ゴール
午後の部。二人三脚。
グラウンドの直線コースに白線が引かれ、4レーンが並んでいる。2組ずつのトーナメント形式で、初戦の相手は2年1組のペアだった。
スタートラインの手前で、秋月と足を紐で結ぶ。練習を重ねたおかげで、もう手際は慣れたものだ。秋月も足首に触れられて動揺するようなことはない。
ないはずだが、耳の先がほんのり赤い。日差しのせいだろう。5月の太陽は意外と強い。
「秋月、いけるか」
「......聞かなくていい」
それは「いける」の意味だと、最近は翻訳なしでわかるようになった。
秋月が俺の腕に手を回す。練習の時より力が入っている。秋月の体温が腕越しに伝わってきた。
「......競技のためだから」
「知ってる」
笛が鳴った。
右。左。右。左。
秋月の足が俺の足に完璧に合っている。声を出さなくても、体の傾きと重心の移動だけでタイミングがわかる。練習では5回に1回は足がもつれたのに、本番では一度もズレない。
隣のレーンの1組ペアが3歩目でつまずいた。俺たちは引き離す。
20m。30m。ゴールが近い。
あと5mというところで、秋月の足がもつれた。
右足が地面の窪みを踏んだのだ。秋月の体が前に傾く。紐で繋がった俺の体も引っ張られる。
咄嗟に、左腕で秋月の体を支えた。秋月の肩を抱くような形になる。秋月が俺の腕を掴む。爪が食い込むくらい強く。
止まらない。止まったら負ける。
俺は秋月を支えたまま、残りの5mを走り切った。
「ゴール! 2年3組!」
放送の声が聞こえた。歓声が上がる。
ゴールラインを越えて、俺たちは止まった。息が上がっている。秋月の髪が風で乱れて、頬に張り付いていた。
秋月がまだ俺の腕を掴んでいる。
掴んでいる、というより、離せなくなっているようだった。指が白くなるくらい力が入っている。秋月の呼吸が速い。走ったせいだろう。
「秋月、大丈夫か」
「......大丈夫」
声は落ち着いているが、手は離れない。
スタンドから桐生の声が聞こえた。
「おーい! もう離していいぞー!」
秋月が弾かれるように手を離した。一瞬で俺から50cmくらい距離を取る。紐で繋がっているから、それ以上は物理的に離れられない。
秋月の顔は正面を向いている。目は合わない。耳が赤い。首筋まで赤い。これは日差しのせいじゃない。
「......紐、解いて」
「ああ」
しゃがんで紐を解く。秋月の足首に、紐の跡が赤く残っていた。
結果は2位通過。決勝では1組のもう一つのペアに負けたが、全体では2位だった。上出来だろう。
秋月は結果を聞いて「......そう」と言った。いつもの「そう」よりほんの少しだけ、語尾が上がっていた気がする。
* * *
午後の最終種目。クラス対抗リレー。
俺はアンカーとしてバトンゾーンに立っている。3組は現在3位。前を走る1組と2組の背中が見える。4組は少し離れた。
第3走者の橋本がカーブを曲がってくる。必死の形相だ。2位の1組との差は5mくらい。
バトンが手に渡った瞬間、俺は地面を蹴った。
風が耳元を切る。前の走者の背中がぐんぐん近づく。1組のアンカーを最後の直線で抜いた。1位の2組には届かなかったが、2位でゴール。
ゴールラインを越えて、速度を落とす。肺が燃えるように熱い。膝に手をついて、息を整えた。
スタンドから歓声が聞こえる。2年3組の青いハチマキが揺れている。桐生が立ち上がって何か叫んでいるが、遠くて聞こえない。
ふと、スタンドの一角に目が止まった。
秋月が立っていた。
周囲の生徒は座っているのに、秋月だけが立っている。グラウンドの方を見ている。俺の方を見ている。
秋月の隣にいたつぐみが、何か言った。俺のいる位置からは聞こえないが、つぐみの口の動きで何となくわかった。
──凛、立ってるよ。
秋月が「......座ってる」と言ったのも、口の動きでわかった。
立っている。明らかに立っている。座っていない。
秋月はそのまま2秒くらい立ち続けて、それからゆっくりと腰を下ろした。何事もなかったような顔で、ペットボトルのお茶を飲んでいる。
俺は少し笑いそうになったが、我慢した。
* * *
リレーが終わって、俺がスタンドに戻ると、秋月が水筒を差し出してきた。
俺の方を見ないで、手だけを横に伸ばしている。視線はグラウンドに向いたままだ。
「......喉、乾いたでしょ」
小さな声だった。
俺は自分の水筒を持っていたが、秋月がわざわざ差し出したものを断るのも変な話だ。
「ああ、サンキュー」
受け取って、飲んだ。麦茶だった。冷えていて美味い。走った後の体に染み渡る。
水筒を返す。秋月は受け取って、自分の膝の上に置いた。
「2位だったな」
「......見てない」
「さっき立ち上がってただろ」
「......立ってない」
「立ってた。つぐみにも指摘されてた」
「............」
秋月の指が水筒の蓋をいじっている。視線は下を向いたままだ。
「......走るの、速いのね」
「まあ、一応」
「......一応」
秋月がそれだけ呟いて、黙った。
しばらくして、つぐみが俺の横に来た。
「藤宮、ナイスラン」
「おう。サンキュー」
「ところで、さっき凛の水筒で飲んでたでしょ」
「ああ。差してくれたから」
「それ、間接キスなんだけど」
つぐみの声は小さかったが、秋月には聞こえたらしい。
秋月の動きが止まった。水筒の蓋をいじっていた指が、固まった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、秋月の首筋から耳にかけて赤みが広がっていく。リアルタイムで赤くなるのを目の当たりにした。
「......」
秋月は無言のまま、水筒をスクールバッグの中に押し込んだ。乱暴な動きだった。秋月にしては珍しい。
俺は間接キスとか考えたこともなかった。水筒で水を飲んだだけだ。
「白河、それ本人の前で言うことか?」
「え、だって面白いんだもん」
「面白くない。秋月が固まってるだろ」
「......固まってない」
秋月が小さく言ったが、声が裏返っていた。
つぐみが肩をすくめた。俺はため息をついて、自分の水筒から水を飲んだ。
秋月はそれから30分くらい、水筒に触ろうとしなかった。




