面白いやつ
体育祭の翌日、金曜日。
朝起きた瞬間、体が悲鳴を上げた。太ももが重い。ふくらはぎが張っている。階段を降りるたびに膝が笑う。リレーで全力疾走したツケが一晩で回ってきた。
弁当を作る手は問題ないが、足がまるで使い物にならない。通学路の緩やかな坂道が、今日に限っては登山だった。
「そうくん、大丈夫? 歩くの遅いよ?」
「筋肉痛」
「あはは! そうくん、昨日すごかったもんね! リレーのラストスパート、かっこよかったよ!」
「その分、今日のダメージがでかい」
ひなたと並んで歩く。いつもの半分くらいの速度だ。ひなたは全然平気そうな顔をしている。あいつは借り物競走で走っただけだから、ダメージが少ないのだろう。
教室に着くと、桐生が机に突っ伏していた。
「蒼太......俺、死ぬ......」
「生きてるだろ」
「全身筋肉痛......玉入れで腕を上げすぎた......」
「玉入れでそこまでなるか?」
「100個入れるって宣言したから......」
「何個入ったんだよ」
「......3個」
97個分の無駄な動きをしたらしい。桐生の効率の悪さには定評がある。
秋月が教室に入ってきた。いつもと同じ時間に、いつもと同じ足取りで。表面上は何も変わらない。姿勢がいい。歩き方に乱れがない。筋肉痛の気配すら見せない。
さすがだな、と思った。
* * *
3時間目が終わって、移動教室のために廊下に出た。
階段の手前で、秋月が立ち止まっていた。
いつもなら迷子のサインだが、今日は違う。秋月は階段の下を見つめて、一段目に足を置いて、止まっている。
俺が横に並んだ。秋月がちらっとこちらを見て、すぐに視線を階段に戻した。
「秋月?」
「......何でもない」
秋月が一段目を降りた。2段目に足を移す。その瞬間、左足がもつれた。
体が前に傾く。
俺は咄嗟に秋月の腕を掴んだ。秋月の体が止まる。危なかった。階段から落ちるところだった。
秋月が俺の手を見て、自分の足を見て、もう一度俺の手を見た。
「......大丈夫。筋肉痛じゃない」
「嘘つけ、二人三脚のやりすぎだろ」
秋月の目がわずかに大きくなった。図星だ。
「......違う」
「じゃあなんで階段で足がもつれたんだ」
「......たまたま」
出た。秋月の必殺技「たまたま」。方向音痴の時から進歩していない。
「お前の『たまたま』は信用できないって、前にも言わなかったか」
「......言ってない」
「言った」
「......記憶にない」
秋月が顔を背けた。階段の手すりに手をかけて、慎重に一段ずつ降りている。普段の秋月は音もなく歩くタイプだが、今日は一歩ごとに微かな間がある。足を庇っているのだ。
俺は秋月の半歩後ろを歩いた。いつもは秋月が俺の半歩後ろをついてくるのに、今日は逆だ。
秋月がそれに気づいたのか、ちらっと振り返った。
「......何してるの」
「別に。たまたま後ろを歩いてるだけ」
「............」
秋月が黙った。俺の「たまたま」には反論しにくいらしい。自分が散々使ってきた言葉だからだ。
階段を降り切って、秋月の足取りが少し安定した。平地なら大丈夫らしい。
* * *
放課後。
帰り道は、最近は秋月と途中まで同じルートを歩くことが多い。学校の正門を出て、最初の信号まで。そこで秋月は右に曲がり、俺は左に曲がる。
ひなたが今日は料理部の活動日で先に帰れないから、俺は一人で──いや、秋月と2人で歩いていた。
夕方の風が心地いい。5月の終わりにしてはやや涼しい風で、歩くのが気持ちいい。足は相変わらず重いが、朝よりはましになった。
秋月は俺の半歩後ろを歩いている。いつもの距離だ。足音は相変わらず小さい。
ふと、思ったことが口から出た。
「秋月って、意外と面白いやつだな」
言ってから、しまった、と思った。
何が「面白い」なのか、自分でも説明できない。方向音痴で、嘘が下手で、「たまたま」を連発して、筋肉痛を隠せなくて、マシュマロの焼き方を知らなくて、リレーの応援で立ち上がったことを全力で否定する。そういうのが全部ひっくるめて、面白い。
だがそれを説明するのは難しいし、説明したら秋月が怒る気がする。
「......面白い?」
秋月が聞き返した。声にわずかな困惑が混じっている。立ち止まりはしなかったが、歩く速度が少し落ちた。
「あ、いや、いい意味で」
「......いい意味の面白いって、何」
「えっと、その」
説明できない。面白いは面白いとしか言いようがない。
「つまり、その、飽きない、っていうか」
「......飽きない」
「退屈じゃない。一緒にいて」
言ってから、自分の言葉に驚いた。一緒にいて退屈じゃない。それは事実だが、面と向かって言う台詞じゃない。
秋月が足を止めた。
俺も止まった。振り返る。秋月は俺を見ていた。正面から。秋月が正面から俺を見るのは珍しい。透明な瞳が、夕日のオレンジを反射していた。
数秒の間。
秋月が視線を落とした。それから、少し考えるように唇を動かして、言った。
「......変な人」
その声は、前に教室で言われた時とは少し違った。前は突き放すような響きだった。今日のは、どこか柔らかい。
「それ、お前の口癖だな」
俺が笑うと、秋月は「......口癖じゃない」と否定した。否定したが、視線を逸らす速度がいつもより遅い。
歩き始める。信号が見えてきた。ここで右と左に分かれる。いつもの分岐点だ。
信号が赤に変わって、立ち止まった。秋月が隣に並ぶ。手のひら二つ分の距離。
「秋月、足は大丈夫か。帰り道」
「......大丈夫。迷わない」
「いや、筋肉痛の話なんだが」
「......それも大丈夫」
信号が青に変わった。
俺は左に、秋月は右に。いつも通り、言葉少なに別れる。
だが今日は、秋月がいつもより少しだけ長く俺の方を見ていた。
半歩。一歩。目が合ったまま。秋月の表情は無表情だ。いつもと変わらない。変わらないのに、その目の奥に何かがあった。何かというか──昨日のキャンプファイヤーの火みたいな、小さくて温かいものが。
それから秋月は背を向けた。長い黒髪が揺れて、夕日の中を歩いていく。
振り返らなかった。
俺も振り返らなかった。左に歩き出して、そのまま家に向かう。
面白いやつ。変な人。
互いの呼び方が見つかったわけじゃない。秋月は秋月だし、俺は藤宮だ。でも、何かが少しだけ変わった。何がどう変わったのかは、まだうまく言葉にできない。
帰り道、筋肉痛の足を引きずりながら、俺はぼんやり考えていた。
4月の始業式から2ヶ月弱。隣の席の秋月は相変わらず無口で、相変わらず方向音痴で、相変わらず「別に」と「そう」と「たまたま」を繰り返している。
でも、最初の頃とは違う。何がとは言えないけれど、違う。
家に着いて、玄関のドアを開ける。靴を脱ぎながら、ふと笑った。
秋月は「面白い」と言われたことがないと言っていた。
じゃあ俺が最初なのか。
それは、なんとなく悪くない気分だった。




