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隣の秋月さんは絶対デレない  作者: Studio SASAME
隣の席

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18/44

嫌じゃ、ない

天井の染みが、犬に見える。

 ......いや、猫かもしれない。耳の形が丸いから、猫。

 ベッドに仰向けになったまま、私はそんなことを考えている。土曜日の午後。部屋の窓からは5月の日差しが入り込んで、カーテンの隙間から光の筋が床に落ちている。

 体育祭から2日が経った。

 体は、まだ少し痛い。太ももの裏側と、ふくらはぎ。二人三脚で使った筋肉が、まだ文句を言っている。

 ......二人三脚。

 思い出すだけで、胸の奥がざわつく。足を紐で結んだこと。隣に並んだ時の、藤宮(ふじみや)の肩の高さ。つまずいた私を支えた、あの手の力。

 ......やめよう。考えるのをやめよう。

 寝返りを打つ。枕に顔を埋める。でも、暗闇の中でも記憶は消えてくれない。


 ゴールした後、私は藤宮(ふじみや)の腕を掴んだままだった。

 桐生(きりゅう)くんに「もう離していいぞー」と言われるまで、気づかなかった。自分が、離したくなかったことに。

 ......違う。足が痛かっただけ。支えが必要だっただけ。そう、それだけのこと。

 それだけの、こと。


 枕から顔を上げて、天井を見る。犬に見えた染みが、また猫に見える。

 私は小さい頃から、猫が好きだった。犬は寄ってくる。猫は、自分で距離を決める。それが心地よかった。

 人間も、猫みたいならいいのに。

 ......猫は「どうせまたいなくなるんでしょ」とは言わない。


 * * *


 小学校を3回。中学校を2回。合計5回の転校を、私は経験した。

 最初の転校は小学2年生の時だった。泣いた。友達と離れるのが嫌で、母の前で大泣きした。母は「またすぐ会えるよ」と言ってくれたけど、「すぐ」は来なかった。

 2回目の転校では、少し泣いた。

 3回目は、泣かなかった。

 4回目は、友達を作らなかった。どうせいなくなるなら、最初から作らない方がいい。そう決めた。効率的な判断だと思った。

 5回目。中学2年。転校先で、一人のグループの子が言った。

 「秋月(あきづき)さん、また転校するの? どうせまたいなくなるんでしょ」

 悪気はなかったと思う。ただの事実確認だったのだと思う。

 でも、その一言で、私の中の何かが閉じた。

 壁を作った。人に近づかなければ、離れる時に痛くない。それだけのこと。シンプルで、合理的で、完璧な防衛策。

 高校に入学する時、父が言った。「もう転校はないよ」と。

 信じたかった。でも、信じきれなかった。だから壁は、そのまま残した。

 1年間、それでうまくいっていた。「秋月(あきづき)さん」は近寄りがたい存在として、誰からも距離を置かれる。楽だった。安全だった。

 ......そのはずだった。


 * * *


 スマホを手に取る。

 LINEを開く。藤宮(ふじみや)とのトーク画面。

 タップしたのは、無意識だった。......と、思いたい。

 画面には、素っ気ないやり取りが並んでいる。


 「......理科室」

 「了解。今行く」

 「......」

 「迷ってるだろ。動くなよ」

 「......動いてない」


 それだけ。絵文字もスタンプもない。必要最低限の、冷たいやり取り。

 なのに、私は画面をスクロールしている。上へ、上へ。最初のメッセージまで遡って、また下へ戻る。

 何をしているんだろう。

 ......わからない。ただ、この文字の羅列を眺めていると、胸の奥の温度が少しだけ上がる気がする。


 「了解。今行く」


 この4文字。たった4文字。なのに藤宮(ふじみや)は、毎回来てくれた。面倒くさそうな顔もしないで。嫌味も言わないで。笑いもしないで。

 ......変な人。

 普通は笑う。道に迷う高校2年生なんて、笑われて当然だ。でも藤宮(ふじみや)は笑わなかった。「お前、この学校もう1年いるだろ」と呆れることはあっても、馬鹿にはしなかった。

 「あなた、笑わないのね」と言った時、藤宮(ふじみや)は不思議そうな顔をした。「笑うとこないだろ。困ってんなら助けるし」。

 あの言葉は、壁に穴を開けた。小さな、指先ほどの穴。でも、一度開いた穴は塞がらなかった。


 キャンプファイヤーの火を思い出す。

 赤い火の粉が夜空に舞い上がっていた。隣に藤宮(ふじみや)がいた。火の温度と、藤宮(ふじみや)の体温と、自分の心臓の音。全部が混ざって、区別がつかなかった。

 「楽しかったか?」と聞かれて、「普通」と答えた。嘘だった。

 ......楽しかった、かもしれない。

 そう呟いた時、藤宮(ふじみや)は聞こえたはずなのに、聞こえないフリをした。

 なぜだろう。追及すればよかったのに。「今、楽しいって言っただろ」と。そうすれば、私は「言ってない」と否定して、いつも通りの壁の内側に戻れたのに。

 ......なのに藤宮(ふじみや)は、何も言わなかった。

 それが、嬉しかった。苦しかった。壁の内側にいるはずなのに、守られている気がしなかった。


 リレーで走る藤宮(ふじみや)を見て、立ち上がっていた。白河(しらかわ)さんに指摘されるまで、自分が立っていることに気づかなかった。

 水筒を渡した。喉が渇いているだろうと思ったから。それだけのことだったのに、藤宮(ふじみや)がそれを飲んだ後で気づいた。

 間接キス。

 ......ばかみたい。中学生じゃあるまいし。そんなことを気にする自分が、信じられなかった。


 * * *


 コンコン、とドアがノックされた。


(りん)? 入るわよ」


 母の声。私はスマホを枕の下に滑り込ませた。何を隠しているのか、自分でもわからない。

 ドアが開いて、母が入ってきた。手にマグカップを二つ持っている。ココア。私が好きな、甘いやつ。


「お母さんの分もあるから、一緒に飲もうと思って」


 母──紗英(さえ)は、ベッドの端に腰を下ろした。マグカップの一つを私に差し出す。受け取る。温かい。

 母は自分のココアを一口飲んで、少し笑った。


(りん)、最近楽しそうね」


 心臓が跳ねた。


「......別に」

「そう? お母さんにはそう見えるけど」

「......気のせい」

「うん、気のせいかもね」


 母は追及しなかった。ただ微笑んで、ココアを飲んでいた。

 ......この人は、いつもそうだ。聞きすぎない。踏み込みすぎない。でも、見ている。ちゃんと見ている。

 転校のたびに泣いた私を、泣かなくなった私を、壁を作った私を、ずっと見てきた人。


「......お母さん」

「なに?」

「......ううん。なんでもない」


 言いかけて、やめた。何を言おうとしたのか、自分でもわからない。

 母は「そう」とだけ言って、立ち上がった。ドアの前で振り返る。


(りん)。楽しいことは、楽しいって思っていいのよ」


 それだけ言って、母は部屋を出ていった。

 ドアが閉まる。足音が遠ざかる。

 私はマグカップを両手で包んだまま、しばらく動けなかった。


 * * *


 夜。

 布団に入って、目を閉じる。

 暗闇の中に、藤宮(ふじみや)の声が聞こえる。


 「秋月(あきづき)って、意外と面白いやつだな」


 面白い。

 私が、面白い。

 壁の向こうにいるはずの人間に、そんなことを言われたのは初めてだった。「綺麗だね」は何度も言われた。「近寄りがたい」も。「冷たい」も。

 でも、「面白い」は、初めてだった。

 壁の外側じゃなくて、中の私を見て、そう言った。方向音痴で、弁当のおかずを「一つだけ」と言いながら二つ取って、キャンプファイヤーで「楽しかった」と口を滑らせる、そんな私を見て。

 ......面白い、か。

 変な人。本当に、変な人。壁を壊しにくるわけでもない。無理やりこじ開けるわけでもない。ただ隣にいて、迷ったら迎えに来て、弁当のおかずを分けてくれる。

 それだけなのに。

 それだけなのに、壁が意味をなさなくなる。

 嬉しいのに、苦しい。なんでだろう。近づきたいのに、近づくのが怖い。また離れることになったら。また「いなくなる」ことになったら。

 でも。

 今は。


「......嫌じゃ、ない」


 布団の中で、声に出した。誰にも聞こえない声で。

 藤宮(ふじみや)の隣にいることが。毎日顔を合わせることが。LINEで「了解。今行く」と返ってくることが。

 ......嫌じゃ、ない。

 それは「好き」とは違う。たぶん、違う。まだ、そんな名前はつけられない。

 でも。

 枕に顔を埋めて、目を閉じる。

 月曜日が、少しだけ楽しみな自分がいる。

 ......それくらいは、許してもいいと思った。

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