嫌じゃ、ない
天井の染みが、犬に見える。
......いや、猫かもしれない。耳の形が丸いから、猫。
ベッドに仰向けになったまま、私はそんなことを考えている。土曜日の午後。部屋の窓からは5月の日差しが入り込んで、カーテンの隙間から光の筋が床に落ちている。
体育祭から2日が経った。
体は、まだ少し痛い。太ももの裏側と、ふくらはぎ。二人三脚で使った筋肉が、まだ文句を言っている。
......二人三脚。
思い出すだけで、胸の奥がざわつく。足を紐で結んだこと。隣に並んだ時の、藤宮の肩の高さ。つまずいた私を支えた、あの手の力。
......やめよう。考えるのをやめよう。
寝返りを打つ。枕に顔を埋める。でも、暗闇の中でも記憶は消えてくれない。
ゴールした後、私は藤宮の腕を掴んだままだった。
桐生くんに「もう離していいぞー」と言われるまで、気づかなかった。自分が、離したくなかったことに。
......違う。足が痛かっただけ。支えが必要だっただけ。そう、それだけのこと。
それだけの、こと。
枕から顔を上げて、天井を見る。犬に見えた染みが、また猫に見える。
私は小さい頃から、猫が好きだった。犬は寄ってくる。猫は、自分で距離を決める。それが心地よかった。
人間も、猫みたいならいいのに。
......猫は「どうせまたいなくなるんでしょ」とは言わない。
* * *
小学校を3回。中学校を2回。合計5回の転校を、私は経験した。
最初の転校は小学2年生の時だった。泣いた。友達と離れるのが嫌で、母の前で大泣きした。母は「またすぐ会えるよ」と言ってくれたけど、「すぐ」は来なかった。
2回目の転校では、少し泣いた。
3回目は、泣かなかった。
4回目は、友達を作らなかった。どうせいなくなるなら、最初から作らない方がいい。そう決めた。効率的な判断だと思った。
5回目。中学2年。転校先で、一人のグループの子が言った。
「秋月さん、また転校するの? どうせまたいなくなるんでしょ」
悪気はなかったと思う。ただの事実確認だったのだと思う。
でも、その一言で、私の中の何かが閉じた。
壁を作った。人に近づかなければ、離れる時に痛くない。それだけのこと。シンプルで、合理的で、完璧な防衛策。
高校に入学する時、父が言った。「もう転校はないよ」と。
信じたかった。でも、信じきれなかった。だから壁は、そのまま残した。
1年間、それでうまくいっていた。「秋月さん」は近寄りがたい存在として、誰からも距離を置かれる。楽だった。安全だった。
......そのはずだった。
* * *
スマホを手に取る。
LINEを開く。藤宮とのトーク画面。
タップしたのは、無意識だった。......と、思いたい。
画面には、素っ気ないやり取りが並んでいる。
「......理科室」
「了解。今行く」
「......」
「迷ってるだろ。動くなよ」
「......動いてない」
それだけ。絵文字もスタンプもない。必要最低限の、冷たいやり取り。
なのに、私は画面をスクロールしている。上へ、上へ。最初のメッセージまで遡って、また下へ戻る。
何をしているんだろう。
......わからない。ただ、この文字の羅列を眺めていると、胸の奥の温度が少しだけ上がる気がする。
「了解。今行く」
この4文字。たった4文字。なのに藤宮は、毎回来てくれた。面倒くさそうな顔もしないで。嫌味も言わないで。笑いもしないで。
......変な人。
普通は笑う。道に迷う高校2年生なんて、笑われて当然だ。でも藤宮は笑わなかった。「お前、この学校もう1年いるだろ」と呆れることはあっても、馬鹿にはしなかった。
「あなた、笑わないのね」と言った時、藤宮は不思議そうな顔をした。「笑うとこないだろ。困ってんなら助けるし」。
あの言葉は、壁に穴を開けた。小さな、指先ほどの穴。でも、一度開いた穴は塞がらなかった。
キャンプファイヤーの火を思い出す。
赤い火の粉が夜空に舞い上がっていた。隣に藤宮がいた。火の温度と、藤宮の体温と、自分の心臓の音。全部が混ざって、区別がつかなかった。
「楽しかったか?」と聞かれて、「普通」と答えた。嘘だった。
......楽しかった、かもしれない。
そう呟いた時、藤宮は聞こえたはずなのに、聞こえないフリをした。
なぜだろう。追及すればよかったのに。「今、楽しいって言っただろ」と。そうすれば、私は「言ってない」と否定して、いつも通りの壁の内側に戻れたのに。
......なのに藤宮は、何も言わなかった。
それが、嬉しかった。苦しかった。壁の内側にいるはずなのに、守られている気がしなかった。
リレーで走る藤宮を見て、立ち上がっていた。白河さんに指摘されるまで、自分が立っていることに気づかなかった。
水筒を渡した。喉が渇いているだろうと思ったから。それだけのことだったのに、藤宮がそれを飲んだ後で気づいた。
間接キス。
......ばかみたい。中学生じゃあるまいし。そんなことを気にする自分が、信じられなかった。
* * *
コンコン、とドアがノックされた。
「凛? 入るわよ」
母の声。私はスマホを枕の下に滑り込ませた。何を隠しているのか、自分でもわからない。
ドアが開いて、母が入ってきた。手にマグカップを二つ持っている。ココア。私が好きな、甘いやつ。
「お母さんの分もあるから、一緒に飲もうと思って」
母──紗英は、ベッドの端に腰を下ろした。マグカップの一つを私に差し出す。受け取る。温かい。
母は自分のココアを一口飲んで、少し笑った。
「凛、最近楽しそうね」
心臓が跳ねた。
「......別に」
「そう? お母さんにはそう見えるけど」
「......気のせい」
「うん、気のせいかもね」
母は追及しなかった。ただ微笑んで、ココアを飲んでいた。
......この人は、いつもそうだ。聞きすぎない。踏み込みすぎない。でも、見ている。ちゃんと見ている。
転校のたびに泣いた私を、泣かなくなった私を、壁を作った私を、ずっと見てきた人。
「......お母さん」
「なに?」
「......ううん。なんでもない」
言いかけて、やめた。何を言おうとしたのか、自分でもわからない。
母は「そう」とだけ言って、立ち上がった。ドアの前で振り返る。
「凛。楽しいことは、楽しいって思っていいのよ」
それだけ言って、母は部屋を出ていった。
ドアが閉まる。足音が遠ざかる。
私はマグカップを両手で包んだまま、しばらく動けなかった。
* * *
夜。
布団に入って、目を閉じる。
暗闇の中に、藤宮の声が聞こえる。
「秋月って、意外と面白いやつだな」
面白い。
私が、面白い。
壁の向こうにいるはずの人間に、そんなことを言われたのは初めてだった。「綺麗だね」は何度も言われた。「近寄りがたい」も。「冷たい」も。
でも、「面白い」は、初めてだった。
壁の外側じゃなくて、中の私を見て、そう言った。方向音痴で、弁当のおかずを「一つだけ」と言いながら二つ取って、キャンプファイヤーで「楽しかった」と口を滑らせる、そんな私を見て。
......面白い、か。
変な人。本当に、変な人。壁を壊しにくるわけでもない。無理やりこじ開けるわけでもない。ただ隣にいて、迷ったら迎えに来て、弁当のおかずを分けてくれる。
それだけなのに。
それだけなのに、壁が意味をなさなくなる。
嬉しいのに、苦しい。なんでだろう。近づきたいのに、近づくのが怖い。また離れることになったら。また「いなくなる」ことになったら。
でも。
今は。
「......嫌じゃ、ない」
布団の中で、声に出した。誰にも聞こえない声で。
藤宮の隣にいることが。毎日顔を合わせることが。LINEで「了解。今行く」と返ってくることが。
......嫌じゃ、ない。
それは「好き」とは違う。たぶん、違う。まだ、そんな名前はつけられない。
でも。
枕に顔を埋めて、目を閉じる。
月曜日が、少しだけ楽しみな自分がいる。
......それくらいは、許してもいいと思った。




