二回目の迷子
月曜日の朝。弁当に卵焼きと唐揚げを詰めて、学校に向かう。
5月も終わりに近づいて、朝の空気がぬるくなってきた。半袖のシャツで歩いても汗をかかない、ちょうどいい気温だ。
教室に入って、鞄を机に置く。まだ人はまばらで、窓際の席には誰もいない。いつも通りの朝だ。
秋月はいつも俺より少し遅く来る。始業10分前に静かに席に着いて、窓の外を見る。それがあいつの朝のルーティンだ。
......と思っていたのだが。
「......おはよう」
声がした。
俺が鞄から教科書を出そうとした時、隣の席にいつの間にか座っていた秋月が、こちらを見ずに言った。
窓の外を向いたまま。声は小さい。でも確かに、「おはよう」と言った。
秋月から。自分から。
......え?
驚きが顔に出る前に、俺は口を動かした。
「おう、おはよう」
平静を装ったが、心の中ではかなり動揺している。秋月が自分から挨拶してきたのは、この2カ月で初めてだ。
秋月は「......」と黙って、それ以上何も言わない。窓の外に視線を戻している。耳は、たぶん赤くない。たぶん。遠くてよく見えない。
いや、隣の席なんだから距離は30cmくらいしかない。見えないわけがない。見ないようにしている俺がいるだけだ。
「え、秋月さんが自分から挨拶!?」
教室の入り口から、全生徒に聞こえる音量で桐生が叫んだ。こいつの声量はどうにかならないのか。
「......普通のことでしょう」
秋月が平然と答える。声に揺らぎはない。まるで毎朝そうしているかのような口調だ。
いや、していないだろ。一度も。
「普通!? 秋月さんの口から!? 蒼太、お前何したんだよ」
「何もしてねえよ。うるせえから座れ」
桐生を自分の席に追い返して、俺は教科書を机に並べた。
隣に座る秋月は、もう窓の外を見ている。何事もなかったかのように。
......何事もなかったのかもしれない。あいつにとっては、本当に「普通のこと」なのかもしれない。
ただ、俺がそれを「普通じゃない」と感じていることだけが、事実として残っている。
* * *
昼休み。
弁当箱を開けた瞬間、箸が伸びてきた。
「......一つだけ」
秋月が唐揚げを一つ、俺の弁当から取った。もはや許可を求める形式だけが残っている。返事を待つ気配はない。
いつからこうなったんだろう。最初は「食うか?」と俺が差し出して、「......一つだけ」と遠慮がちに受け取っていたはずだ。それが今では、弁当を開けた瞬間に箸が来る。進化が早い。
「うまいか?」
「......普通」
普通、ね。普通と言いながら頬が少しだけ緩んでいるのは、もう指摘しない方がいいだろう。
「蒼太、俺にも一個くれよ」
桐生が自分の席から身を乗り出してくる。
「自分の弁当食え」
「コンビニのおにぎりだぞ? お前の手作り弁当の隣で食うおにぎりの惨めさわかるか?」
「知らねえよ」
「秋月さんには分けるのにー」
「......席が近いだけ」
秋月がぼそっと言った。いや、桐生の席もそんなに遠くないぞ。
* * *
放課後。
6時間目が終わって、帰りのHRが終わって、さて帰るかと荷物をまとめていたら、スマホが震えた。
LINEの通知。秋月からだ。
「......理科室」
また迷ったらしい。
俺は鞄を持って教室を出た。理科室は3階の東側。教室から2分もかからない場所だ。普通の人間なら。
理科室の前に着くと、秋月がいない。ドアの前に誰もいない。
嫌な予感がして、廊下の奥を覗いた。理科室の隣にある理科準備室。そのさらに奥の、倉庫に繋がる扉の前に、秋月が立っていた。
「......秋月」
「......ここは理科室じゃない」
「知ってるよ。なんでそっちに行ったんだ」
「......ドアが開いていたから」
開いていたから入ったのか。猫か。
「お前、この学校もう1年いるだろ」
「......建物が悪い」
「建物は何も悪くないだろ」
「......廊下が全部同じに見える」
「それはお前の問題だ」
秋月は不満そうに──といっても表情の変化は微細で、眉がほんの少し寄っただけだが──俺を見た。
「......藤宮だって、最初は校舎の構造がわからなかったはず」
「入学3日で覚えたけど」
「......ずるい」
出た。秋月の「ずるい」。方向感覚がある人間に対する理不尽な抗議だ。
俺は秋月の前を歩いて、理科室のドアを開けた。中には誰もいない。机の上には秋月のノートと教科書が置いてあった。居残りで自習していたらしい。
「帰り際に迷ったのか」
「......トイレに行って、戻れなくなった」
「トイレから理科室まで20歩くらいだろ」
「......15歩だった」
数えてんのか。数えて迷うのか。ある意味すごい。
秋月は荷物をまとめて、鞄を肩にかけた。2人で廊下を歩き、階段を降りる。放課後の校舎は静かで、窓から差し込む西日が廊下をオレンジ色に染めている。
「帰るか」
「......うん」
昇降口で靴を履き替えて、校門へ向かう。いつもの帰り道だ。秋月と並んで歩く。歩幅を合わせるのは、二人三脚の練習で慣れた。
5月の風が吹いた。秋月の髪が揺れる。黒い髪に夕日が当たって、赤みがかって見えた。
「秋月」
「......なに」
「いつでもLINEしろよ。迷ったら」
何気なく言った言葉だった。深い意味はない。迷う頻度を考えたら、連絡手段を確保しておいた方が効率的だ。それだけのことだ。
秋月が足を止めた。俺も止まる。
秋月は俺を見ていた。いつもの無表情だ。でも目の奥に、何かが揺れている気がした。
「......迷わないようにする」
「無理だろ」
「......うるさい」
秋月が歩き出した。少しだけ早足で。俺は笑いを噛み殺しながら、その隣に追いついた。
分岐点が近づいてくる。ここで秋月は右に曲がって、俺は真っ直ぐ。いつもの別れ道だ。
「じゃあな」
「......うん」
秋月が右に曲がる。2歩進んで、立ち止まる。振り返りはしない。ただ、立ち止まった。
「......藤宮」
「ん?」
「......LINE、する。......迷った時だけ」
それだけ言って、秋月は歩いていった。今度は立ち止まらなかった。
俺はその背中を見送って、それから真っ直ぐの道を歩き始めた。
迷った時だけ、ね。
それでいい。別にそれ以外の時にLINEしてほしいわけじゃないし。
......いや、してほしいわけじゃないって、何だそれ。変な考え方だ。
頭を振って、帰り道を急いだ。今日の晩飯、何作るかな。冷蔵庫に鶏肉があったから、親子丼にでもするか。
スマホが震えた。LINEの通知。秋月からだ。
「......家に着いた」
報告か。迷わなかったらしい。分岐点から先は間違えないんだよな、こいつ。
俺は歩きながら返信を打った。
「おう。迷わなかったな」
既読がついた。返信はない。
でも、なんとなくわかった。あいつは今、スマホの画面を見ながら、何か言いたそうな顔をしているんだろう。
まあ、言いたくなったらそのうち言うだろ。秋月のペースで。




