日常の一部になっている。

 この日常がいつまで続くかはわからない。でも今は、続いていることが心地いい。

 親子丼が完成した。一人分を丼に盛って、もう一つはタッパーに入れて冷蔵庫へ。母さんの分だ。

 「いただきます」と一人で言って、箸を取る。

 うん。味は悪くない。

 明日も、悪くないだろう。たぶん。

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